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18.ずっと一緒にいたい
ニュースによると、もうすぐ梅雨入りらしい。昨年の秋にスタートしたリハビリという名のただの食事会はもはや定例と化していて、その日は久しぶりに都合がついたという彼も一緒だった。
繁華街から離れた住宅街の中の小さなお店は、いつものごとく菜月のチョイス。そのころにはりくも僕たちの前で少しだけお酒を飲むようになっていて、おいしい食事と会話を楽しんだ。
四人ではまだ数えるくらいしか会っていなかったと思うけれど、彼とりくは意外と気が合うようだった。りくは僕の楽曲やYouTubeチャンネルを気に入ってくれているらしく、自称『奏のファン一号』の彼と話が弾むようで、菜月と僕は若干置いてけぼりにされていた。
「本人を目の間にして、本人を放置して『推し活』で盛り上がる…変な二人ね…」
菜月はグラスを傾けながら、呆れたように言う。
「りくはともかく、悠人が僕を『推し』てどうすんの。一緒に作ってんのに」
「何言ってんの。君の相方は昔からあんな感じでしょ」
「そうかな?」
「……」
僕はその感覚があまりよくわからなかったので、いつまでもよく話が尽きないなぁと思って二人をながめているだけだったけれど、そんな僕にますます菜月は疲労を濃くしたみたいだった。
さすがにちょっと悪いかな、と思って、僕は話題を変えてみる。
「でも、りくもだいぶ慣れたね」
「うん、家でも話してた。自分が男性と二人きりで話したり、お酒を飲んだりできるなんて、思ってなかったって」
「まぁ、悠人も僕も菜月の友達だからね」
「うん、でも第一歩だよ。本当に感謝」
リハビリと言いつつ、自分はただ友人と飲みに来ているだけで、何もしていなかったので、そう言われて僕は困ってしまったけれど、それが菜月やりくの役に立ったのならよかったと思った。
「あー私の出番も終わっちゃうかなー」
菜月が少し寂しそうにそうこぼすと、いつからこちらの話を聞いていたのか、
「そんなことないよ!」
突然、りくが立ち上がって、彼女にしては大きな声を出したので、りく以外の三人は驚いてりくの顔を見た。
「男の人が怖くなくなっても、夜電車に乗れるようになっても、これまでずっとそばにいて支えてくれた菜月ちゃんは菜月ちゃんだよ。菜月ちゃんが私を好きでいてくれる気持ちと、私の気持ちが同じなのかは自分でもわからないけど、私は菜月ちゃんとずっと一緒にいたいと思ってるよ!」
すこし赤い顔でまっすぐに菜月を見つめ、そう一気に言ってのけたりくはなんだかかっこよくて、
「……」
彼と僕はなぜか顔を見合わせてから、二人に拍手を贈った。
大きく開かれた菜月の目からは、涙がこぼれていた。
「菜月が泣いたとこ、馬鹿笑い以外で初めて見た…」
彼が茫然として呟いたので、それを漏れ聞いた僕はつい笑ってしまった。
「君たち、これ、結構いい場面なんだけど」
菜月は涙を指先でぬぐいながら文句を言ったが、それはただの照れ隠しのような気がした。
りくはちょっと冷静になって恥ずかしくなったのか、
「あ…、その、ごめんなさい…」
消え入りそうな声でそう言いいながら丁寧に椅子に座り直し、うつむいてしまった。
「りく、謝んないで。私が悪かったんだから」
「うんうん、菜月が悪い」
「誰も悪くないよ」
ボトルのワインを手酌で注ぎながら調子に乗る彼を、僕は視線でたしなめたが、効果はないみたいだ。
「菜月はもっと自分の幸せを自覚するべきだよ。俺も奏にそんなこと言ってもらいたい」
「…どさくさに紛れたね」
すかさず突っ込みを入れる菜月。この二人は、出会い頭からそうだったけれど、あまり仲がよくなさそうに見えて、たぶん息が合っているんだろうな、となんだか懐かしく思う。
「俺も、奏に、言ってもらいたいなー」
スルーしようとしていたのに、彼がわざとらしく言葉を区切って言うので、僕は面倒になって、
「あとで言ってあげるから、今は黙ってて」
ついそう言ってしまった。
「ほんと? なら黙ってるー」
「その内容、あとで教えてね、遥」
「えーどうしよっかなー」
学生時代から変わらない僕たちのしょうもないやりとりに、いつの間にか、りくの顔にも笑顔が戻っていた。
コースの最後のデザートを堪能してから、僕たちはお店をあとにした。
お店を出ると、小雨が降っていた。りくが電車に乗れないという事情もあり、菜月とりくの二人はタクシーを呼んで帰って行った。
僕は折りたたみ傘を持っていたし、もともと電車で来ていたから、少し遠いけれど駅まで歩くと彼に伝えたら、
「酔い覚ましに俺も歩こうかな」
小さな傘を二人で差して歩くことになってしまった。
季節としては夏に差し掛かっていたけれど、雨の空気は少し肌寒いくらいに感じられた。それでも、さきほどのりくの言葉にまだ気持ちが持っていかれていて、たしかに、ここですぐに別れてしまうにはもったいないような夜だった。
それは彼も同じだったようで、
「なんか、いいもの、見せてもらったね」
そう感慨深げに言った。
「あの二人、きっと幸せになるよ」
街灯に光る雨の筋を何とはなしに見つめながら、僕が願いを込めるようにそう言ったら、彼が静かに「うん」と言ったのが聞こえて、なんだか嬉しくなった。あまり飲んだつもりはなかったけれど、お酒にほてったような頬を、夜の風が通り過ぎていくのを感じた。
会話もなく、片方の肩を雨に濡らしながら、それでも僕たちの足取りは早くならない。むしろこの時間を心地よく感じながら、こうして二人でいるのはずいぶん久しぶりのような気がして、ちらりと彼の横顔を見る。
これまでだって、これくらいの期間、会わないことはあったはずなのに、そのように感じるのは、なぜだろう。彼の舞台は先月千秋楽を迎えていたようだったが、そのあとも彼から連絡は来なかった。MUSIC FOR ALL YOUの打ち上げで話していた楽曲は、まだ完成していない。
「ねぇ、さっきの、言ってくれるんでしょ?」
不意に彼が思い出したように言うので、
「…何だっけ?」
僕はとりあえずとぼけてみる。
「その言い方は覚えてるね」
「さすが、長い付き合い」
どうやらごまかせないみたいだ。
「冗談じゃなかったんだ」
あのときは適当に流したけれど、あれはあの場の雰囲気を変えるために、彼がわざとふざけて言ったのだろうと思っていた。
「冗談のつもりだったんだけど、せっかくだから、何か言ってもらおうかなって」
そういたずらっぽく言って笑った彼の表情は芝居がかって見えて、なんとなくだけど、僕は違和感を覚えた。
言葉で伝え合わなくてもわかりあえている、なんて言うつもりはない。人は少しでも確かなものを求めたがる。けれど、彼がこんな風に言葉を欲しがるなんて、少し意外なような気がした。
たぶん一年半くらい前、僕がまだ彼女と付き合っていたころ、彼は彼女と別れたみたいだった。それから、たぶんだけど、彼が新しい彼女と付き合っている様子はない。
彼にも、一人で寂しくなったり、不安になったりするときがあるんだろうか。言葉で安心したいときがあるんだろうか。
「何かって言われてもなぁ…」
りくは菜月に『ずっと一緒にいたいと思ってるよ』と言っていたけれど、その言葉をそのまま言ってもあまり意味がないように思えて、僕はどうすれば彼の期待に応えられるのか、思いを巡らせた。
高校生のころから、基本的に僕たちのスタンスは変わっていない。一緒に音楽を作る。それは、たぶん何かのためではなく、ただ二人で音楽を作るためだけに。その時間は僕たちだけのものだけれど、それ以外はそんなにいつも一緒にいるわけではない。一般的には『友達』とか『親友』とか呼ばれるのかもしれないが、彼も僕もたぶんその言葉に違和感がある。
そんな僕たちの関係性をこれからも続けていくことを『ずっと一緒にいる』と言うのだろうか。
水たまりに街灯の光と雨粒の波紋が揺れる。静かな雨音を同じ傘の下で聞きながら、肩が触れるくらいの距離を感じながら、僕たちはゆっくりと歩く。
雨の音が音楽みたいだ。いや、雨だけじゃない。彼といると、いろんなものが音楽のように僕を震わす。モノクロの風景があざやかに彩られるみたいに、彼と僕の間にいろんな音が響いてくる。
ぽつり、ぽつり…。この雨が一粒ずつ僕たちに降り注ぐように、自分の思いを一つずつ確認するみたいに、僕は言葉を紡いだ。
「悠人と音楽するのって、特別なんだ」
彼が僕の方をちらりと見るのを、気配で感じた。
「いろんな人と音楽をするようになったけど、何かが違う。仕事だからとかじゃなくて」
「…たぶん、わかるよ」
「これからもずっと悠人と音楽していければいいなって思う。…でもね、」
話しながら、なぜか、高校生のころの彼の声が耳をかすめた。
あの春、桜の舞う校庭で、初めて僕を見付けてくれたのは、彼だった。夏休みのあの部屋で、僕に夢と覚悟をくれたのも。
あのころの彼の声と、今の彼の声は少し違うけれど、僕は鮮明に思い出せる。
もし僕の耳が聞こえなくなっても、僕のすべてが彼の声を覚えている。もし僕の指が動かなくなっても、僕の心は彼の声を思って音を紡ぐだろう。
「うまく言えないんだけど…」
僕はそのまま前を向いて歩きながら、心からこぼれ出るままに、静かな気持ちで言葉を続けた。
「例えば、もし音楽ができなくなったとしても、僕は死ぬまであんたの声を聞いてると思う。それって、『ずっと一緒にいる』ことにならない?」
「……」
僕が歩いているのに、彼が何も言わずに急に立ち止まったから、
「ちょっと、濡れるよ」
僕は振り返って彼に傘を差し向けた。
彼がねだるから、僕なりに考えて言ってみたのに、お気に召さなかったのか、それともただ単に恥ずかしいのか、彼は黙り込んでいる。
傘は一つしかない。いぶかしみながら、僕が数歩戻って彼の方に近づいたら、突然、彼は僕の手から傘を奪い、その陰で街灯の明かりから僕たちを隠すようにして、そっとその唇を僕の唇に重ねた。
「……」
僕は動けなかった。触れるだけの口づけは、優しく、温かった。
ずいぶん昔にも彼とキスしたな。あれも雨の夜だった。そんなことをどこか遠くで思った。
束の間のあと、彼はゆっくりと顔を離した。その表情は、僕をからかうようでも、優しい微笑みでもなく、今にも泣きだしてしまいそうに見えて、僕はやっと正気に戻った。
「…悠人?」
僕が名前を呼ぶと、
「ごめん」
彼も我に返ったようにそう言って、押し付けるように傘を僕に返し、雨に濡れるのも構わずに先に歩き出した。
一瞬、どうしようかと戸惑ったけれど、このまま雨の中を歩かせるわけにもいかないだろう。急いで彼のあとを追いかけ、彼に傘を差しかけて歩いた。
さっきまでと同じように肩と肩が触れるくらいに近くにいるのに、さっきとは違って彼を遠くに感じる。次の角を曲がると、線路の高架沿いの道になる。辺りの店はもうシャッターを下ろしてひっそりとしていたけれど、それでも街灯が増えて明るくなってきた。きっともうすぐ駅についてしまうだろう。
夜の灯りに映る彼の横顔は、表情がなくて、怖いくらいにきれいで、テレビの中の彼を見ているようだった。このまま彼を帰してはいけないような気がした。
「悠人」
「何?」
その声は冷たく、こちらを見ようともしない。怖気づきそうになるが、ここで引き下がれない。
「どうしたの?」
「どうもしないよ。ちょっと飲みすぎたかな」
あくまでもしらばっくれるつもりなのか、その態度はかたくなで僕を苛つかせた。
「…ずるいよ」
「だから、ごめんって」
「謝らなくていい」
「じゃあ、もうほっといて」
「…ほっとけないよ」
僕は彼の手を取ってその歩みを止めると、そのまま手を引いて雨をしのげるように高架下の通路に入った。彼はその場に突っ立ったまま、僕がたんたんと傘を畳むのを黙って見ていたけれど、しばらくすると、あきらめたように小さく息をついて通路の壁にもたれかかり、その場にしゃがみ込んだ。
「頼むから、許してよ…。もう、しないから…」
いつもは飄々と格好をつけている彼が、小さく丸くなってうなだれているのがなんだか可愛くて、ちょっとかわいそうで、僕は彼に歩み寄って、その頭を手のひらでぽんぽんと叩いた。
「あんたのことなんか、全部、許してるよ」
思えば、彼と出会ってからとうに十数年が経っているが、彼のこんな様子を見るのは、初めてかもしれない。
僕は言葉に迷いながら、口を開いた。
「…苦しいの?」
「…うん…」
「僕にどうにかできる?」
「…わかんない…」
「…そばにいてもいい?」
「……」
彼は黙りこんで返事をしなかった。けれど、否定もされなかったから、僕は彼に倣うように彼のすぐ隣にしゃがみ込み、壁にもたれかかった。背中がひんやりと冷たかった。
彼はうずくまったまま、両腕の間に顔を隠して、動かなかった。しばらくの間、僕は何も言わずに、ただ夜の雨と彼の呼吸の気配を感じていた。
不思議と、気持ちは落ち着いていた。昔、大学生のころ、初めて彼とキスしたときはあんなに動揺したのに。そんな場合でもないだろうに、思い出して懐かしくなる。
あのときは怖かった。僕は恋がわからない。もし彼が僕に恋愛感情を抱いていたらどうしよう。このまま一緒にはいられないんじゃないか。たぶんそんな風に思って、ただ怖くて何もできなかった。
でも、今はそうじゃない。
これまで、彼も含めていろんな人と出会ってきて、僕はやっとなんとなく気づいてきた。人は、簡単に、一概に、『恋』を口にするけれど、それはとても不確かで、人によっても、そのときどきでも違ってくる。そして、恋に限らず、人の気持ちはきっとすべて異なるし、ささいなことで揺れ動いて、変わっていく。
それに無理に名前をつけたり、既存の概念に分類したりしなくてもいいんじゃないだろうか。
『恋でも、恋じゃなくても』
かつて、そう言ってくれたのは、彼だった。
もし誰かから、僕の彼に対する気持ちや、彼の僕に対する気持ちが恋だと言われても、そうかもしれないとは思うけれど、やっぱりよくわからない。
けれど、僕はもう怖いとは思わない。
その気持ちがよくわからなくたって、何だって、ただ僕が彼を、彼が僕を『好き』というだけでいい。ただ、そのままを受け入れて、大切にしていきたい。彼となら、それをお互いに認め合って、『ずっと一緒にいる』ことができると思うから。
(きっと、それだけで十分なんだよ)
僕は彼の肩に頭を預けるようにして、そっと彼の身体に寄り添った。その手に触れたいなと思ったけれど、なんとなく手を動かせなった。
もう何度目か、電車の音と振動が近付いてきたとき、
「…俺、おかしいのかな…」
不意に彼が呟いた。
「…お前とずっと一緒にいたいだけなのに、どうしてキスしたくなるんだろう…」
雨と電車の音に吸い込まれてしまいそうな声だった。
「…それって、おかしいの?」
「……」
「なら、いやだと思わないのも、おかしい?」
「…いやじゃないの?」
「いやじゃないよ。…たぶん、あんたに何されても、いやじゃない」
「そんなこと言ったら、何するかわかんないよ」
「いいよ。…確かめてみる?」
彼はいぶかしむように僕の方を見た。僕はその頬にそっと指先で触れ、微笑んで見せた。
「おかしいのか、どうしてしたいのか、わかるかな」
「…お前こそ、ずるいよ…」
眉間にしわを寄せてもきれいな顔だな、と思いながら、僕は彼を誘うようにそっと目を閉じた。ためらうようにゆっくりと唇が重ねられ、そしてすぐに離れた。
「何かわかった?」
「…わかるわけないじゃん」
「やっぱり?」
彼の答えに僕は笑ってそう言った。彼はむすっとして僕の方をみていたけれど、僕はそれを無視してその手を引いて彼を立ち上がらせ、そっとその身体を抱きしめた。
おかしいか、おかしくないかなんて、僕にはわからない。けれど、僕は彼を否定したりしない。
彼は一度だって僕を否定しなかった。僕が恋もキスもセックスもしないことを、おかしいと言ったり、どうしてと問い詰めたりもしなかった。いつだって、ありのままの僕を受け入れて、認めてくれた。だから、今、僕はここにこうしていられる。
これまでずっと彼がそうしてくれたように、それで僕が救われてきたように、僕も彼にそうしてあげたい。ありのままの彼をただ受け入れたい。
彼の両腕がおずおずと僕の背中に回された。大丈夫だよ。僕はぽんぽんとその背中をたたいた。
「別にいいんじゃない。あんたがしたいって思って、僕がいやじゃないなら、特に問題はないでしょ」
「…なにそれ、いい加減…」
彼がそう言って苦笑する。やっと笑ってくれたことに安心して、僕が身体を離そうとすると、彼はまだだめだと言うようにぎゅっとその腕に力を込めた。
僕はそっと彼の髪を撫でた。いつか、彼が僕にしてくれたみたいに、子どもをあやすように、優しく包み込むように。彼の肩は少し雨に濡れていて、きっと僕も同じだろうなと思ったけれど、僕は気づかないふりをした。
彼の首筋に顔をうずめて、その温もりを感じて、僕はふと思った。
「あんたが僕にキスしたいのって、僕があんたと音楽したいのと、似てるのかもしれないね」
数年前、自分がアセクシャルであることを両親にカミングアウトした帰り道、衝動的に彼に電話したことを僕は思い出していた。
彼と音楽をするのはいつだって楽しいけれど、思えば、大きく感情が動いたとき、ふいに僕は彼と音楽を作りたくなるみたいだ。例えば、美しい景色を見たとき、小説の描写に心を動かされたとき、ふとテレビで彼を見かけてなんだか寂しくなったとき…。
僕たちの音楽は、二人だけで作る。二人だけでスタジオに閉じこもって、お互いの脳内をさらけ出して、できるかぎりの感覚を伝え合って、感じ合う作業だ。世界に二人だけみたいになって、他のことはどうでもよくなって、ただ二人の作品を作ることだけに没頭する。僕だけの彼の姿を見て、僕だけの彼の声を聞いて、僕はその濃密な時間に満足する。
彼の腕の中で彼の温もりを感じながら、そんなことを考えて、僕はなんだか背筋がぞくぞくした。
彼は自分のことを『おかしい』なんて言うけれど、それを言うなら、僕の方がよっぽどおかしいのかもしれない。
そう思って僕がくすりと笑ったのが聞こえてしまったのか、彼が不思議そうな目でこちらを見たので、僕はとっさに謝った。
「ごめん、ちょっと変なこと、考えた」
「どんなこと?」
「あんたは全然違うって言うかもしれないけどさ、」
僕も酔っぱらっていたのだろうか。どうして突然こんなことを思ったのか、自分でも不思議で、小さく笑いながら彼に聞いてみた。
「共作の作業って、もしかしてキスよりセックスに似てる? 経験もないのにこんなこと思うなんて、それこそおかしいかな」
彼の肩に額をくっつけたまま、まだくすくすと笑っている僕の頭に彼の手が触れて、促されるままに顔をあげたら、またちゅっと軽いキスをされた。
「…おかしくないよ。俺もそう思ってた」
ささやくようにそう言って、また口づける。今度は長いキス。角度を変えながら、何度も続く。
唇を舌で舐められて、おずおずと小さく口を開いたら、口づけは深くなって、そうなるともうだめだった。くすぐったくて、頭がふわふわとして、身体の力が抜けてしまう。
「…あ…」
不意に唇が離れたと思ったら、
「一年も付き合ってたのに、しなかったの」
額と鼻先をくっつけたまま、彼が言う。
一瞬、何のことを聞かれているのかわからなかったけれど、すこし考えて、さっき僕が『経験がない』と言ったことだろうと思い至った。
そんなこと、僕にとってはもうどうでもよくて、もっと彼とくっついていないと身体が崩れ落ちてしまいそうで、彼の背中にまわした腕にぎゅっと力をこめたけれど、彼は許してくれなかった。
「答えてよ。セックスした? 俺以外の奴とこんな風にキスしたの?」
唇と唇が触れそうなくらいの距離で、囁くみたいに言いながら、彼の手が僕の耳や首筋をそっと撫でる。
背筋がぞくぞくして、もう目を開けていることもできない。
「…してない…、悠人としかしてない…。悠人だけ…」
操られるみたいに言葉を紡ぐ。
言い終わるか否かの内に、また深く唇が重ねられて、僕はその官能に酔い痴れた。
「…ん…、あ…」
こんなところで、誰かに見られたらどうするんだろう。こんな風になってしまって、このあと、どうすればいいんだろう。
頭の片隅でそんなことを考えていたけれど、
「奏…」
キスの合間、吐息混じりの低い声に名前を呼ばれて、そんなひとかけらの理性もどこかに消えてしまいそうだった。
「…ん…」
濃厚な口づけ。口の中を舐められて、舌を絡め合って、だんだんと頭がぼんやりしてくる。
気持ちいい。くらくらする。息ができない。でも、やめたくない。ずっと、こうしていたい。
「…はると…」
もう自力で立っていられなくなりそうで、彼にすがりつくように身体を寄せた。彼の身体が熱くなっているのがわかったけれど、気にしなかった。ただ、離れたくなくて、もし彼が望むのであれば、そうなってもいいと思った。
けれど、終わりは唐突に訪れた。
そっと唇が離れる。
「…悠人…?」
彼の名前を呼んで問いかけたら、目をそらされた。
彼は僕の身体を支えながら、小さくため息をついて、
「…送るから、タクシー呼ぶね」
そう言うと、すっと身体を離し、ポケットからスマホを取り出した。
「…電車で帰れるよ」
「そんな顔で電車なんか乗せらんないよ」
自分がどんな顔をしているのか、彼を引き止めたいのかもわからなくて、僕が答えられずにいると、彼はさっさとアプリでタクシーを呼んだみたいだった。
「…帰るの?」
「その方がいい」
未練がましく問いかけた僕の方を、彼は見なかった。
もう夜中と言っていいような時間だったけれど、駅が近いからか、それほど待たずにタクシーはやってきた。彼は後部座席に僕を押し込んで自分も隣に座ると、さっさと運転手さんに僕の家の場所を伝えた。車はスムーズに動き出した。
彼は目を閉じて黙り込んでいた。けれど、そのうつむいた横顔は眠ってなんかいないんだろうな、となんとなくわかった。
車窓の街並みが見慣れたものになってきた。もうすぐタクシーは僕のマンションの前に到着する。大通りから住宅街に入り、街灯が少なくなる。タクシーが停車する。ドアが開く。
横目だけをこちらに向けた彼の腕を、僕はとっさにつかんでいた。身体が勝手に動いていた。
「…だから、お前、ずるいよ」
「……」
冷たい彼の表情に、僕はそっと手を離すしかなかった。
「おやすみ」
彼はそう言って、運転手さんに次の行き先を告げた。作り物みたいなきれいな横顔がこちらを向くことは、もうなかった。
タクシーは僕を一人残して、暗い雨の街に消えて行った。
それからしばらくして、彼から作りかけのあの楽曲の歌詞が送られてきた。
いつものとおり、いつもの音楽スタジオで会う約束をして、いつものように共作の作業をした。
彼の声と僕のピアノを重ねたとき、何度も唇を重ねたあの夜のことを思い出したけれど、僕は何も言わなかった。
彼もきっと思い出していたと思うけれど、何も言わなかった。
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