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「優成……」 エントランスの明かりを背にして立つ優成の表情は、ここからは見えなかったが間違いなく笑ってはいないようだった。 それはそうだろう、俺は昨日の夜からほぼ丸一日、優成からの連絡を無視している。 優成は怒っているに違いない……。 それでも、俺も一日中優成のことを考えて悩んできた。 塩野の話を聞いて、ようやく優成とちゃんと話をしたいと思えたところだ。 酔った勢いで話すのはよくないとは思うけど、優成なら聞いてくれるかな。 そう思い、俺が声をかけようと優成を見つめた瞬間だった。 俺より先に優成が口を開いた。 「塩野さんと、楽しく飲んでたんだな」 その声は地を這うように低く、それでいて何の感情もないようだった。 開きかけた口はそのままに、俺の体は一瞬にして恐怖で固まった。 そして、優成が塩野に対しての嫉妬のような感情を持っていたことを、俺は今このときに思い出した。 ──そうだった……それなのに俺、塩野の肩を借りてここまで来ちゃった。 俺は、酔いでフラフラになりながらも塩野から1歩離れた。 「高藤さん、こんばんは。 二人は同じアパートなんすか?めっちゃ仲良しっすね!」 この地獄の空気の中、塩野が呑気に挨拶をした。 ──塩野……今は仲良しなんて言わないでくれよ。 俺は固まった首を何とか塩野に向けて、アハハと乾いた笑いで返した。 しかし、そのあと塩野が俺にしか聞こえない声でポツリと呟いた。 「つまり長年の片思いの相手が先輩?」 「うん? …………っあ!ち、違う!違うぞ!?」 真っ赤になって慌てる俺を見て、塩野は隣でゲラゲラと笑っていた。 俺の背中からは汗が流れ、完全に酔いは冷めきっていた。 ──ガシッ いつの間にか目の前に来ていた優成が、俺の腕を力強く掴んできた。 そして、塩野から離すように体ごと引っ張った。 優成の胸におさまるように立たされ、俺は身動きが取れなくなった。 「塩野さん、ここまで連れてきてもらってありがとうございました。 もう、夜も遅いんでタクシー呼びますよ?」 優成の事務的で有無を言わせないような物言いに、俺と塩野は一瞬で真顔になった。 それでも怖いもの知らずなのか、塩野は優成の顔を見つめてニヤリと笑った。 「いえ、大丈夫です。駅すぐそこなんで。 それにしても、今日は先輩の恋バナに付き合って疲れましたよー」 「っな……?!し、塩野っ!!!」 俺は慌てて塩野に飛びつこうとしたが、優成に掴まれているせいで、動くことができなかった。 「……恋バナ?」 優成が俺を睨みつけてきた。 やっと見えた優成の顔はそれでも暗く、何を考えているのかわからなかった。 しかし、掴まれてる腕は焼けるように痛くて、それだけで優成の怒りが伝わってきた。 「そうなんすよ〜、どうも好きな人の気持ちが信用できないみたいで。 もう、おじさんの恋バナとか勘弁してくださいよ」 「まだおじさんじゃないから!」 俺の必死のツッコミは的外れだったようで、夜の空気の中に消えていった。 そして、塩野は突然真剣な顔をして優成を真正面から見つめた。 「だから、俺は先輩を取って食うつもりないんで」 塩野はそう言い切ると、両手を上げてニヤリと笑った。 「だって俺、風俗のことで頭いっぱいっすから」 「塩野……」 塩野の言葉はふざけているようだったが、俺を助けようとする優しさも伝わってきた。 徐々に優成の手の力も弱まって、さっきまでの怒りが小さくなったのがわかった。 「それじゃあ、俺はこれで失礼します。 おやすみなさーい」 塩野はクルンと回れ右をして、さっき来た道を歩いていった。 俺と優成は何も言わずに、少しの間駅に向かう塩野の背中を眺めていた。 俺たちの横を1台のバイクが走り去って、音が聞こえなくなる頃に、優成がポツリと声をかけてきた。 「塩野さんは、意外と侮れない人だな」 その柔らかい声を聞いて、俺はようやく安心して優成の顔を見上げた。 遠くを見つめる優成が、さっきよりも落ち着いた表情に見える。 「そうかも。塩野は自慢の変態後輩だよ」 俺の塩野への評価に、優成がクスっと笑った。 そして優成は、掴んでいた俺の腕を開放した。 優成の腕の中から1歩距離を空けて、お互いに顔を見合わせる。 優成は眉間にシワを寄せ、困ったような悲しいような表情をしていた。 「…………」 俺は一気に胸が苦しくなった。 こんな弱った優成を俺は見たことがなかったからだ。 優成を悲しくさせてるのが自分だと思うと、今すぐに話をしなければと、気持ちだけが焦る。 「優成……俺、話を……したいんだ」 俺の口からやっと言葉が出てきた。 伝えたいこと、聞きたいことは山ほどあるのに、思いが胸につまって苦しいくらいだ。 「俺……俺は、優成の……」 何かが喉元までこみ上げて、俺はグラグラと体を揺らした。 そんな俺を不審に思ったのか、優成が怪訝そうに声をかけてきた。 「世利、大丈夫か?」 「俺は優成と、話を…………。 ゔっ……ぎもぢわる……」 胸がつまって……息が詰まって……やっと喉から出てきたのは言葉じゃなかった。 ──オボロロロロ…… あぁ、あんな必死に梅きゅうり食べなきゃ良かった……。 「世利!おい、こんなところで吐くなよ!!!」 優成の腕が優しく俺の体を支えると、安心したのかそこで意識を手放した。

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