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棚に置いてある古い時計が、小さな振り子を揺らし6時半を指していた。 トモロウがコーヒーカップを持ち上げた音が、空調の音に混ざってやけに耳に響く。   俺は何も言えずに、上品にカップに口を付けるトモロウをただ眺めていた。 そして、ゆっくりとカップをソーサーに置くと、トモロウは促すように俺を見つめた。 「不幸は、呪いの代償……?」 トモロウの言葉を、俺はそのまま復唱した。 あまりにも聞き馴染みのない言葉に、俺は理解することができなかった。 俺と優成とレイチェルに起きてる不幸、とか言ってたか? 俺が不幸?……冗談だろ。 そんな実感、全くないんだけど……。 いや、待って。 むしろ、今が幸せの絶頂みたいなところあるぞ? 「あなたは不幸を感じないかもしれないわね」 俺が頭を抱えていると、トモロウが小さく呟いた。 そして、俺をおいて話を続けた。 「まずは“呪い”というものを、理解しないといけないわ」 その声は低く、俺の体を硬直させた。 「呪い……」 何度も聞いてきた言葉だ。 でも俺は“呪い”について、何も知らずにいる。 ──いや、そうじゃない。 実際は、知ろうとしてこなかった。 きっと俺は、知らなきゃいけないんだ。 「……呪いのこと、教えてください。 それと俺たちに起きていることを」 トモロウは俺としばらく目を合わせて、そして小さく微笑んだ。 「いいわ、教えてあげる」 俺は体を固くして、次の言葉を待った。 「そもそも呪いとは、発動者が対象に不幸や災いを振りかけることよ」 トモロウの落ち着いた声が、俺の耳に届いた。 それはまるで、辞書でも読んでいるかのように冷たく聞こえた。 「今回のケースだと、発動者がレイチェルと優成さん、そして対象が世利さんよ」 トモロウの長い指先が、ふわりと俺に向けられる。 俺は、トモロウの説明に黙って頷いた。 「優成さんは、知らないうちに発動者になっているわ」 “優成も発動者” レイチェルも以前、優成が原因の一つみたいに言ってたな。 確か、優成の恋愛相談を受けて呪いをやってみた……みたいな。 「この呪いは、レイチェルが優成さんの“執念”を糧に発動させたの。 優成さんの強い思いがなければ、レイチェルは呪いを発動できなかったでしょうね」 執念──その言葉が、喉に引っかかった。 優成の恋愛感情を、そんなふうに呼ばないでほしかった。 それでも俺は、話の続きを促すように、小さく相槌を打つだけにした。 「世利さんには、性転換の呪いが発動しているわ。 厄介なことに、解除には世利さんと発動者──つまり優成さんとの、関係の変化を必要とするわ」 関係の変化。 それは、レイチェルの言っていた「優成の告白への答えを出すこと」だろう。 俺はまた、小さく相槌を打ってトモロウの話に耳を傾けた。 「そして、あなたが知らないことはここからよ。 呪いの発動者は、発動した瞬間から代償を支払うことになるの」 ──呪いの代償 俺の知らない話だ。 レイチェルは俺に代償の話はしなかった。 「……その代償って、なんですか?」 俺の言葉に、トモロウは目を細めて小さく息を吐いた。 そして、少し言いづらそうに言葉を続けた。 「一番大切なもの……。 発動者は、一番大切にしているものを失っているの」 トモロウの言葉に息をのんだ。 優成が、一番大切にしているものを失っている? それって……なんだ? 「レイチェルの場合は、占いの仕事よ」 トモロウは、伏し目がちに口を開いた。 そしてその声は、さっきよりも苦しそうだった。 「優成さんの場合は……」 「……優成は?」 いつの間にか、握った手のひらは汗でじっとりと濡れていた。 トモロウは俺の顔を見てから、ゆっくりと口を開く。 「失ったものは、あなたとの関係よ」 「俺との関係? いや、それはないよ。 だって、俺たち恋人同士になったんだ!」 俺は必死になってトモロウに反論していた。 身を乗り出したせいで、コーヒーカップがカチャカチャと音を立てている。 だって、そんな訳がないんだ。 性転換が始まってからも、俺たちはいつも一緒にいたんだから。 俺たちの関係が失われているなら、今一緒にいることが矛盾してるじゃないか! しかし、トモロウは静かに言葉を続けた。 「そうね。 “恋人”になって、“友情”は失ったのよ」 ──友情?! 「なんだよ、そんなの屁理屈だろ?」 「でも、それが彼が一番大切にしてきたものだったの。 10年間、壊したくなくて守ってきたの」 「いや、でも……」 そんなはず、ない。 俺たちの関係は、前よりもっと親密になっているんだから。 そう思うのに、俺は上手く言葉に出すことができないでいた。 トモロウの言葉にも、説得力を感じてきていたからだ。 「例えば、世利さんが優成さんを振っていたらどうなっていたと思う?」 「……そんなの、俺たちは幼馴染だってことは変わらない!」 いつの間にか、俺は語尾を強めて言い返していた。 最早俺は、トモロウの説明を理解していないというよりは、受け入れたくないという気持ちになっていた。 そんな俺に対して、トモロウは淡々とした口調で答えを返す。 「いいえ。 もし振っていたら、優成さんと世利さんは徐々に関係性が希薄になっていくわ」 「……なんだって?」 「友情は、少しずつ消えているの。 恋人でなくなった瞬間から、あなたたちの接点はなくなっていくわ。 そして、呪いの代償は一生消えることはない」 「……っ!」 トモロウの落ち着いた口振りが、それを真実だと伝えてくるようだった。 俺は胸を強く掴まれたように苦しくなり、息が一瞬止まった。 「そして今回の場合は、もうひとつ代償があるわ」 「……まだあるの?」 無慈悲に話を続けるトモロウに、俺は俯いて小さくため息をついた。 そして、もう一度トモロウに視線を戻した。 「えぇ、あるわ。 それは、発動者同士は二度と出会えないということ。 これは、呪いを発動した者が複数人いた場合、もう二度と協力して災いを起こさせないための代償よ」 「……だから今夜、優成とレイチェルは会えないって知ってたの?」 「そうよ。私とレイチェルは、そのことを知っているわ」 俺は、昼間のLINEのことを思い出した。 優成の都合を知らないはずなのに、『きっと彼は来られないだろうから』と言ったトモロウ。 それは、優成とレイチェルが会えなくなることを知ってたからなんだ。 俺はそのとき前回レイチェルと会ったときのことを思い出した。 「もしかして、この前レイチェルが俺の家に来たのも、その日の夜に優成に会えなかったのも……呪いの代償ってこと?」 「ええ、そうよ。 あの日、レイチェルは優成さんの家に向かっていたのよ。 でも、結果的にあなたの家に行ってしまった。 説明はできないけれど、呪いの代償は絶対なのよ」 あの日、レイチェルがなぜ俺の家に来たのか、それがずっと不思議だった。 それがまさか、呪いの代償だったなんて……。 俺の額からは、汗がじわりと滲んできた。 荒くなる呼吸を抑えようと、自分の口元に手を当てる。 その手すらも、薄っすらと震えていた。 俺は、あまりの恐ろしさに現実を受け止められないでいた。 「顔色が悪いわ。 いきなり話をしすぎたわね」 トモロウが一度席を立ち、棚の中からハンドタオルを出して、そして俺に手渡した。 俺はそれを受け取り、額の汗を拭いた。 タオルから香る知らない匂いが、俺を不安にさせた。 「ごめんなさい、怖い思いをさせているかしら?」 「いえ……はい……、すみません」 動転している俺に、トモロウは優しく声をかけた。 「大丈夫よ。世利さんには、選択肢があるわ」 それは、俺を余計に混乱させる内容だった。 「あなただけは、この因果から抜け出せるのよ」

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