8 / 52

第8話

「大丈夫だ。……どこにも行かないから」 頭を撫でる、温かい掌。 帷が優しく受け入れてくれた時、再び涙が零れた。手を繋いだまま、彼の胸に額だけあてる。 狭い玄関で立ち尽くし、名前のない時間を過ごした。 「迎」 一時間ほど経っただろうか。 明かりを消した居間に戻り、互いに背中を向けてベッドで寝ていた。もう入眠したと思った帷が、突然俺の名前を呼んだ。 「……ん?」 「俺も、ずっと頭の中とっ散らかってる」 彼は「家の中もぐちゃぐちゃだけど」と苦笑混じりで付け足した。 当然だ。恐らく、お母さんが亡くなってからそう日が経ってないのだろう。 精神的にまいっている。このアパートの前で座り込んでいた時も、きっとお母さんのことを思い出していたんだ。 なのに全然力になれていない。むしろ助けてもらってばかりだ。 「ごめん、帷」 自分が許せない。悔しくて情けなくて、歯ぎしりした。 「いっぱいいっぱいな時に、こんな……無理に引き留めて」 段々思考の糸も解けて、気持ちが落ち着いてきた。勢いよく上体を起こし、隣で寝ている帷に向き直る。 「そ、そうだ。悪い、すぐタクシー呼ぶ」 家に帰さないなんて、ほとんど拘束してるようなもんじゃないか。急いでテーブルに置いてるスマホを取ろうとすると、後ろから腕を掴まれた。 「帷?」 「眠いんだ。このまま泊まらせてくれないか」 「で、でも。自分の家の方が、落ち着いて寝られるだろ?」 「家じゃ眠れないんだよ。……色々考えちゃって」 帷の声は低く、抑揚がない。疲労がたまってることは容易に想像できた。 でも、だからこそ申し訳ない。そんな時に家に呼んで、ご飯を作ってもらってたんだから。 けど帷は、俺の思考も全て読み取っていた。 「迎。変なこと考えるなよ」 「変なことって?」 「俺に罪悪感とか覚えてそうだから」 帷は苦笑し、静かに息をついた。 「実際はお前に会えて、すごく楽になった。飯作るときは何もかも忘れられるし……こうして独りで夜明かさずに済むのも、内心ホッとしてんだ」 彼は手を離すと、俺の背中に寄りかかった。重いけど心地良い。独りじゃないと安心できる重さだった。 こんな俺でも、支えることができる人がいる。そう感じられる重さた。 なんて有り難いんだろう。 「独りの夜って悪いことばっか考えるだろ?」 「……そうだな」 帷の言葉に頷く。確かに、夜は恐ろしい。昼間のポジティブどこ行った? って訊きたくなるほど、不透明な未来に押し潰されそうになる。 誰にも助けを求められない。その事実だけで、息が止まりそうになる。 「帷……マジで帰んなくていいの?」 「あぁ。むしろ帰りたくないから、泊まらせてくれ。頼む」 帷はややげんなりした顔で答えた。もう家よりここの方が居心地良いんだ、と頭を押さえている。 「そっか。……ありがとう」 スマホをテーブルに置き、笑いかけた。 優しい彼のことだから、俺を気遣って無理してるんじゃないか。それだけが心配だったが、すっかり寛いでる帷を見てホッとした。 ここが彼の第二の安息の地になるなら、そんな嬉しいことはない、 「帷、俺さ……信じられないと思うけど、今までは何でも器用にこなしてたんだよ」 心の状態が部屋に現れると言うけど、まさにそれだ。片付かないこの部屋は、現状維持しようと殻にこもる俺を表している。 「でも、ちょっと転んだらがたがたに崩れた。独りになるまで、自分がこんな弱いと思わなかった」 帷は少し考えて、「お前だけじゃない」と呟いた。 「……弱いのは皆同じだよ」 帷は俺の隣に移動し、微笑んだ。 電気も点けてない、真っ暗な部屋。窓から射し込む月明かりだけを頼りに見つめ合う。 「独りになってようやく、誰かと一緒にいたいと思うんだ。だから俺らは、良いタイミングで会えたんじゃないの?」 「はは。……そうかも」 淡々と生活できてるようで、実はずっと温もりを求めていたんだ。 でも指摘されなければ気付かなかった。帷が優しく寄り添ってくれたから、独りの怖さも、繋がりの大切さも実感できた。 彼には感謝しかない。 「ありがとう、帷」 「お互いさまだろ。声掛けてくれてありがと、……迎」 帷は嬉しそうに目を細める。その目元は、わずかに光って見えた。 彼も泣いてるんだろうか。手を伸ばして確かめようとしたが、やめた。 泣きたいときは思いっきり泣けばいいんだ。さっき俺が泣かせてもらったみたいに。 夜は安心できる人の傍で、疲れるまで泣けばいい。 そしたらいつの間にか眠って、眩しい朝が来る。 ────大丈夫。 明日からは俺が、帷を笑顔にする。 横になり、瞼を伏せる。夢の世界に傾くまで、迎は心に強く誓った。

ともだちにシェアしよう!