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第83話
「龍雅さん、忘れ物ないですか?」
「ないよ。
あっても困らないし大丈夫」
ジャケットを手にスマホはあるし大丈夫だと口端を上げる龍雅さん。
確かに、スマホがあれば大丈夫だという言い分も分かる。
電話だけでなく、財布も兼ねている便利な道具だ。
それさえあれば後は出先で買えば済む。
そうですね、と頷くと大きな手が頬をそっと撫でた。
「そうだ。
来週、海行こうよ。
花火もしよう」
「海…!
良いんですかっ」
「うん。
一緒に行こう。
夏っぽいことしようよ」
「楽しみです!」
自分を見詰める愛おしそうな目に、しあわせが溢れ出る。
来週が楽しみだ。
その時は、龍雅さんを名前で呼ぼう。
どんな顔をしてくれるか、ドキドキする。
けど、すごく、すごく、楽しみだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。
気を付けてくださいね」
ヒラヒラと手を振る龍雅さんを見たのは、その日の夜が最後だった。
次の日になって帰ってこなかった。
そのまた次の日も。
1週間経っても帰ってこず、1ヶ月経っても、季節がかわっても、ずっと待っている。
今も…、ずっと……。
不思議な縁で出会っただけの人。
そもそも、あの日、財布を届けた時点で終わっていた縁が、なぜか伸びていただけ。
そう思えたら楽なのに…。
そう、逃げられたら楽なのに…。
……出来ない。
したくない……。
だから、
だから……
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