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第17話 侍女の願い
アルノーの日常的な養育は、貴族家出身の乳母が一人と、数人の侍女たちが担当していた。
乳母のヴィラット婦人は泣きながら乳を飲むアルノーに困っていた。泣かなければ三十分で終わる授乳が泣いてしまうので鼻が詰まって吸い込めず、時間が掛かるのだ。今のところはほとんど寝ているアルノーだが、日に四、五回の授乳で毎回のことで、その為に一日何時間も無駄にしてしまう気がする。
ある日、授乳後のゲップを出すための抱っこを買って出た新人の侍女がアルノーを泣き止ませた。
ゾエという名の地方貴族の娘だった。
「どうやって、泣き止ませたの?」
近寄って覗き込んだヴィラット婦人がみると、ゾエの腕の中でアルノーはスヤスヤ寝ていた。
少し困った顔をしたゾエは、アルノーを揺籠に寝かせて揺らしながら答えた。
「そんなに泣いてばかりいたら、アンリ様に会った時にデベソになって恥ずかしいですよって、言いました。泣き虫の子供はデベソになるって、田舎の言い伝えなんですけど」
「え?」
皇子様にデベソ? え? 通じた? いやいやまさか、ちょうど眠くなる時だったのよね。
ヴィラット夫人も他の侍女達もその時は信じなかった。その後もゾエが話しかけると泣き止むことが続き、信じるしかなくなっていった。
「デベソ、やだ」
他の侍女達にも泣く度に声をかけられて、アルノーは泣かなくなった。それどころか、まだ一才過ぎなのにどんどん出来ることが増えていった。
「アンリ様に会った時に……」
アルノーにとっての殺し文句になってしまった。
「夢の中ではアンリ様に会えるんですか?」
「うん!」
「あ――それで起きた時に居ないから泣きたくなるんですね?」
「うん、アンリ、いない」
「早く会いたいですねぇ。会ったら、何をしましょうか?遊びます?お話しします?一緒にお勉強もしちゃいます?」
「あそぶ。はなす。べんきょする。ぎゅ、する」
今やゾエが一番アルノーの話し相手になっていた。
「アンリ様に会った時の為に今からお勉強もしちゃいますか?」
お互いどんな環境であっっても、お金と知識はあった方がお互いの為ですから。とか、赤ちゃんにわかるはずがないような事も、ゾエは言葉にした。そして、アルノーには伝わっているようだった。
「アンリ……」
度々アルノーの口から溢れるアンリの名前に、ゾエは言った。
「そんなに会いたい人の名前を言う時には、マ・シェリとかマ・ベルとかつけるのどうですか?」
ゾエはアンリは女の子の名前、アンリエットの略かなと思っていた。そして、小さいアルノーがそんな言葉を口にしたら可愛いなと思っていた。
「マ・シェリアンリ、マ・ベルアンリ」
アルノーは少し気が紛れて、浮かばれるような気がした。それからは、気持ちを込めて呟いた。
「マ・シェリ……アンリ。マ……ベル……アンリ」
僕の愛しい可愛いアンリ、早く会いたいよ。
◆◇ ◆◇ ◆◇
アルノーは一才半でアンリへのラブレターを書いた。
ゾエがアルノーにルブラ連合帝国公用語の綴りを教えた。話すのは口周りの筋肉とかがまだしっかりしていないせいか、せいぜい二単語文がやっとだったが、大きな文字でゆっくり書くのはそこそこ出来た。
アンリ だいすき はやくあいたいです
これには皆驚いて、大騒ぎとなった。
すっかり泣かなくなって安心したのも束の間、あの老婆の話のように皇子が何者かに取り憑かれているなら大変だ。他の『読み人』は見つかったのか? 今から文字も書かれるなど、大変優秀極まりないが何をしてもアンリアンリでは、どうしたものか?
とうとう皇帝と皇后が揃ってアルノーの部屋にやってきた。
「とうしゃま、かあしゃま」
「アルノー、もうお手紙を書けるんですって?」
そう言った皇后に乳母が見せた紙には、辿々しい文字でアンリへの想いが書かれていた。
「アルノー、父様と母様にもお手紙を書いてくれないか?」
皇帝の言葉に、アルノーはペンを取ると、
とうさま、かっこいい かあさま、きれい
アルノー シャルル アンリ あいたい
皇帝と皇后は途方に暮れた。本当に『封印の術』とやらを施さなければならないのだろうか? アルノーの心の中がアンリで占められている。このままでは、まともに育たないんじゃないか? と。
「すみません、その紙を見せていただけませんか?」
アルノーの侍女の一人、アルノーに綴りを教えたゾエが驚いた顔をして言い出した。今書いた紙を見て、意を決して、皇帝に直言した。
「陛下。どうか、お願いします。封印の術とかは止めて、私に殿下を任せていただけないでしょうか? 本格的な教育の始まる時までです」
何を言っているんだ、不遜だぞという雰囲気が漂ったが、ゾエは必死で続けた。
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