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光に微笑む花の色① 新王ショルカ

 コーグ王国は温暖な気候の美しい国だ。豊かな土壌に実る果実はこの上なくみずみずしく、大空に浮かぶ雲を採取して生産される織物は軽く柔らかい。暮らす人々は皆、この国にこぼれる陽だまりの様に優しく温厚だ。黒髪に黒い瞳の者が多いが、陸続きの隣国であるレラ国の血が混じった、赤毛や薄茶色の瞳の者も珍しくない。一年中続く太陽の恩恵のために、誰もが豊穣の神のような褐色の肌をしている。  この恵まれた光の大国に、今日新たな王が即位した。長身で逞しい体躯と、腰まで伸びた艶やかな黒髪を持つ、弱冠二十歳の新王ショルカ。野性味すら滲む精悍な面差しが、名君と謳われた祖父によく似ている。戴冠式を終え、城のバルコニーに現れたショルカを目にした人々は、その立ち姿に天に選ばれた者たる神々しさを感じた。  新王が全ての民の心を魅了した刹那、急に牙を向いた春風がバルコニーを吹き抜けた。絢爛な装飾を施された王冠が、ショルカの頭上から滑り落ちる。凛々しい王は、身動ぎもせず、風の悪戯を受け入れた。足元に落ちたそれを、拾うことすらしなかった。大きな黒い瞳は少しも揺るがずに、王国の民を見つめ続けていた。  新王は、王たる証など必要としていない。彼が生まれながらにして携える輝きが、証そのものだからだ。光の王へ送られる歓声は一層大きくなった。大地さえも揺るがすほどに。  「……口を開かせなかったのは、正解でしたね」 戴冠式を終え城の自室に戻ったショルカに、側近のアムアが安堵した表情で言う。 「喋らなければ、どこからどう見ても貫禄のある王です。ああ、無事済んで良かった」 ショルカは棒立ちで口をつぐんだまま、やや怪訝そうにアムアを見た。ショルカの方がずっと背が高いので、完全に見下ろす体勢になる。 「あとの仕事は全部私がやりますから、あなたはその報告を聞いて承認してください。安心して、上手くやりますから」 ショルカは引き続き、アムアをじっと見ている。アムアは不思議そうな顔で見つめ返し、はっとして王の逞しい背中を叩いた。 「ああ、すみません、忘れてた。もういいですよ。力抜いても、喋っても」 それを聞いて、呼吸さえ最低限に抑えていたショルカは、やっと大きく息をついた。まだばくばくと激しい音をたてる心臓を抑え、粗末なソファに腰掛ける。ところどころ皮のはげた背もたれの感触が、心を少しずつ落ち着かせてくれる。呼吸を整えながら、口を開いた。 「ああ、死ぬかと思った。王冠重いし、ずっとぐらついてて……途中落としたとき、生きた心地しなかった」 この弱弱しい震えた声が、麗しい新王のものとは到底信じられない。アムアは溜息をつく。 「私こそ、心臓とまるかと思いましたよ。まあ、身をよじったり慌てた顔をしたりしなかったのは、上出来でした」 「いや、あせりすぎて固まってしまって……拾った方がいいんだろうなと思ったんだが、体が動かなくて……とりあえずじっとしているしかなく……」 あの毅然とした振る舞いの真相が、こんな情けない理由とは。まあ、そんなことだろうとは思っていたけれど。アムアは身をかがめ、ソファでぐったりとしているショルカの肩のほこりを払う。そして、その横顔をまじまじと見た。  よく似ている、名君と謳われた先王に。造形の美しさで言えば、それ以上かもしれない。 そして、もう一人、確かに似ている人がいる。 アムアは、その人のことを思い浮かべた。愛おしさが胸いっぱいに広がる。同時にもう会えない悲しさが、目頭を熱くさせた。 「……アムア、どうした?」 ショルカの呼びかけに、はっと我に返る。何でもないですよ、と早口で告げるアムアを、王は心配そうに見つめた。 「お前も、ひどく疲れているだろう。早く休んだ方がいい」 「あいにく、仕事が山積みなので。誰かさんと違って」 アムアに言われて、ショルカはひどく申し訳なさそうな顔をした。凛々しい眉を下げ、うつむいている。ああ、このお飾りの王は、これだからやりづらい。 「先王は、私に託されました。やり残した仕事も、後継者となるあなたのことも。先王に仕えたことは私の誇りです。彼のための仕事に疲れなんか感じません」 「……しかし、アムアはもう年なんだし」 「失敬な!あなたと十二歳しか変わりませんよ!」 アムアは顔を赤くして言い返した。その面差しは、三十二歳にはとても見えない。若々しいと言えば聞こえはいいが、可憐な少女のような顔立ちはあまりにも実年齢とかけ離れ過ぎている。 主君に背を向け、部屋を出ていこうとする小柄な背中を、ショルカが呼び止めた。 「アムア、待ってくれ」 「なんですか、忙しいんですけど」 アムアが振り向くとショルカは立ち上がり、胸に手を当て、敬意を込めた眼差しで見つめた。 「……いつも、本当に感謝している。ありがとう」 気が弱く、いささか優しすぎる、見掛け倒しの王。国民には決して明かせないが、所詮お飾りに過ぎない存在だ。事情を知る城の人間の中には、彼を軽んじている者も少なくない。 けれど、ショルカは誰のことも軽んじない。王としての素質はどうあれ、清らかな人物だ。 「もったいないお言葉です」 アムアは跪き、主の穢れない瞳を見つめた。  ショルカは、自分が王家の人間だということを知らずに育った。王国のはずれ、レラ国との国境近くに、彼が子供時代を過ごした家がある。父は近くの山の頂で雲を採り、それを織って布を作ることを生業にしていた。父の織る布は、彼自身のように優しく、暖かかった。  コーグ国の人間にしては色白で、儚げな面立ちの父に、ショルカは少しも似ていなかった。ショルカを生んですぐ亡くなったという母の顔は写真でしか知らないけれど、やはり彼とは似ていなかった。ふくよかな丸顔で、穏やかで柔和な表情を浮かべた、怒った顔など想像もつかない女性だった。  一度、両親のどちらにも似ていないことを気にして、父親に打ち明けたことがある。夕飯の支度をしていた父は驚いた顔をした後、いつものように優しく笑い、幼いショルカの頬に触れた。 「お前は、お母さんにそっくりだよ。自然が好きなところも、猫舌なところも、そのくせ温かいスープが好きなところも。お母さんもよく、舌を火傷させながら飲んでた。本当におかしくて、かわいらしくて」 そう言って、食卓に置いてあった鏡を手に取り、仏頂面の息子に渡した。長身をかがめ、ショルカの波打つ黒髪を愛おしそうに撫でる。 「そんなしかめっ面してたら、似てるわけないだろう。思いっきり笑って御覧。鏡の中に、お母さんが現れるはずだよ」 言われた通り、歯を見せて笑ってみる。ぎこちない表情の中で、高い鼻梁と切れ長の瞳は冷たい印象を醸して見えた。薄い唇から覗く白い歯のせいで、口元は獣のそれを彷彿とさせる。あの丸っこい可愛い笑顔に似ているとは到底思えない。笑顔が曇った刹那、父が包み込むようにショルカを抱きしめた。 「そっくりだ、ショルカ。お前が笑うとき、お母さんはいつも一緒にいるよ」 父の温もりに包まれて、容姿が両親に似ているかどうかなど、どうでもよくなった。自分は、深く愛されて生まれてきた。それだけは確かだ。 「お父さんも、ずっと一緒にいてね」 最愛の息子はそう言って、父の背中に手を回した。 「もちろんだ」 そう答えた父が病に倒れ亡くなったのは、その年の冬。ショルカは十歳になったばかりだった。  父は死ぬ間際の夜、いつもと変わらない優しい手つきで、ベッドの脇に座り込むショルカの頬を撫でた。 「お前は何も、心配いらないからね。じきに、迎えが来る。何不自由ない暮らしがお前を待っているから」 元々痩せていた父の指は、もはや脆弱さを感じさせるほどの細さになっていた。ショルカはすがるように、守るように、その手を握った。 「今までの生活なんて、お父さんのことなんて、きっと忘れてしまうよ。これまでが全部、間違いだったんだ。だって、お前は」 そこまで言って、父はひどく咳込み、落ち着くと静かに目を閉じた。  まるで眠っているような顔の父に、何度呼びかけたかわからない。声がかすれるまで叫んでも、もう二度と目を開けることはなかった。それでも、冷たい夜の間中、ショルカは父を呼び続けた。  ショルカが我に返ったのは差し込む朝日と、外から聞こえる騒がしい靴音のためだった。 誰かが、ここへやって来る。  涙も乾かぬ頬で、身構えるショルカの耳に、乱暴にこの家のドアをノックする音が届く。動かなければと思うのに、床についた膝はしびれ、体には力が入らなかった。声すら出せずにいるうちに、ドアが破られる音がした。  靴音の主は部屋を順番に物色し、父とショルカのいる寝室へ向かってくる。侵入者は一人ではないことが、その響きから伝わった。果たして、彼らは何人いるのだろう。泥棒にしては、物音に乱雑さがない。まわらない頭で、ぼんやりと考えた。  寝室に足を踏み入れたのは五人の男だった。盗賊じゃない、とショルカは確信する。まとっている服も、携えている銃も、上等すぎる。 四人が一人を守るように囲んでいるせいで、囲まれている男の顔はよく見えない。しかし、周囲を従えるように立つその男は、普通の人間とは明らかに異なる気配を発していた。その場に居合わせる者が皆、畏怖する。そんな人智を超えた何かを湛えていた。 「お前が、ショルカか」 男はそう言うと周りを押しのけ、一歩進み出て、床に座り込んだままのショルカと対峙する。顔に刻まれた深い皴から、彼が老人というべき年齢なのが読み取れた。しかし、その鋭い光を持つ黒い瞳と、真っすぐに伸びた背筋から、衰えというものは一切感じられない。  男は驚くほどの長身をかがめ、気圧されるあまり返事を出来ずにいる哀れな少年の顔を覗き込んだ。間近で見るその顔に、ショルカは既視感を覚える。高い鼻梁、薄い唇からわずかに覗く尖った歯。黒く長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳。他ならぬショルカ自身の顔によく似ていた。  既視感の正体に胸がざわつき、視線を逸らす。ふと、男がその手に見覚えのある何かを握っていることに気づいた。  父の便箋だ。あの優しい青色は、父が大切にしていた便箋の色だ。誕生日には毎年、それで手紙を書いて贈ってくれた。こうして文字に残せば、大人になっても一緒に読み返せる日が来ると言って、成長の喜びを綴ってくれた。 「それ、お父さんの……」 やっと発した声はかすれて、それ以上続かなかった。  男は顔を上げ、ショルカの傍らのベッドへ歩み寄った。横たわる父の首に手を当て、その死を確かめると、静かに目を閉じた。その表情は、悼むようにも、悲しみに耐えるようにも見える。 「……痩せたな」 ほとんど聞き取れないほどの小さな声で呟き、男は息を吐いた。そして大きな瞳を開き、哀れな親子に背を向ける。部屋を出ていく男の便箋を握る手は、先ほどよりも一層力が込められているように、ショルカには見えた。  四人の従者のうち三人は男に付いて部屋を出て行き、一番背の低い一人だけが部屋に残った。柔らかそうな赤毛を後ろで束ねた、線の細い美形だった。 「心配いりません。私と一緒に参りましょう」 その人はそう言うと、床に座り込んだままのショルカに歩み寄り、膝をついた。女性と見まごう容姿だが、その落ち着いた声は男性のものだった。  彼はベッドに横たわる父をじっと見つめた後、ショルカの手に触れ、その冷たさに驚き両手で包んだ。そして、不安げな表情の少年に、柔らかい笑顔を向ける。 「皆、あなたの味方です」 包まれた手に、そして心に、温かさを感じた。ショルカの目から、乾きかけていた涙が再び溢れ出す。 「私は孤児でした。心優しい人に救われ、今ここにいます。私がかつてそうしてもらったように、私があなたのことを守ります」 ショルカから伝播したかのように、彼も瞳から涙を落とした。頬に落ちかかっていた赤毛に雫が垂れ、揺れながら光った。彼からは良い匂いがした。清潔なシーツの中に、甘い花弁を落としたような。まるで生まれる前から誰もが知っているような、心安らぐ匂いだ。  先代の王と、そしてアムアと初めて出会った十年前のあの日のことを、ショルカは今も繰り返し思い出す。まだ末席の従者だったアムアの微笑みが、温もりが、どれだけ自分を救ってくれたことか。 「……まあ、こんなおっかない人だとは思わなかったけど」 「なんか言いましたか」 独り言が聞こえたようで、目の前に居るアムアが反応した。ショルカは慌てて、何でもない、と首を振った。 「集中してください、もうじき時間なんですから。ほら、続けて」 今日は、隣国のレラ国の王が、ショルカの即位のお祝いのために贈り物を持って来訪することになっている。挨拶の言葉、お礼の言葉、別れの言葉……アムアが書いた台本を、ぶつぶつと復唱する。このコーグ国と同じくらいの領土を誇る大国の王を相手に、お飾りである実情を悟られるわけにはいかない。  棒立ちで別れの言葉の復唱に入った新王が身にまとっている衣装を、アムアが細かくチェックしている。 「……襟元が、少し緩んでるな」 「うえっ」 首元を引っ張られ、思わぬ声が出た。 戴冠式から約一か月。ショルカは大仕事を前にして、早まる心臓を抑える。即位してからというもの、議会に出席しても発言の機会もなく、ただじっと聞いて承認を下すだけの日々だった。お飾りの王なのだから上出来だとアムアは言うけれど、なんだか透明人間のような気分になる。しかし、こうやって人前に出るのは、これはこれで気が重い。 そんな王の表情を見たアムアが空気を引き締めるように、両手をぱん、と鳴らした。 「さあ、そろそろ時間ですね」 「覚えた台本を忘れないか不安だな……」 「まあ大丈夫ですよ。先日と同じように、やってもらえれば。あの時は急だったから、台本も用意して無かったじゃないですか」 アムアの言う先日というのは、戴冠式を終えたその日のうちにお祝いのために駆けつけてくれた、南の島の女王と挨拶した時のことだ。先王と深い交流があった彼女は、瞳を潤ませながら一方的に思い出話を語り続け、ショルカは相槌すらまともに打つ隙が無かった。流石にあの涙もろくお喋りな老女王のときと同じとはいかない気がして、ショルカは弱弱しくアムアを睨む。 「今のレラ国王が即位したのも、一年程前のことですよ。新王同士なんですから、力み過ぎないで大丈夫。昔、まだ王子だった頃の彼が訪ねて来た時に給仕したことがありますが、付き合い辛そうな人には思えませんでした。最悪助けが必要そうなら、私が割って入りますし」 「ああ、頼りにしている。ありがとう」 ショルカは意を決して息を吐き、歩み出したアムアに続いて自室を後にする。 扉の外で待機していた大勢の近衛兵が、ショルカとアムアを守るように取り囲んだ。緊張を飲み込み、毅然とした表情を作って、しっかりとした足取りでレラ国王が待つ城の広間へと歩を進めていく。  城の廊下ですれ違う者たちが、ショルカの姿を認めると立ち止まって深く頭を垂れる。王相手なのだからそうするのが慣例だが、あからさまにそれを無視する輩もいる。新王の実情を知る者たちだ。彼らはショルカが初めて城へ来た日から、馬鹿にした視線を送っていた。  皆、あなたの味方です。父が死んで自分を迎えに来た十年前のあの日、アムアはそう言った。それは嘘だ。ショルカのことを快く思わない者は、城の中に数多くいた。  母とショルカの笑顔が似ていると言った、父の言葉が頭に響く。どれだけ考えても、事実とは程遠い。ずっと一緒にいると言ってくれたことも、結果的に嘘になった。けれど、全て私を愛するが故の言葉だ。真実など無くても、たくさんの優しさに守られて今日まで生きてきた。  私は、アムアのことも、父のことも愛している。だから、この数奇な人生だって、きっと愛せる瞬間が来ると信じている。光の王は、彼とともにある者たちに守られながら、広間に足を踏み入れた。

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