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光に微笑む花の色③ 傷だらけの魔法使い
「……勝手なことをして、申し訳ないと思っている」
レラ国王と従者達を見送り、城の自室に戻ったショルカは、部屋に入るなりアムアに頭を下げた。台本には無いことを次々と口にし、挑発的な態度の隣国に対して物資を贈る申し出までしてしまった。
「頭を上げてください。済んだことに申し開きはいりません。ただ……」
アムアは溜息をついた。
「レラ国は、我が国に戦争を仕掛けるつもりです。今物資を贈ることは、敵をみすみす肥やすこと。しかしああまで言っておいて、今更贈らないわけにはいかないし」
「……今日見たレラ国の者は皆、やつれて顔色が悪かった。国王も、明らかに疲れていた。戦果を誇らしげに語ったのは、そうして奮い立たねばならないほど、国も自分自身も弱っているからだ」
ショルカはそう言い、悲しげな表情をした。アムアが頷く。
「あなたが優しいのは、よくわかっています」
ショルカの顔を見上げ、手を伸ばしてその頬に触れる。温かい頬だ、アムアは思う。
「ここから先は、私に任せてください。優しいだけでは、解決できないこともあります」
「レラ国を、救えないだろうか」
ショルカは頬に触れたアムアの手に、自らの手を添えた。そしてその輝く目で、アムアをじっと見つめる。
「レラ国を救って、我が国が滅びたらどうしますか?」
アムアはそう言うと、頬から手をおろす。ショルカは側近から発せられた言葉の重さに、しばし動きを止めた。
「……私は本当に、飾りでしかないな」
その声に、怒りの色も悲しみの色も見えなかった。ショルカはただ事実を確認するために、つぶやいただけだ。
「単純な考えを、勝手に口に出してすまない……」
そう言って項垂れる王に背を向け、アムアは部屋のドアのハンドルに手をかけた。そしてそのまま、顔も見せずに告げる。
「大丈夫。何も心配いりません」
ショルカは部屋を出て行く側近の背中を、何も言わずに見送った。
どっと疲れたショルカはソファに腰かけ、疲れから目を閉じた。まどろみ始めてからどのくらいたっただろう。彼を起こしたのは、何者かが控えめに自室のドアを叩く音だった。
「……入れ」
眠気の覚めないぼんやりした声で答えるとドアが開き、侍女の一人が現れた。母ほどの年齢の、明るい女だ。とても礼儀正しく、その表情はいつも溌溂としている。彼女は、ショルカが信頼している者の一人だった。
「レラ国から贈られたお方の、お風呂が済みましたよ。お着替えも終わりましたので、お連れしました」
ああ、『崩落の華』などという身勝手な二つ名で呼ばれていた魔法使い。ひどく痩せていて、抱き上げた体は哀れになるほど軽かった。そういえば、ちゃんと顔を見ていなかったな。寝起きの頭で考えた。
侍女に促され、部屋に入って来る男の姿を、ショルカは特に何も考えないまま目で追う。そして、息を飲んだ。
美しい。言葉も紡げぬほど、美しかった。こぼれそうに大きな瞳が、青にも緑にも見える不思議な輝きを携えている。肌は真白く、その面差しに咲く唇さえも色素が薄い。整えられた黄金の長い髪が、流れるように腰までまっすぐに伸びている。意図しない後れ毛が一筋、あまりにも細い首筋にまとわっていた。
まるでまだ夢の中にいるのかと疑うほどの美貌に、ショルカは見惚れた。我に返り、ソファから立ち上がると、よく通る声で言う。
「コーグ国王ショルカだ。どうか生家だと思ってくつろいでくれ。コーグは温かく、恵み多い国だ。きっと気に入るだろう」
彼はじっと目を伏せたまま、礼儀正しい王を見ることもしなかった。
ふと、濃い紫色のガウンの袖から覗く指先が、不安になるほど華奢な肩が、かすかに震えていることに、ショルカは気づく。
「寒いのか?」
ショルカは尋ね、美しい魔法使いに歩み寄る。
彼の背丈は、驚くほどの長身と言われるショルカとほとんど変わらなかった。しかし、あまりにも細身だ。体の厚みも腕の細さも、王の半分にさえ満たないかもしれない。
問いかけに、魔法使いは答えなかった。その代わり、首を少しだけ横に振った。
「寒くないなら、どうして震えているんだ?」
返事は無い。美しい眉をほんのわずかに寄せるだけだ。
助けを求めるように、王が侍女を見る。侍女は優しい瞳で、ショルカに諭すように耳打ちした。
「怖くて辛い思いを、たくさん経験されてきたようですから」
怖くて、辛い思い……。心の中でその言葉を復唱しながら、改めてその儚げな美貌を眺める。
近くで見れば見るほど、生きているのが不思議なほどに整っている。女のような容姿と呼ぶにはまた違う、性別不詳の美しさだ。神や天使というものが実際にいるならば、こんな顔をしているのだろう。そもそも魔法使いというのは、そういう存在に近いものなのかもしれないが。
ふと、その細い首筋に、薄い傷跡のようなものがあることにショルカは気づいた。落ちかかる髪でほとんど隠れているが、なんだか心をざわつかせる跡だ。まるで、歯形のような――歯形?
ショルカは、自分の体から血の気が引くのを感じた。この美しい男が経験してきたことの片鱗を、確かに感じ取ったからだ。
殴られたり蹴られたりというような痛みとは、種類が違う。これは、むき出しの欲望にその体を暴かれた跡だ。
王は侍女に顔を寄せ、すぐそばの震える華に聞こえぬよう、小声で尋ねる。
「傷跡は、首以外にもあるのか」
「……全身に。新しいものも、古いものも」
侍女は、王の耳にも聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で答えた。
「御髪は結ぼうかと思ったんですが、そうするとかなり……目立つので」
ショルカは胸が痛むのを感じながら、魔法使いに向き直った。長い睫毛は金色というよりもほとんど白に近く、宝石を守ろうとするかのように目の周りを縁どっている。この青にも緑にも見える不思議な虹彩の色には、なぜか見覚えがあった。透けてしまいそうな肌にも、懐かしさを感じる。
この男から目を離せないのは、単に絶世の美貌に心を奪われたからではない。もう戻らないと諦めた大切な何かが、帰ってきたように感じられるからだ。それが何なのかは、今のショルカには思い出せないけれど。
「食べないし、寝ないだって?」
侍女が困った顔をして、レラ国から贈られた魔法使いの様子をショルカに報告してきたのは、明くる日の朝だった。
彼には、眺めの良い客間を自室として与えた。寝具に使っている布は、コーグ国特産の最高級品だ。雲を織り込んだ手触りは、どんな疲れさえ癒す優しさを孕んでいる。柔らかく温かいベッドは弱った体を癒すに違いないのに、彼は使っていないという。シーツにほんの少しの乱れもないと、侍女は困惑した表情で話した。
「昨日夕食を部屋に運びましたが、食卓に近づきもしなくて。結局、そのまま一晩置いておいて差し上げたんです。先ほどお皿を下げようと思って伺ったんですが、一切手を付けられていなくて」
「眠りもせず、食事もせず、一晩中何をしていたんだろう」
「昨夜最後に見たときは、窓辺に立って外の景色を眺めてらっしゃいました。今朝お部屋に入った時も、そのまま変わらないお姿で。もしかしたら、ずっと……」
ずっと、ただ窓辺に立っているだって?ショルカは頭を抱えた。せめて、何を考えているか知りたいものだが。
「相変わらず、何も話さないのか?少しでもいいから、彼のことが分かれば……」
「お話しは、されませんね。でも、欲しいものは無いか聞いたら、首を横に振られました。確かに聞こえてはいますし、意思はあります」
昨日、寒いのかと問いかけたショルカに、首を横に振ることで答えた姿を思い出す。今のところはあれが精一杯の意思表示ということか。
「焦らずに見守りたいところではあるが、食事と睡眠は、何とか早いところとってもらわないとな。ここは安心していい場所なんだと教えなくては、かわいそうだ」
しかし、どうしたらいいものか。深く頭を下げて部屋を出て行く侍女を見送ると、ショルカはソファに腰かけた。ところどころ布の破けた、粗末なソファ。背もたれを撫で、目を閉じる。
雲を織り込んだシーツは確かに高級品だが、一番居心地がいいのはこの場所だ。
絢爛で豪奢な城の中で、ショルカが最も愛している場所。それは、このソファの上だった。
父が死に、何もわからないままこの城へ連れてこられた幼いショルカが言った、唯一の我儘がこのソファだった。十一歳の誕生日に何が欲しいかと尋ねたアムアに、ショルカは望んだ。父と暮らしたあの家で使っていた、思い出の家具を。
古い骨組みは貰い物で、それに父が古い布を張って作った、粗末なソファ。まだ、生家にあるはずだった。
「もっと高級なのを、買ってあげますのに。あの家はもう一年近く手入れしてませんから、果たして木製の骨組みが傷まずに残っているかどうか」
「どうしても、あれがいい」
優しく諭すアムアに、その時ばかりは譲らなかった。
「父さんとの、思い出の品だ。あれ以外は、いらない」
唇をぎゅっと結び、涙さえ滲ませてそう言った孤独な少年の言葉に、アムアはそれ以上何も言うことなく頷いてくれた。
思い出から抜け出るように、王はゆっくりと目を開き、立ち上がる。そして静かに息を吐くと、部屋のドアを開く。
かつての孤独な少年は、哀れな華の居る部屋へ歩を進めた。
ドアをノックしても反応が無い。ショルカは悩んだ後に、ゆっくりとそれを開いた。隙間から見えた美しい魔法使いは、窓辺に佇み外を眺めている。
「調子はどうだ。少しは落ち着いたか」
問いかけた声に、彼は振り向かなかった。
ショルカは部屋に入りドアを閉めると、その視線の先を追った。この部屋から見えるのは、ほんの少しの木々と、一面に広がる空だ。綺麗ではあるけれど、延々と見つめ続けるほど楽しいものとも思えない。
そっと窓辺に近づき、ガウンに包まれた肩を優しく叩くと、触れられた彼はビクッと体を震わせた。そして恐る恐る振り返り、王の顔に視線を向ける。
不意に首筋の傷跡が目に入り、ショルカはしまった、と思った。
「申し訳ない。驚かせたな」
あんな傷跡を付けられるような扱いを、彼は長いこと受けてきたのだ。後ろから触れられるなんて、恐ろしいに決まっている。
「ずっと見ているだけじゃ、退屈だろう。風を入れようか」
気を取り直すように明るい声で言い、窓を開る。気持ちの良い爽やかな風が、部屋中に流れ込んだ。
外から運ばれて来た春の香りに、こわばっていた彼の表情はほんの少し和らいだように見える。風を受けて乱れた金髪を細い指先がかきあげると、彼の纏っている服の袖がめくれた。今まで隠れていた手首が露になり、それを色濃く取り巻いている傷跡が王の目に入る。指の形をした暗い青色の痣だ。何者かに強い力で無理矢理掴まれた過去を思わせ、胸が締め付けられる程に痛々しい。
「名は、何というんだ」
彼の瞳を見つめ、ショルカは尋ねた。
いくら待っても、返答はない。ただ、見つめ返すだけ。まあ、予想通りといったところだ。
「教えてもいいと思う時が来たら、教えてくれ。贈り物とか魔法使いとか呼ぶのは、あまりにも味気ないじゃないか」
心細そうに唇を結んでいる彼へ、ショルカは微笑みかけた。
「また顔を見に来る。よければ、今日の昼食は一緒にとろう。少し太らなきゃだめだ、流石に細すぎる」
あまり長居しても、気疲れさせるだろう。一旦は退散しようと、彼に背を向けて歩き出した時だった。
「『崩落の華』と……呼べばいいじゃないか」
かすれた小さな声が、ショルカの耳に届く。魔法使いが発したものだと理解するのに、時間がかかった。
驚きと共に振り返り、窓辺に佇む華と暫し見つめ合う。
その容姿と同じくらい儚い声音だ、ショルカは思う。震えを孕んだ、力ない響き。けれど、不思議な色の瞳から放たれる彼の視線は、ほんの少しも揺らいでいなかった。
「その二つ名は忘れろ。まるで、お前が国を崩落させたみたいだ」
王がきっぱりと答える。
違うというのか?そう問いかけるように、魔法使いが僅かに眉根を寄せた。
「お前は何もしていないだろう。皆、欲のために自らの業で滅びたんだ」
その言葉を聞いて、宝石のような目が大きく見開かれる。思いもよらないことを言われ、動揺したようだった。
「昼食の時間までゆっくりするといい。ベッドは寝心地が良いぞ、よければ試してくれ」
ショルカは自分へ向けられた瞳をまっすぐに見つめ返し、部屋を後にした。
昼食は、王の部屋に二人分用意された。侍女に連れられてやって来た美しい華は、促されると従順にテーブルに着いた。
大切なソファの傍らに置かれたテーブルは、普段はショルカが一人で食事をとるのに使っている。一人分の食事を並べるには大きすぎるそれは、彼を迎えたことで今日は少し賑やかだ。まだまだ余裕はあるが、あるべき姿に近づいたように感じられ、ショルカは満たされたような気持ちを感じる。
魔法使いは王の正面に座り、目の前の食事を眺めていた。腕の良い料理人は、この華が食事に手を付けないという話を聞いて、できるだけ柔らかく食べやすいものをたくさん用意してくれた。料理人の心のように温かい湯気が、傷だらけの彼を包む。
「匂いを嗅ぐだけでも、安らぐだろう。気に入ったものを、少しでもいいから口に入れろ。時間はたっぷりある、急ぐことはない」
ショルカは言い、焼き立てのパンを手に取ると口に含んだ。特産の果実を生地に含んだ、甘くて優しい味がする。城に来たばかりの頃、幼いショルカの心を癒してくれた味だ。
華のような彼は何も言わず、ただ食事と王を交互に眺めていたが、しばらくして真似るように同じパンを手に取った。じっと見つめた後、少しだけ口に含む。それを見て、ショルカは安心したように微笑んだ。
澄んだ笑顔に思わず気を取られたのか、魔法使いの指がパンを落とす。
柔らかなそれが音もたてずに床を転がると、彼の手が震えた。ただでさえ白い肌が、更に血の気を引いたように見える。
一体どうしたのだ。一つ落としたところで、食卓にはまだいくつも同じものがあるのに。明らかにおびえている彼に、ショルカは何と声をかけようか迷う。
王が言葉を紡げないでいる間に、食卓のそばに控えていた侍女が身をかがめ、落ちたパンを拾った。立ち上がると、震えている彼に穏やかな口調で声をかける。
「大丈夫ですよ。こんなことで怒る人なんていません」
それを聞いて、魔法使いがわずかに息を吐いた。
彼の表情はほとんど変わらないが、その些細な動きを見ていると、その心の動きを感じることが出来るようになってきた。今のは、安堵したのだろう。
「私が、怒ると思ったのか?手元を狂わせたくらいで」
朗らかな口調でショルカが告げる。
「私も、しょっちゅう粗相をするんだ。何かしら落としたりなんて日常茶飯事だ。なんせ、戴冠式で王冠まで落とすような男だぞ」
自虐的に笑って見せた心優しい王の表情に、美しい魔法使いは幾分顔色を取り戻した。その口角が、かすかに上がる。気を付けなければ見逃すほどに、かすかに。
微笑みと呼んで良いのかすら分からない、ほんのわずかな頬の緩みを、ショルカは愛らしいと思った。小さな花が開こうとする瞬間を目の当たりにしたような気分だ。
「だから、気を使うことなんて無いんだ。楽にしてくれればいい。私だって、毎日のようにアムアに怒られているんだから」
言い終え、王はパンを口に運んだ。嚥下し、言葉を続ける。
「アムアというのは、側近でな。おっかないところもあるが、怖がる必要はない。いい奴だ。とても信頼している。後で紹介しよう」
美しい華は、王の言葉を何も言わずに聞いていた。時折、ほんのわずかに頷いている。
「私ばかり相手にしていても飽きるだろうし、アムアとも仲良くすると良い。お前に言うのも気が引けるが、彼は凄い美形だぞ。女みたいな綺麗な顔で、中身はとても男らしくて頼りになる」
照れの見え隠れする口調で、ショルカの側近自慢はかなり長いこと続いた。黙って耳を傾けていた魔法使いの頷きが、滞り始める。途中から話の内容に飽きていたのだが、そのささやかすぎる意思表示が王に伝わることはなかった。
日が暮れる頃、ショルカは再び魔法使いの部屋を訪れた。結局パン一つ齧っただけで、早々と自室に戻ってしまった彼のことが気になっていた。
ノックをしても反応がしないのはわかりきっているが、一応何度かドアを叩く。静かに扉を開き、隙間から部屋の様子をそっと窺った。
彼は変わらず、窓辺に佇んでいる。しかし柔らかな風を受けるその表情は、朝見たそれより穏やかな気がした。
「気分はどうだ」
ショルカは声をかけ、部屋に入ってドアを閉めた。
返事こそしないものの振り向き、王に視線を向ける彼を見て、反応してくれるようになったのは大きな進歩だと思った。
「昼食の時だが……何かまずいことでも言ったかな。思ったよりも、すぐに帰ってしまったから……」
そう告げ、歩み寄るショルカの姿を、彼の大きな瞳が追う。すぐ隣までやって来ても決して視線を逸らさないものだから、なんだか気恥ずかしくなった。
「夕食はどうする?一人の方が気楽なら、この部屋に運ばせよう」
そう提案した後で寂しくなって、ショルカはまるで叱られた子供のように眉を下げる。
暫しの沈黙が流れ、意を決してそれを破るように、淡い色の唇が開かれた。
「……一緒に食べる」
耳を澄まして、やっと聞き取れるような声。それでも、最高に嬉しい意思表示だ。
「ありがとう」
ショルカは嬉々としてそう言うと、窓の外へ視線を投げた。
はるか遠くで、夕暮れの薄い闇を鳥の群れが横切った。大きく広がりながら、けれど一羽たりともはぐれることはなく、空の彼方へ飛んで行く。
「空が好きか?」
いつも窓辺に佇んでいる魔法使いに、王は問いかけた。彼は答えず、ゆっくりと首を動かして窓の外の空を見る。無視しているのではないことが、ショルカにはわかった。この美しい華は、何か言おうと考えている。しばらく経って、か細い声が聞こえた。
「そこにあると、見てしまうだけで……」
そこまで言って、彼は口をつぐんでしまった。
再び沈黙が訪れる。ショルカは無言で空を眺めたまま、次の言葉が紡がれるのを待つ。
「……好きなわけじゃない」
彼が小さな声でそう言うまでに、随分と時間がかかった。
ただそれだけの短い言葉に対して、ショルカは何度も頷いて見せる。
「そうか。好きなわけじゃないか」
窓から吹き込む風が、見つめ合う二人を包んだ。各々が宿す色彩や体格は、反転したように違っている。けれど、背丈と髪の長さは揃えたようにほとんど同じだ。
ふと、風に揺れた長い髪を押さえようとした二人の手が、同時に持ち上がった。まるで鏡のようで、ショルカが笑う。それにつられたのか、魔法使いもほんのわずかに口角を上げた。
父が死んだときの孤独を、知らない人ばかりの城で暮らし始めたときの寂しさを、ショルカは忘れたことがない。今でも、アムアや侍女たちの優しさに囲まれてなお、自らを場違いな存在だと感じている。私は何かの間違いで神輿に乗せられ、ここへ運ばれて来た張りぼての王だ。
人間の欲望に翻弄されてきた魔法使いと初めて顔を合わせたとき、彼に抱いた思いは、自らより哀れなものを見つけて労わるような単なる同情に過ぎなかったかもしれない。それでも、これだけの傷を負いながら微笑もうとする彼を前にして、その姿を心の底から愛おしいと思った。
夕食も、王の部屋に二人分用意された。美しい華は、昼食の時と同じように、王の向かいの席に座っている。温かな湯気越しに彼を見て、ショルカはふと考える。これが毎日の習慣になればいいな、と。
「今回は、スープも飲んでみると良い。体が温まる」
ショルカに促され、彼の瞳がスープの皿を捉える。傍に居た侍女が、すぐに彼の前に銀色のカトラリーを並べてくれた。
「わたしはこの味が大好きだ。お前の口にも合うとよいが」
ショルカの言葉を聞きながら、彼はスプーンを手に取り、スープをかき回した。口に運ぶ寸前で手を止め、正面に座る王を見据える。呟くような声が、小さな唇から発せられた。
「もし、美味しかったら……」
ゆっくり紡がれる言葉を、ショルカは待つ。
「私の名前を、教えてもいい」
最後まで聞いて、優しい王は声を上げて笑う。
魔法使いの顔色が幾分紅いのは温かい湯気のためか、他に理由があったのか。それは分からなかったけれど、彼はゆっくりとスープを口に運んだ。
その時だった。ノックも無しに部屋のドアが開き、よく知っている声がショルカを呼んだ。
「食事中に申し訳ありません。急いで、お話をしたいことが」
男の声にしてはやや高めでありながら、落ち着いた響き。急いだ様子で、アムアが部屋に入ってきた。ふと、普段より賑やかな食卓が目に入り、驚いた表情を見せる。隣国からの贈り物がこの部屋にいるのは予想していなかったアムアは、彼の姿を認めると気まずそうな顔になった。
「アムア、ちょうどよかった。まだちゃんと紹介していないよな。レラ国から来てくれた魔法使いだ。少しは元気そうになっただろう」
突然の訪問者に驚いて、当の魔法使いはまだスプーンすら置けていない。ショルカはそんな彼を、嬉々として紹介した。
連れてこられた直後のぼろぼろの状態しか知らなかった『崩落の華』を初めてまともに見て、アムアは驚く。
華と謳われるくらいだから美しいのだろうとは思っていたが、これほどとは。彼のために争う人間が後を絶たなかった背景には、この容貌も大いに関係しているのだろう。
「初めまして……ではないか。覚えていないだろうが、私は広間で一度あなたの姿を見ている。側近のアムアだ、よろしく」
殊勝な態度で挨拶したアムアを、彼は無言でじっと見据えた。昼食時に長々と聞かされた自慢を思い返しながら眺めていたのだが、そんなことをアムアが知る由もない。ばつの悪い沈黙に、女顔の側近は目を逸らす。
何だか凄く邪魔をしたような気分だと思いながら、アムアはショルカの脇に寄ると口早に用件をいくつか伝えた。そしてこれで全部だったかな、と思料して、最後に思い出したように王の耳元に口を寄せる。
その耳打ちは、魔法使いにはほとんど聞き取ることは出来なかった。
「満月が……」
理解できたのは、その言葉だけだ。
しかし、傷だらけの体を戦慄させるのには、十分だった。
大きく動揺した指先からスプーンが落ち、床に硬い音が鳴る。白磁の肌が青ざめ、口元は歯の根が合わぬほど震え出した。
「どうした?」
変化に気づいたショルカが、心配そうに声をかける。しかし何も耳に入らぬ様相だ。
「おい、落ち着け……」
ただ事ではない雰囲気に、王は席を立って魔法使いに駆け寄った。揺れ続ける肩をさすろうと、腕を伸ばした時だった。
「いっ……!」
今にも折れそうな手がテーブルの上のナイフを掴み、王に向けた。刃先とかち合った手のひらに、血が流れる。
「お前、我が国の王になんてことを……!」
驚きと怒りの混じったアムアの声が響き、震える華は追い立てられるように立ち上がる。ナイフを捨てると椅子を蹴とばし、扉の方へ駆け出した。
「待て!」
アムアの怒号を背に、体当たりするようにドアを開けて走り去っていく。
この城のことなどほとんど分からないくせに、一体どこへ逃げるというのだ。ショルカは傷口を押さえながら、後を追おうと踏み出した。
「あなたは、傷の手当てをしてもらってください。私が追いかけますから」
さほど深く切れてはいないが、床にたらたらと垂れるほど血が流れていた。アムアは王を制すると、代わって俊敏に駆け出した。
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