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光に微笑む花の色④ 何者

 もつれるような足取りで、魔法使いは城の中を走り回った。途中何度か人にぶつかりそうになったが、構わず全力で進み続ける。どこへ向かえばいいかなど分からない。でも、とにかく逃げようとした。  満月、という言葉を聞いた瞬間、恐ろしい過去がはじけるように蘇った。昨日の夜はどれだけ空を見ても、雲のために月の形を確認することが出来なかった。今宵は満月なのだろうか。それを、あの側近が王に耳打ちしていたということは……。 「うっ……!」 体力の限界を迎えた足がいよいよ本当にもつれ、痩せた体が冷たい廊下に転んだ。打ち付けた全身が、じんじんと疼く。  痛みか、恐ろしさか、悲しさか、理由のわからない涙がこぼれた。それでもなんとか立ち上がり、一番近くにあった部屋の扉を開けた。倒れこむように、その中へ逃げ込む。  さほど広くはない部屋だった。従者の誰かの寝室だろうか。カーテンの閉まった大きな窓辺にベッドが置かれ、書棚にぎっしりと本が詰まっているのが目に入った。  頭がぼうっとするくらい疲弊していた魔法使いは、肩を上下させながら床に膝をつく。その時だった。 「……ああ、やっと追いついた」 背後から声がした。幾分高いが、男の声だ。ばくばくと音を立てていた心臓が、大きく跳ねる。 「まさか、ここへ逃げ込むとは」 声の主が背中に触れてくる。最後の力を絞って振り払い、必死に逃げた。書棚に並んでいた本を手に取り、相手に投げつける。そんなことをしても、大した攻撃にはらないと分かっているのに。足が向かう先には、行き止まりしか無いというのに。  部屋の壁に背を付け、魔法使いはずるずると座り込む。もう、立っていられなかった。  絶望にうつむいた刹那、騒がしい足音と共に、覚えのある声が聞こえた。 「よかった、すぐに見つかったんだな」 「ちょっと……手当はどうしたんです」 「こんなもの、かすり傷だ。アムアは大げさすぎる」 いぶかしげな表情の側近にそう言うと、ショルカは部屋の中を進み、壁際で縮こまっている華を見下ろした。 「……大丈夫か?」 その言葉は、ただ労りだけを宿すように優しく響く。けれどもう何も信じられなくて、魔法使いは唇を噛んだ。  返事をしない彼の前で、王はしゃがみこむ。そうすると顔の高さが同じくらいになるから、うつむいていてもほんの少しは互いに表情が見える。 「泣いてるのか?怪我のことなら、何も気にするな。私が手を伸ばしたタイミングが悪かったんだ」 それにもう全然平気だぞ、そう言って王は傷口のある方の手をひらひらと動かした。 「お前の嫌がることをする者は、ここにはいない。だから、もっと安心していいんだ」 刃を向けられたというのに、王の言葉は変わらず温かい。思わず受け入れそうになる心を奮い立たせ、魔法使いは声を絞り出した。 「……嘘だ。満月だと言って、側近と何か企てていたくせに。私をどうする気だ……」 一時は止まっていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。  何代前の所有者だったか忘れたが、魔法使いは満月の夜に触れた人間を主と認めるのだというデマを信じていた君主がいた。その日が来ると、月が出ている間は絶え間なく嬲られた。どこを触れば主になれるのだと尋問されながら裸に剥かれ、体中を叩かれ、口内も恥ずかしい場所も全て余すことなく犯された。願いを叶えるまで終わらないぞと怒鳴られて、気を失っても許してもらえなかった。  人間に捕らえられて以来ほとんどの年月を空なんて見えない場所で過ごしたけれど、わずかに覗く瞬間があれば、月の形を必死で確かめようとする癖がついた。あの所有者が倒された後も、空を見れば目を離せず、ただそれだけを考えてしまう。仲間たちと暮らしていた頃は空を見上げるのが好きだったのに、今となってはそこに満月が浮かばぬことだけを祈るだけの存在だ。  ここでも、同じ目に遭わされるに違いない。最初から覚悟していたのに、この王の態度に絆されて、ほんの少しだけ安心しそうになったのが間違いだったのだ。 「満月……?」 ショルカは呟き、夕食の時にアムアと交わした会話を思い返す。 「ああ、今夜は満月が綺麗だから、それを見ながら二人で夜風にでも当たれば癒されるんじゃないかと、アムアが提案してくれたんだ」 「とぼけるな!」 散々蹂躙されてきた心は、そんなこと信じられなかった。 「願いは、簡単には叶えられない。それが気に入らないなら、私のことなんか好きにすればいい。希望なんか持たせないでくれ。もう暴れないし、逃げたりしないから……」 魔法使いを犯し、嘲笑ってきた、数えきれない人間たちがその脳裏を過った。 「人間なんて、皆同じだ……」 わなわなと震え、しゃくり上げながら告げられたその言葉を聞いて、ショルカは黙りこむ。しばらく哀れな泣き顔を見つめた後で、口を開いた。 「その通りだ。人間は、皆同じだ」 きっぱりとした声で、そう言い切る。 「王も、民も……そして魔法使いも、皆同じだ」 魔法使いも、同じ……。意外な言葉に、濡れた顔が思わず上向く。 「少しでも歯車がずれていれは、私は王となることはなかった。お前だって、この国へ辿り着くことは無かっただろう」 漆黒の清い瞳が、こちらに向けられている。何もかもを包むような、力強く優しい色をしていた。 「私たちがここにいるのは、いくつもの偶然が重なり合った結果に過ぎない。たまたま、こういう形で出会っただけ。もしかしたら、お前は私で、私がお前だったかもしれない」 澄んだ声のする方へ、魔法使いが視線を投げる。かち合うそれが、一つの線になる。 「皆、同じなんだ。誰かを傷つけることは、自分自身を切り刻むこと。お前の傷が癒えるなら、私も共に救われる」 聞こえて来たその言葉を、全て丸ごと信じたわけではない。けれど、極度の緊張に晒されていた全身から、ふっと力が抜けた。  床に倒れこみそうになった軽い体を、ショルカが抱きとめる。そういえば初めて出会った時も、この王の腕は得体の知れない私を迷わず包み込んでくれた。そんなことを思いながら、華は温もりの中で意識を手放した。  「……全く、損な役回りだ」 アムアがぶつぶつと呟きながら、魔法使いに投げられた数多の本を片付けている。 床に散らばる書物を拾い上げていると、部屋のドアが外からノックされた。控えめな響きで、誰がやって来たかはすぐにわかる。 「何か、用ですか」 ため息交じりに応答した有能な側近は、王が姿を見せても振り向きすらしない。書棚に本をしまいながら、背を向けたまま問いかけた。 「まるで狙ったみたいに私の部屋をぐちゃぐちゃにした、あの魔法使いさんの様子はどうです?」 「心配ない。ベッドでぐっすり寝てる」 「ふうん、なかなか図太いですね」 「ああ、とても……強いな。酷い傷を負っていながら、あれだけ戦おうとするなんて」 アムアはようやく振り向き、ショルカの表情を目の当たりにした。穏やかなのはいつも通りだが、今日は何かが違うような気がする。 「全身を震わせている時でも、彼の瞳はまっすぐなんだ。うつむいても、視線を揺らすことはない。それに、想像を絶するような目にあって来たというのに、一生懸命笑おうとするんだ」 彼が夕暮れの窓辺で、わずかに頬をゆるませた瞬間を思い出す。まだ笑顔までは昇りきらないその表情は、踏まれてもなお咲こうとする花を思わせた。 「……とても、綺麗だ」 心の声をつい口に出したショルカが我に返ると、アムアが白けた顔で見つめていた。 「惚れましたか」 「別に、そういうんじゃ……!」 「隠すことないですよ。恋愛くらいお好きにどうぞ」 精悍な面差しを真っ赤に染めた王が必死に否定するも、アムアは相手にしてくれない。 「この忙しいのに、のろけ話がしたくて来たんですか」 側近が大げさにため息をつく。王は端正な眉根を寄せ、気を取り直したように真剣な表情を浮かべた。そして、力強く首を横に振る。 「ちゃんと本題がある。真面目な話をしに来たんだ。レラ国へ、救援物資を贈る話。あんな口早な報告一つで、終わらせないでくれ」 ああ、その話か。アムアは対峙するように、 しっかりと王に向き直る。 「夕食の時、伝えた通りです。ある程度の物資を集めたら、私が出向いて届けます」 そう告げると、自分よりずっと背の高い王を見上げた。 「陛下も感じている通り、レラ国は今非常に危うい状態です。一介の従者に届けさせるのは、あまりに不用心ですから。それにあの国王の気性も、理解している者でないと。下手なことを言って、開戦を決意させてはいけないし」 異論は認めないと言うように、ぴしゃりと言い放った。 ショルカは俯き、しばし考え込んだ後で尋ねる。 「……私も、行ったら駄目か?」 「駄目です」 語尾に重なるほどの即答だった。 「聞いていましたか?今、レラ国に行くのは危険なんです。国王が挑発的な上、戦争を勝利で終えたばかりときている。行けば、命を狙われるかもしれない」 「だから、私が。国を代表して、私が行く」 「お飾りの王は、黙っててください」 ほとんど怒鳴るような声で、アムアが言った。  水を打ったような沈黙が流れる。それを破ったのは、肩を落とした若き王の呟きだった。 「……私は、馬鹿だ」 自虐ではなく、心底そう思う。自分はあまりにも、無知で無力だ。 やつれた様子のレラ国の者たちを見て、自分に出来ることをしてやりたいと思った。足りないものを足りないところへ、送ってやりたいと思った。けれど、これは浅い考えで全て丸く収まるような簡単な問題ではないのだ。 「一週間後、出発します。まあ、脅すようなことを言いましたが、流石に死ぬことは無いですから。そんな顔しないで」 流石にきつく言い過ぎたかと後悔しながら、王を慰めるようにアムアが言った。 「ほら、しょげてないで愛しい魔法使いの傍に行ってあげたらどうですか。目が覚めた時に一人ぼっちじゃ、寂しくて可哀そうでしょ」 「……部屋の片づけを、手伝ってから行くよ。もともと、そのつもりだったから」 そんなに簡単には気持ちを切り替えられずに、王はまだ足元に散らばっている本を数冊まとめて拾い上げた。心ここにあらずという雰囲気で書棚に歩み寄って、仕舞おうとした矢先、手が滑って全てを床に落とす。 「私一人でやった方が速そうなんですけど……」 「す、すまない」 ショルカは慌てて、這いつくばるようにして落ちた本を再び拾い集めた。ふと、その中の一冊から何か写真のようなものが飛び出ているのに気づく。  きっと栞にしていたものが、落下した拍子にずれてしまったのだ。挟みなおそうと、ページを開く。途端に目に飛び込んできたその写真の光景に、切れ長の目を丸くして驚いた。  そこには、二人の人物が映っていた。両方男性で、背の高い方は王族の正装に身を包んでいる。低い方はまだ子供のようだ。着ているのは随分と質素な服だが、不釣り合いな大人用のローブを羽織っている。  かなり古いために不鮮明だが、その子供はアムアに違いなかった。そして、もう一人は……。 「散らかした上に、今度は盗み見ですか」 アムアの指先が、王の眼前から写真を取り上げた。 「返してもらいますよ。大切なものなんです」 嫌味ではなく、本当に心から大切そうに、アムアの両手が写真を包む。  コーグ国の人間にしては色白で、透明感のある柔らかな面差し。彼が織る布はどんなそれより美しかったのに、自らはいつもぼろを纏っていた。そんな姿しか見たことが無かったから、正装の彼を見てもすぐには気づくことが出来なかった。しかし、あの写真に映っていた人物は、他ならぬショルカの父だ。  横に居るアムアは十歳やそこらの年齢に見えた。ということは、あの写真を撮ったのは二十年程前ということか。私が生まれる前に、父と交流していたという話は聞いたことがない。そして、この時も問う勇気は沸かぬまま、追い出されるように王は部屋を後にした。  ショルカの父は王子だったが、庶民の女性と恋に落ち、駆け落ちして城から逃げたのだった。愛する父が恥ずべき存在と呼ばれている豪奢な城の片隅で、ショルカはひっそりと生きてきた。祖父と言葉を交わしたのは、父が亡くなったあの冬の日、一度きりだ。ただ愛情が無いというよりも、わざと無視されているのだということに、やがて気づく。  城の中で、裏切り者の子であるショルカのことを忌まわしく思っている者は少なくなかった。場違いさに慣れぬまま二十歳を迎え、先王の急死によって思いがけず王として担ぎ出されることとなる。恐れ、震える小心な青年に、女顔の側近が優しく言った。 「あなたは飾りです。居るだけでいい。怖がることはありません」 その言葉にどう反応してよいか、わからなかった。 「王子が成長するまでです。あなたはそれまで、耐えてください。大丈夫、私に任せて」 王子――アムアがそう呼ぶのは、まだ三歳になったばかりの先王の息子だ。 ショルカの父が駆け落ちしてすぐ、その母である后は亡くなった。時が過ぎ、年老いた先王は若い后を迎える。彼女は間もなく男の子を生み、先王はその子をこの国でただ一人の王子と呼んだ。  彼が唯一の存在ならば、父は何だというのだろうか。  そして私も、何者なのだろう。  ショルカは問い続けてきた。王として即位した今もなお、その答えは見つからない。

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