7 / 16

光に微笑む花の色⑥ ずっと待っていた

 「おい、起きろ!大丈夫か!」  悪夢から呼び覚ましてくれたのは、ショルカの声だった。ベッドの上で、清潔なシーツの柔らかさを全身に感じる。 「ああ、やっと起きた……様子を見に来たら、随分とうなされていたから驚いた」 心配そうに顔を覗き込まれ、魔法使いは何か言葉を返そうとする。しかし、心臓がまだ嫌な高鳴りを続けていて声が出ない。  枕に後頭部を埋めたまま呼吸を整えていると、ふと片方の手が温かいのに気づいた。目線で探れば、それは布団の上で大きな褐色の手のひらにしっかりと包み込まれている。  視線に気づいた王が、慌てて手を離そうとする。しかし染め上げたように白い指先は、それを阻むように縋ってきた。  ショルカは更にもう片方の手も添え、両手でぎゅっと包み込んで、ベッドの脇にしゃがみ込んだ。顔の高さが、寝そべったままの彼と同じになる。至近距離で目が合って、初心な王は赤面してしまった。  アムアのせいだ。あいつが惚れてるとか茶化すから、つい意識してしまうじゃないか……。心の中で側近を恨む。 「いや、しかし……こういう時に、名前を知らないというのは不便だな。うなされているお前に、なんと呼びかけていいか分からなかったから……」 赤く染まった頬を冷まそうと顔を左右に軽く振りながら、王が言う。  魔法使いは儚い色の瞳で、ショルカを見つめた。長い年月の間誰も気にすらしなかったものを、こいつは随分と知りたがるな。そういえば、スープが美味かったら教えてやるとか、言ったような……。 「別に、催促じゃないからな。なんとなく、思っただけで」 「……フィレーヒアだ」 か細いけれどまっすぐに響く声が、王の耳に届いた。 「えっ……」 「フィレーヒア。私の、名前だ」 ショルカは驚いた後に微笑み、目の前の彼を初めて名前で呼ぶ。 「フィレーヒア」 綺麗な音だ。彼によく似合う、そう思った。 「吹き抜けていく風のような響きだな」 まるで宝の在処を知ったかの様にそう言われて、白皙の顔が綻んだ。  ああ、笑顔だ。王は胸の奥に温もりが広がっていくのを感じる。ささやかな微笑みではあるけれど、これは笑顔と呼んで申し分のない表情だ。全能の魔法なんかよりずっと価値があると、見惚れながら思う。  つい長く見つめ過ぎたことにはっとして、せっかく冷め始めていた頬が再び熱くなったのをごまかすように、ショルカは口を開いた。 「あ……その、うなされて疲れているだろう。ゆっくり眠れ」 「私は、そんなに呻いていたのか……?」 「ああ……寝言で、助けてってずっと言ってた」 夢の中でこらえた声は、現実に漏れていたのか。ふと、フィレーヒアは覚めたはずの悪夢を思い出しそうになってしまう。どんなに叫んでも、終わらない凌辱。私を助ける者など、どこにも……。  瞳が潤み始めた魔法使いに、王が言う。 「助けに来たぞ、フィレーヒア」 「えっ……」 まるで心を読まれたようだと目を見張る。王は、澄んだ声で言葉を続けた。 「お前を助けに来た。これからもずっと、何回だって助けてやる」 「本当に……?」 「ああ、約束だ」 気が遠くなるような時間の中で、繰り返し叫んでいた。一体誰を呼んでいるのか、自分でも分からぬまま。  格好つけきれずに自分で発した言葉に照れ笑いしているショルカを前にして、フィレーヒアは思う。私がずっと呼んでいたのは、もしかしたらこの男だったのかもしれない、と。  ショルカはそれから毎晩、フィレーヒアの傍で夜を明かした。律儀にベッドの脇に椅子を運び、それに座って顔を覗き込みながら、細い指先を両手に包んだ。  フィレーヒアが朝目覚めると、ショルカはいつも手を繋いだまま、ベッドに突っ伏すようにして眠っていた。それが数日続き、見かねた魔法使いは、ある晩寝室にやって来たショルカに緊張した声で問いかけた。 「ベッドに……入るか?」 「えっ……いいのか?本当に?」 「……毎晩椅子で寝るんじゃ、大変だろう。だから……」 「どんな格好でも寝れるのが自慢なんだが、体を伸ばせるならそれ以上のことは無い。ありがとう」 ほんの微かな躊躇は見え隠れしたものの、逞しい体はすぐにシーツに滑り込んでくる。布団の下で、寝そべる二人の肩が触れ合った。  どちらからともなく向かい合い、手を取り合う。瞳にお互いが映るほどの至近距離だ。ショルカの頬が、思い出したように紅潮し始めたのを見て、フィレーヒアは目を閉じた。  仕方ない、少しだけ我慢してやろう。今までされてきたこととは違う、あくまでこれは等価交換だ。親切にしてもらっている礼として、ほんの少し触らせてやるだけ。心の中でぶつぶつ呟きながら、やって来るはずの体温を待つ。しかしそれは、いつまで経っても訪れなかった。  ああ、もう、何をぐずぐずしてるんだ。痺れを切らして目を開けると、ショルカは既にぐっすりと眠っていた。まるで小さな子供のような幸せそうな寝顔に、拍子抜けする。  そうか、今日は疲れていたのか。連日、座ったまま就寝していたことを思えば無理もない。フィレーヒアは一人で頷き、自分を納得させた。明日の夜には、疲労も回復しているだろう。  しかし次の晩も、ショルカは手を握る以上のことをしてこなかった。白磁の頬や宝石よりも煌めく瞳を前にして、見つめたり目を逸らしたりをしばらく繰り返した後、満たされたように瞼を閉じた。  なんだ、今日も何もしないのか。触れたくない理由でも、あるんだろうか……?隣ですやすやと寝息を立て始めた半開きの唇を、小作りな爪の先でつついてみる。  何もされないなら結構なことなのに、どうして私ががっかりしているんだ。自分自身に苛立って、フィレーヒアは頭まで布団を引き上げた。繋いだ手が解けないように、気を付けながら。    「……忘れ物は、無かったかな」 レラ国へ出発する朝を迎え、旅支度を終えたアムアが城の玄関を後にする。門の傍に待たせている馬車のもとへ向かいながら、不備がないか思料した。 「アムア!」 駆け足の靴音と共に、良く知っている声が追いかけて来たのが聞こえた。恒例のごとく、振り向きもせず応答する。 「何ですか。見送りなんて、いいのに」 「そんなわけにはいかないだろう。大変な仕事を、本当にありがとう」 息を切らしたショルカが、アムアが下げていた鞄へ手を伸ばす。どうやら、馬車まで運んでくれるらしい。 「アムアが不在だと、暫く寂しくなるな」 「……うるさい奴がいなくなって、清々するの間違いでは」 「そんなわけないだろう。はやく帰って来てくれ」 今日も今日とて、嫌味は通じない。やっと振り返ったアムアの目に、心の底から切なそうな表情の王が映る。なんとなく胸が痛んで、喜びそうな話を振った。 「……あの魔法使いは、元気ですか?」 「ああ、この国に来た時に比べたらだいぶ元気になったと思うぞ。この間、初めて笑顔を見せてくれて……」 その光景を思い返したのか、ショルカの目尻が段々と下がっていく。 「……惚れてますねぇ」 「また、そうやって茶化して……」 側近の言葉に抗議しようとした王は、途中で思い直したように俯いた。 「……いや、アムアの言うとおりだ。心底、惚れてるよ」 「あら、そうですか。まあ、陛下も若いから色々あるでしょうけど、あんまり事を急がないように」 図星を指されたかのように、王が不安げな表情になる。 「や、やっぱり早かったかな……同衾は」 「ドウキン?」 「でも、フィレーヒアの方から提案してきたんだ!断るべきだったのかな……どう思う?」 なんで私がこんな相談を聞かなきゃいけないんだと、気苦労の絶えない側近は顔を引きつらせる。 「良いのでは、別にお互いが嫌じゃないなら……」 言葉の冒頭に「どうでも」を付けそうになるのを堪えて、アムアは答えた。 「そう、そうだよな。ただ、毎朝フィレーヒアがちょっとだけ不機嫌そうなのが気になって……もしかしたら気のせいかもしれないくらい、ちょっとだけなんだが」 「陛下が下手なんじゃ?」 「下手って、何が?」 聞き返してくるショルカの無垢な瞳は、わざととぼけているようには見えない。 「え、向こうから誘われて同衾してるんですよね?」 「ああ、そうだ。毎晩、手を繋いで寝てるぞ」 「それだけ?」 「そうだけど……」 気の毒に。アムアは、魔法使いに同情した。この鈍感な王が相手じゃ、ここから先は前途多難に違いない。  まあ、私には関係のないことだと、側近は話題を変えた。 「……あの魔法使い、フィレーヒアって名前なんですね」 「そうだ。この間、教えてくれた。名前で呼べるというのは、いいものだな。口にする度に、宝物を貰っているような気分だ」 王の顔が、照れくさそうに綻んでいく。 「元気づけてやりたいと思いながら、私の方が毎日彼に救われている」 その言葉を聞きながら、アムアは思い出す。ナイフで刺された夜も、ショルカは血を流しながら似たようなことをあの魔法使いに言っていた。  お前の傷が癒えるなら、私も共に救われる、と。 「なあ、アムア」 一瞬の沈黙の後で、ショルカがそう呼びかけて立ち止まる。真剣な声の響きに、急ぎ足だった側近は歩みを止めて向き合った。 「レラ国へ物資を贈ること……思い付きの発言でアムアに苦労をかけるのは、本当に申し訳ない。でも、熟考したとしても……きっと私は、同じことを言うと思う」 「……ええ、そうでしょうね」 軽く息を吐きながら、アムアはショルカの顔を眺めた。美しい獣のような面差しは、見れば見るほど名君と名高い先王によく似ている。腰まで伸ばした髪の長さまでそっくり同じで、生き写しと謳われるのも納得だ。  けれど、この側近は若き王に、また違う人の面影を重ねていた。  今も、その人と出会った日のことを鮮明に思い出せる。もう二十年以上前のことだ。道端で行倒れていた幼いアムアを抱き上げてくれたのが、当時は王子と呼ばれていた、その人だった。 『もう、大丈夫だ。私と一緒に行こう』 哀れな孤児に王子が優しく告げる。それを聞いて、傍に居た彼の従者は困り果てた顔をした。 『この赤毛からして、レラ国の者でしょう。温暖な我が国へ、仕事や食料を求めて不法に入国する者は後を絶たないんです。中には、そのままこうして、倒れる者もいる』 『だから、何だ?』 『ですから……こういうのは一人助けるとまたやって来るから、そのまま置いて行かれた方が……』 従者の声を遮るように、王子は痩せこけた小さな顔に頬ずりした。 『生きとし生ける者は、皆同じだ』 そう言い切った澄んだ声も、透明感のある優しい顔立ちも、痩せた腕からは想像できない力強さも、どんなに時を隔てても色褪せることは無い。王子の頬はひんやりと冷たかったけれど、それはアムアが知りうる世界の中で最も温かかいものだ。  光だ。朦朧とした意識の中で、孤児はそう思った。光り輝いているんじゃない。この人は、光そのものだ。 「……陛下は、お父様によく似てらっしゃいますね」 「いきなり、どうしたんだ」 脈絡のないアムアの言葉に戸惑いながらも、ショルカは父の面差しを思い浮かべた。 「父はとても優しい顔立ちだった。皆、私の目鼻立ちは祖父にそっくりだと言う」 「あなたは似ていますよ、お父様に」 精悍な王の顔をじっと見つめ、わずかにためらった後、その頬に手を伸ばした。かつて孤児だった側近の指先に、熱がうつる。  他の誰も、ショルカ自身さえ、気づかないくらいのかすかな面影かもしれない。しかしアムアは、一見正反対に見えるこの王の面差しに、忘れることのない彼を感じる。私はあなたがどこへ行っても、どんな姿になっても、必ず見つけ出すと誓ったのだ。  予定時間ぴったりに、レラ国へと向かう馬車は出発した。その中で揺られながら、アムアはまだ王子と呼ばれていた頃のあの人を思い出していた。  正装に身を包み、品のある笑みを見せる姿は、彼の母である先王の后によく似ていた。布を織るのが趣味で、誕生日に父から贈られた織機を何よりも大切にしていた。  純血のコーグ人ばかりが揃う城の中で、混血であるアムアがからかわれることは少なくなかったけれど、命の恩人の傍に居られることが幸せだったから、一生懸命お仕えした。  雪を見たことがないという王子に、レラとコーグの国境付近場所にあるとっておきの銀世界の場所を教えたのは、彼が駆け落ちする数日前のことだった。 『うわぁ……これは、絶景だね』 『でしょう。両親が元気だったころに、一緒に来たんです』 得意気に胸を張った十二歳のアムアが、寒風にくしゃみをする。王子は自らの上着を脱いで、そっと小さな肩にかけてくれた。子供の体には大きすぎるそれが、地面についてしまうことも厭わずに。 『本当に綺麗な場所だ。いつか子供が生まれたら、僕もここへ連れて来よう』 白い世界に清らかな声が響き、消えていった。  王子が居なくなってからも、アムアは城で働き続けた。早すぎる出世は血のにじむ努力の結果に他ならなかったのに、女顔で小柄な容姿が災いして、いつも先王の愛人だと揶揄された。  低俗な噂を見下しながら、毎日のようにあの人が寄せた頬の感触を思い出した。どんなに下世話な想像をされようと、この生涯で誰かに体を許すことなどありえない。私の胸に居るのは、この身が果てるまでただ一人だ。  何不自由なく暮らしていた光の王子が、城に出入りしていた庭師の女性と、どうして全てを捨てるほどの恋に落ちたのか。それを誰もが不思議がっていた。彼女は美人ではなかったし、いつも汚れた服を着ていた。にこやかな女性ではあったけれど、その顔も体も土で汚れ、指先は爪の中まで茶色く染まっていた。けれど容姿や服装にではなく、彼女が育てる色鮮やかな花々に、王子は彼女自身の美しさを見たのだ。

ともだちにシェアしよう!