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●光に微笑む花の色⑦ 通じ合う二人
レラ国へ旅立ったアムアを見送ってからしばらく、ショルカはいささかぼんやりした雰囲気で日々を過ごしていた。有能な側近は、不在にする期間を見越して莫大な量の仕事をこなしておいてくれたので、お飾りの王がするべきことは特にない。しかし、しょっちゅうあれこれ世話を焼いてくれる存在が居ないというのは、なんだか心細いものだった。
そんな中で気持ちを和ませてくれたのは、やはりフィレーヒアの存在だった。食事を共にし、手を取り合って眠る毎日に変化は無かったけれど、哀れなほど痩せていた彼は徐々に艶を取り戻していった。
フィレーヒアが初めて食事を完食した日、感激した料理人が部屋を訪ねてきたのがきっかけで、彼らは随分と仲良しになった。溌溂とした侍女も変わらず、何かと世話を焼いてくれている。誤って地上に咲いたような絶世の美貌は、欲深い君主達にとっては手折りたくなるものだったかもしれないが、心の清い彼らからすれば慈しむべき可憐な花に他ならない。
痛々しかった魔法使いの表情は、ゆっくりと、そして確かに豊かになっていく。平穏な日々が続き、いつしか王と魔法使いが同衾を始めてから一か月が経とうとしていた。
ある日の夕食後、何やら侍女と耳打ちしながら早々と部屋を出て行ったフィレーヒアを見送ると、ショルカはソファにその身を運んだ。軽く背伸びをした後で、うとうとと微睡み始める。
そのままどれくらい過ぎたのだろう。この世とあの世を行ったり来たりしながらふと正面に気配を感じた。ああ、きっとあの口うるさい側近だ。こんなところで寝るなんてだらしないと睨んでいるのだろう。でも、今はレラ国へ行っているはずじゃ……。
「アムア、帰って来たのか……?」
重い瞼を持ち上げて、寝ぼけまなこで問いかける。視界が輪郭を持ち始めると、目の前にはフィレーヒアが立っていた。おそらく、いや、確実に機嫌が悪そうだ。
「……そんなにあの側近が恋しいか」
「いや、そういうわけでは」
弁明しようと試みるも、寝起きで口が回らない。焦って細かく瞬きしながら、はっと気づいた。
「あれ……随分、雰囲気変えたな」
いつもは下ろしている長い金髪を、今目の前に居る彼はすっきりと纏めていた。全て首にかからぬように結い上げられ、とても涼しげだ。
「気分を変えたいという話をしたら、侍女がやってくれたんだ。お試しのつもりだったが、なかなか悪くなかったからショルカにも見せてやろうかと……」
滲む不機嫌さはそのままに、はらりと落ちたおくれ毛を掬いながら教えてくれた。
「悪くないなんてもんじゃない。凄くよく似合ってるぞ」
「……それだけか?」
「ええ……」
どうせ、侍女にありとあらゆる言葉で褒めちぎってもらっただろうに。ショルカは苦笑した。
「綺麗だよ、フィレーヒア。信じられないくらい綺麗だ。例える言葉も見つからないよ」
それを聞いてやっと満足したのか、色素の薄い口角が上がる。機嫌が直ったようで、ショルカはほっと胸を撫でおろした。
無理やり引っ張りだされたような誉め言葉だが、そこには一抹の偽りもない。改めて、正面に立っている魔法使いを見つめる。覆うものの無くなった首筋に薄手のショールがかけられているのは、未だに残る傷跡を見せまいとする侍女の気遣いだろう。羽のようなそれと相まって、今日の彼は幻想的なまでに美しい。夢の世界を探しても、これほどの姿は見つからない。
「幻なんかじゃない。ちゃんと見ろ」
フィレーヒアが、そう言いながらぐっと顔を近づけてきた。白皙の肌と褐色の肌が、距離を失っていく。
ショルカの眼前に、青と緑が混じったような不思議な色が広がる。この虹彩と同じ色を確かにどこかで見たことがあるのに、思い出すことが出来ない。今までで一番近くにフィレーヒアの体温を感じ、胸を高鳴らせるのも赤面するのも忘れて、やっぱりまだ夢の中に居るのかもしれないと思い始める。
そんなショルカに、まるでこれは現実だと突きつけるかのように淡い色の唇が重ねられた。
驚きに目を見開き、ソファの背もたれに委ねたままの背筋が硬直した。そんなうぶな反応を見せている王を、魔法使いがショールを靡かせながら狭いソファに押し倒した。
「なっ……」
何をするんだ。はずみで離れた唇で、そう言いたかった。しかし、あまりに予想外の展開に、上手く言葉を紡げなかった。
体格の差は歴然で、拒絶しようと思えばいくらでもはねのけられる。わかっているのにそうしないのは、振り払った拍子にフィレーヒアを傷つけてしまうかもしれないという懸念のためだけではない。その体温に触れて沸きあがる、自分の中の熱をありありと感じたからだ。理性が揺らぎ、腕を彼の背中に回して、ぎゅっと抱きしめた。
フィレーヒアは王の体の上で、再び唇を近づけて来る。さっきよりも深いキスが、二人を結んだ。
うるさいほどに響く心臓の音が、自分のものか相手のものか、もうわからない。
フィレーヒアが指先をそっと運び、ショルカの太腿をなぞる。
「……う、あっ」
不意に上げた自らの声があまりに情けなく、王は顔を熱くした。フィレーヒアの手が、ゆっくりと内腿へ移動する。そして、服の下で芯を持ち始めていた欲望に辿り着いた。
「……っ!」
布越しとはいえど、その場所を誰かに触れられるのは初めてだった。経験したことのない感覚に、ショルカの腰が思わずはねる。彼を抱きしめていた腕から力が抜け、のぼせそうな頭がますます熱を帯びていく。
フィレーヒアが何を考えているのかわからないが、もう我慢なんかできそうにない。ただ触れるだけじゃ足りない、その先まで全部知りたい。そんな思いに支配され、操られるように手を伸ばす。ガウンの胸元をはだけさせようとした瞬間、彼の首筋を隠していたショールがするりと滑り落ちた。心無い人間の歯の形をした傷が、王の目に飛び込んでくる。
動きを止めたショルカに構わず、フィレーヒアは逞しい体に跨り、自ら服を脱ぎ始めた。ガウンが床に落ちたのが見えてから先を、王は静視できなかった。視界が動揺に揺れているなかで次々と布が去り、気づけば美しい肢体はもう何も纏っていなかった。
ああ、だめだ。ショルカは、あふれ出しそうになる情欲を必死に抑え込んだ。辛い思いをしてきたこの男に、劣情を抱くなんてもってのほかだ。ぎりぎりの理性を繋ぎとめ、声を張り上げた。
「やめろ!」
急に発せられたいつになく荒い声に、フィレーヒアはたじろいだ。戸惑いの色を浮かべたその体を、太い腕が払いのける。押されてバランスを崩したフィレーヒアが、転がるようにソファから落ちた。
力を入れすぎた。青ざめる王の心配をよそに、彼はすぐに身を起こし立ち上がった。即座にショルカに背を向けてガウンだけをさっと羽織ると、足早に部屋の出入口へ向かっていく。
「待て。頼む、待ってくれ」
ショルカは立ち上がって、その背中を追いかけた。その姿で廊下に出るのは流石にまずいし、何よりちゃんと話がしたい。フィレーヒアが扉のハンドルに手をかける寸前で追いついて、その腕を掴んだ。抗議するような表情で振り向いた彼と、無言でしばらく見つめ合う。
長い沈黙の後で、淡色の双眸から涙が溢れた。
思わぬ展開に、王は目を丸くする。気が動転し、なだめるべき言葉も見つけられずにいると、その耳に涙声の問いかけが聞こえてきた。
「傷物は、嫌なのか……?」
「はっ?」
「だって……首の歯形が見えるまでは、乗り気だったじゃないか」
「の、乗り気って……!」
湿った雰囲気を破るように、王の素っ頓狂な声が響く。言い返したいのは山々なのだが、温厚な性格ゆえについ押し黙った。
隙をついたように腕を振り払ったフィレーヒアが、思い出したようにガウンの前をぎゅっと閉じ合わせる。
「世話になっているから、等価交換のつもりで……ショルカが相手なら、触らせてやってもいいと思って……」
言い訳をするように告げられたその言葉は、プライドの高い彼にとっては最大限に頑張った意思表示だった。しかしショルカは額面通りに受け取り、頭を掻く。
「等価交換って……。お前はそんなこと、考えなくていいんだ。美味しいものを食べて、ぐっすり寝て、笑って居てくれればいい。私は、それで満足なんだから……」
「私は、全然、満足じゃない!」
あまりにも察してくれない王に辛抱できなくなったフィレーヒアはそう喚き、ほとんど体をぶつけるようにしてショルカの胸に飛び込んだ。抱き着くと呼ぶには強すぎる衝撃を、厚い胸板が受け止める。やけくそのように発せられた言葉と相まって、それはずっと奥の鈍感な心にも流石に響き、伝わった。重なった二つの心臓の音が、競い合うように速度を増していく。
天井を仰ぎ、鼓動をわずかに落ち着かせた後で、ショルカは意を決したようにフィレーヒアの肩を抱いた。
「満足じゃ、なかったか……」
確認するように小さく呟き、腕の中で頬を染めている魔法使いの耳元で、ごめんな、と囁く。
筋肉質な肩に顎をのせ、ぎゅっとしがみついたまま、フィレーヒアは答えない。そう簡単に許してなんかやるものかと、唇を噛み締めた。
「……ベッドに、運んでもいいか?」
顔を見なくてもわかるくらい緊張した声で、ショルカが問いかける。どう考えたってこの状況で許可なんかいらないだろう、そう思って苛立ちながらますます強く下唇を噛んだ。
「フィレーヒアは、気持ちを口に出すのが苦手だな」
完全に無視の姿勢を決め込んだ魔法使いにため息をついた王が、やれやれという調子で言う。
「私は、察するのが苦手なんだ」
ショルカの言葉はそこで切れた。だからお前がちゃんと口に出せ、と続くことはない。苦手なもの同士おあいこだ、とでも言わんばかりに微笑みを漏らした吐息が、白く小さな耳にかかった。
薄い体はいとも軽そうに抱き上げられ、ベッドの方へ運ばれていく。フィレーヒアは、腕の中の華を気遣ってゆっくりとしか進まない足取りをもどかしいと思いながらも、情欲でも恩義でもない感情が沸き上がり続けるのを感じていた。
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