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光に微笑む花の色⑨ 無言の帰城

 アムア達を乗せてこの国を発った馬車が、再びコーグ国の城へ戻ったのは、出発から二か月近くが経った日の早朝だった。自室のベッドでフィレーヒアと共に深い眠りに落ちていたショルカは、外から聞こえる騒がしさのために目を覚ました。  この時間に、何が起きたのだ。ただ事ではない雰囲気に、王は体を起こす。ベッドから降りると、寝間着姿のままドアの方へ歩み寄った。  ショルカの手がハンドルに届くより先に、外からドアが開かれる。いつも食事を運んでくれている侍女だ。息を切らして、焦りと悲しみに満ちた、見たことのない表情を浮かべている。 「陛下、レラ国から馬車が戻りました」 長く城に仕える、めったなことでは動じない彼女が、あまりにも取り乱していた。 「アムアが、戻ったということか。何をそんなに焦っているんだ」 王は侍女に問いかけた。嫌な胸騒ぎがする。  侍女は答えるより先に、目から涙を溢れさせた。ショルカは悟る。何か、最悪の事態が起きたのだと。 「アムア様は、お亡くなりになられました。同行した従者達がご遺体を運び、たった今戻ったんです。彼らも皆、ひどい怪我をしています」 震える声で、彼女は王に報告した。  ショルカは、その言葉をすぐには理解できなかった。だから、頭の中でなぞるように繰り返した。アムアが、死んだ。  体から、力が抜ける。まるで足元の床がひしゃげたかのように、真っすぐ立つことが出来ない。 「死因は。なぜ、死んだんだ」 「どうやら、レラ国で……襲われたようです」 ショルカは壁に手をつき、何とか倒れぬよう自らの体を支えた。絶対に、倒れ込むわけにはいかない。自分を一番近くで支えてくれた側近は、もういないのだから。  王は侍女に連れられ、アムアの遺体が安置された城の広間へと向かう。考えなくてはならないことは山ほどある。それでもまず何より先に、悼みたかった。  城の廊下を渡りながら、こぼれそうになる涙を懸命にこらえた。あまりに大きな悲しみが、何度振り払っても若き王の心に襲い掛かってくる。  ふと、ぼろぼろに破れた服に身を包んだ者たちが、ショルカが向かおうとする方向から、こちらへ走ってくる。彼らは王の足元に跪くようにして、行く手を阻んだ。アムアに同行した従者たちだった。 「陛下、どうか私たちの話を聞いてください」 従者の一人が王の顔を見上げ、大きな声で訴える。 「アムア様は、レラ国の民衆に殺されました。私たちは、まず物資の半分をレラ国の城に運び、国王に挨拶した後、残りの半分を直接民衆に配ったんです。特に供給が遅れている地域へ、直接出向いて」 そこまで言って、彼は涙ぐんだ。幾分かすれた声で、言葉を続ける。 「物資は十分な量がありました。その地域の者は皆、確実に貰えるはずだったんです。でも、貰えないと思い込んだ者が焦って、暴動が起きた。全員分あると叫んでも、皆信用しませんでした。レラ国の役人が、いつもそんな嘘をついていたために」 こみ上げる涙のために、その従者はそれ以上言葉を紡げなくなった。別の従者が気遣うように彼を見つめ、代わって続きを話し始める。 「地獄のようでした。生活苦のためではなく、国を信じられないために、人々の心が地獄のように荒れていました。アムア様は、最後まで民衆に叫んでいました。物資は全員分ある。もっと必要ならまた贈る。コーグ国の王は、絶対に嘘をつかないと」 アムアらしいと、ショルカは思った。ただ義理を果たすためと割り切って、城に物資の全量を置いてくれば、アムアは命を落とさず済んだのだろう。でも貧しい地域の者たちへ、それが行き渡ることはなかったに違いない。 「民衆があれほど荒れているのに、レラ国王は他国を侵略することばかり考えている。戦力を肥やすために末端の民衆を切り捨てるような人物です。いつこの国を攻めてくるかわかりません」 ショルカは目を閉じる。あまりにも大きな重圧に、心が食らわれそうになっているのを感じる。  この国を率いる有能な側近は、家族のように支えてくれたアムアは、もう永遠に帰ってこない。その命を奪ったのはレラ国であり、そして王である私の判断に他ならないのだ。  壮大な広間を彩る眩い調度品の数々は、いつもより陳腐なものに見えた。出入口付近に飾られた先王の肖像画のすぐそばに、もう目を開くことのないアムアの体は寝かされていた。王は膝をつき、床の上の動かない指先を握る。  ずたずたに引き裂かれた服の隙間から、冷たくなった肌が覗く。顔には、白い布がかけられていた。傍に控える従者に止められたけれど、ショルカは最後にその顔にどうしても会いたかった。  布の下の顔を見て、あまりに惨いと思った。これが、あの美形の側近なのか。どれだけ心が荒めば、ここまでの仕打ちができるのだろう。  腫れあがった頬に触れ、王はそっと布を戻す。  ふと、アムアの破けた服の胸元から、黄ばんだ紙のようなものが少しだけはみ出しているのが見えた。おそるおそる手を伸ばし、それをそっと引き出す。  写真だった。フィレーヒアが本を散らかしたあの日、アムアの部屋で見たものと同じだと気づいて、王はそれを持つ指先に力を込める。映っているのは幼き日のアムアと、まだ王子だった頃のショルカの父。この写真を大切そうに抱いていた、慎まし気な笑顔を思い出す。  ――陛下は、お父様によく似てらっしゃいますね。  出発の日にそう言い残したアムアの気持ちが、痛い程に伝わってきた。 「父さんにも……居場所、あったんだな」 誰にも聞こえないくらいの声で、王は呟いた。この小さな胸の中に、父はずっと居たのだ。間違いなく、その最期の瞬間まで。  一度はアムアの胸に写真を返そうとしたけれど、迷った末にショルカはそれを自分の胸元へ差し込んだ。ふと気づけば、城中の者たちが広間に集まり始めていた。ショルカをお飾りの王と知り、馬鹿にしていた者たちの姿もある。 「陛下、民が騒ぎ始めています。レラ国に側近を殺されたことが知れ渡り始めて、怒りを奮って口々に開戦を求めています」 アムアに同行した従者の言葉に促されるように、ショルカは広間の先のバルコニーを見つめた。確かに、人々の声がする。それはじわじわと、大きさを増していく。  太陽が昇った空のもと、バルコニーの下の広場へ、民が集まり続けているのだ。 「決断してください、陛下。側近を殺したレラ国へ、こちらから戦争を仕掛けるなら今です」 また別の従者が、王を真っすぐに見据えて、そう言った。 「どうか、すぐにお召替えを。そしてバルコニーで、開戦の宣言を」 まだ寝間着姿のショルカへ、黒いローブが差し出される。先王から受け継いだものだ。戴冠式の日にもそれを纏って、民衆の前に姿を見せた。  腰まで伸びた長い髪と、瞳と同じ色をした漆黒のローブは、生涯を通して祖父のトレードマークだった。今この状況に置かれたのが先王ならば、迷わず開戦するだろう。そもそも物資すら贈らなかったかもしれないが、腹心を奪われて黙っているはずがない。国を守るためには、犠牲を厭わず立ち向かう王だった。だからこそ、今も人々に強く慕われているのだ。  城中から集まった者たちが、ショルカと、ショルカの背後の肖像画に描かれた先王を見つめている。長く艶やかな、波打つ黒髪。大地と同じ褐色の肌。逞しい獣のような、見るものを射抜く輝きを携えた瞳。名君の再来を信じるほどによく似たショルカの面差しに、若き日の先王を重ねている。  私は、祖父の背中を追うべきなのか?  同じ姿で、同じ言葉を語るべきなのか?  迷いながらも受け取りそうになったローブを、ショルカは振り払った。 「レラ国と戦争はしない。早急に、追加の物資を贈る」 「そんな、なぜ……?」 祖父譲りの尖った犬歯が覗く口元から発せられた言葉に、皆どよめき、問いかけた。 「コーグ国の王は、嘘をつかないからだ」 よく通る声が、広間に響く。アムアがレラ国の民衆たちへ誓ったのと同じ言葉に、言い返す者はいなかった。  静まり返った広間の中で、ショルカは側近の遺体が腰に携えていた護身用の短剣を手に取った。先王に似せて伸ばしていた腰までの髪を、切り落とす。豊かな髪は、肩よりも短くなった。  誰かを倣うことしか出来ないなら、私は何のために生まれたのだ?  寝間着姿のまま、ショルカはバルコニーへ向かって歩き出す。

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