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光に微笑む花の色⑩ 思い出が胸へ還る

 バルコニーから見下ろすと、広場には想像以上に人々が集まっていた。皆、口々に開戦を訴えている。恵まれた国に暮らす心温かな民は、情に厚い者ばかりで、国の指導者を思う心もまた強かった。 「開戦は、しない!」 ショルカが、ほとんど叫ぶように民衆へ語りかける。  こんな大勢の前に晒されるのは、戴冠式以来だった。あの時は一言も喋らなかったから、国民の前で声を発するのはこれが初めてだ。生来の気弱さゆえに、心臓が跳ねる。  皆の望みとは正反対の言葉を口にした王に、人々がいぶかしげな視線を投げた。  数えきれない瞳に刺される恐ろしさに、ショルカの身が震えた。あまりに弱い自分が、情けなくなる。  レラ国は、敵だ。群衆の一人が言ったのを発端に、周囲にその言葉が伝播する。その輪は、恐るべきスピードで広がっていく。  ショルカは、震えがとまらない自らの足を、爪が食い込むほどに強くつねり上げた。負けるものか。 「彼らは敵じゃない!」 裏返った声が無様なのは、よくわかっている。しかしショルカは、声を張り続けた。 「殺されたアムアが赴いたのは、敵地じゃないぞ。彼は、苦しむ友を救うために向かったんだ!」 唇の両端に鋭い痛みが走る。大きく開きすぎたために、口角の皮膚が切れたのだ。しかし、そんなこと構わなかった。 「何をもって、レラ国を敵と呼ぶんだ。あなた達と、彼らと、何が違うんだ。生まれた国か?今まさに立っているその場所か?そんなもので、何がわかる。何を測るというんだ!」 王の演説に頷く者も居れば、納得できない表情を浮かべている者も少なくなかった。  息を切らし、開戦はしないと最後に繰り返して、ショルカは群衆に背を向けた。  地続きの広間に戻った王の後ろで、バルコニーの扉が閉まった。思い出したようにがくがくと揺れ始めた足のために、危うく倒れ込みそうになる。  それを支えたのは、よく知っている腕だった。 「ショルカ、立派だった。立派だったぞ」 「……フィレーヒア。お前、いつからそこに居たんだ」 「演説の時からだ。ちゃんと聞いてたぞ。私はずっと、お前に付いていくからな」 フィレーヒアは意外にも力持ちで、ほとんど力の入らないショルカの体をしっかりと助けている。  広間の中には、王の決断に快くない顔をしている者が多く居た。彼らが冷たい目をしている一方で、ショルカの元へ駆け寄る者も同じくらい存在していた。  若き王を支持する者の一人が、フィレーヒアとは逆側からショルカを支えようと寄り添った。その顔を見て、王が目を丸くする。ショルカをお飾りの存在と知って、いつも馬鹿にした表情を浮かべていた従者だった。  驚きを隠そうともしない王に、彼は言った。 「あなたの姿を見て、ある人を思い出して……」 従者の脳裏に、ある人の柔らかな面差しが浮かぶ。もう二十年も前、レラ国からの不法入国者と思われる行き倒れの孤児を、迷わず抱き上げたときの笑顔だ。その姿を描きながら、再び口を開いた。 「次は、私がレラ国に行きます。物資を、届けさせてください」 正直、ショルカの判断はあまりに優しすぎると思った。誠実といえばその通りではあるが、自滅してもおかしくない。けれど、新王の言葉に、かつてあの人の横顔に見惚れた日のことを思い出した。 「生きとし生きる者は、皆同じですから」  ショルカは自室に戻り、ソファに体を沈ませた。これから忙しくなる。考えるべきことが山積みだ。なんとか疲労を引きはがそうと、目を閉じる。  一人で瞼の裏の暗がりの中にいると、体を包むソファの感触がありありとしたものになった。  決して寝心地のよいものではない。けれど、これはずっと大切な宝物だ。十一歳の誕生日に、アムアが贈ってくれたソファだからだ。 ショルカは、幼い自分が言った我儘を思い出す。父と暮らしていたあの家から、思い出のソファをどうしても持ってきてほしい。そう言って、随分と駄々をこねたものだ。その結果、これを手に入れた。 『父さんとの思い出の品を、運んでくれてありがとう……』 そう涙ながらに告げた幼い私の前で、アムアは得意げに笑って見せた。  ショルカの閉じた目から、涙が溢れる。  本当は、気づいていた。このソファは偽物だ。  吹き曝しになった家の中で、修復不能なほど壊れてしまっていたのか、本物の思い出のソファは持ってくることが出来なかったのだろう。似た大きさの骨組みに同じ色の布をかぶせて、わざと何箇所か傷をつけたのが容易に想像できた。  気づかない振りをして喜んだ方が、きっといいのだと思っていた。いつまでも薄汚れたそれを使い続ける私を、アムアが時折申し訳なさそうな瞳で見ていることを知っていたけれど、決して口には出さなかった。  言ってやればよかったなと、今になって思う。ソファは偽物でも、お前の心遣いが何よりも嬉しかったのだと。  王が涙を止められずにいると、ドアが開く音がした。ふと見れば、ノックもなく部屋に入ってきたフィレーヒアが、当然のように隣に腰掛けている。  なんだか急に力が抜けて、王は導かれるように体を倒し、フィレーヒアの腿に頬をつけた。 「……硬いな」 膝枕に文句を溢した王の髪が、慈しむように撫でられる。  その時、胸元にしまい込んでいた写真が、はらりと床に落ちた。  すぐに拾い上げる気力もなく、ぼんやりと枠の中の二人を目で追う。ふと、今まで気にしていなかった写真の背景に、思考が向いた。  白い。写真の表面が、削れているわけではなかった。二人の後ろに広がる背景は、一面真っ白なのだ。この光の差し方だと、撮影したのは外に違いない。 一面真っ白で、外……?  ショルカに代わって写真に手を伸ばし、拾い上げたフィレーヒアが、それを見つめて目を細めた。 「凄い雪だな。銀世界というやつか」 魔法使いが何気なく呟いたその言葉が、王の心を震わせた。ずっと忘れていた大切な記憶が、瞬く間に蘇っていく。  ショルカの眼前に、雪景色が広がる。父に連れられて行った森で、人生でただ一度だけ見た銀世界だ。  どこまでも続く白い世界の中で、幼い日のショルカが駆ける。雪に包まれるように覆われた森の木々が、わずかな隙間から緑色の葉を覗かせていた。  頭上には、終わらない銀世界の更にその先へ広がる、青い空がある。一瞬だけ降るのをやめた雪が見せてくれた、眩い色だ。  フィレーヒアの肌の色は、あの日の雪と同じ色だ。輝く瞳に宿る青と緑は、木々の葉と晴れ渡る空の色だ。初めて出会ったときから、ずっと懐かしさを感じていたのは、彼の色をした世界へ行ったことがあったからだ。  これから毎年一緒に来ようと言った父が死に、あの場所にたどり着くことはもうできない。雪の降らないコーグ国から、国境を目指して行った銀世界は、二度と帰れない場所のはずだった。  けれど、それは確かにショルカのもとへ戻ってきてくれた。姿を変えてなお、優しく、美しく、煌めくものとして。

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