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第2話 続く夜

  週明けの朝、ビルの窓越しに白い光が床を撫でていく。 透はマグカップを両手で包みながら口をつけるが、味がしない。湯気だけが顔を撫で、胃の奥は空っぽなのに重かった。 出社して一息ついてる透に、悠が小走りで近づいてきた。 「先輩! この前は本当にありがとうございました!」 大きな声とともに、資料の束を差し出す。 「ちゃんと直しました。今度は絶対にミスしません!」 先日の失敗で落ち込んでいたはずなのに、守られたことで逆にやる気を燃やしているのが伝わった。 透は受け取った紙をめくり、指で一つの数字を示す。 「……合ってる。ここの桁だけ、念のため揃えよう」 「はい!」 なぜだか耳を真っ赤にすることが多い悠に見慣れているから何も言わないが、今日も相変わらず耳を真っ赤にし、紙を受け取る。…悠の指先は温かかった。 その温度を羨ましいと感じ、すぐにそんな自分が嫌になった。 フロアの端で紙の擦れる音。部長は無言で資料に目を落としている。目が合ってはいない。けれど、視線の刃は確かにこちらの方角を撫でた。透は背筋を伸ばす。椅子が小さく軋み、その音だけが過剰に響いた。 午前は細かい修正の連続だった。スプレッドシートの関数、グラフの軸、数字の桁。自分の指がこんなにも遅いのは、寝不足のせいだと分かっている。それでも遅いこと自体が罪に思えてくる。昼休み、悠がコンビニの袋を差し出した。 「先輩、唐揚げ弁当買ってきました。たんぱく質!」 「ありがとう。……あとで」 封を切る音が怖くて、机の引き出しにしまう。油の匂いがふわりと立って、胃がきしんだ。 夕方、部長が数名を相手に手短に指示を出す声が聞こえた。抑えた低音、間の取り方、誰もが逆らえない速度。透は画面から目を離さず、カーソルを同じセルに置いたまま、動かさないでやり過ごす術を取った。背中を撫でるような緊張が、午後いっぱい消えなかった。 定時を少し過ぎた頃、左のポケットが震えた。 【来い】 二文字。冷たかった指先から更に体温が逃げる。返事は求められていない、返事をすれば遅くなるだけだ。透はノートPCを閉じ、椅子を入れ、コートをつかんだ。 タクシーの窓が街灯を流す。信号の赤が車内の天井を染め、すぐ青に洗い流される。心臓の鼓動は、信号ほど規則正しくはない。ホテルのエントランスは、週末より人が少なかった。エレベーターの鏡に映った自分の顔は、思っていたより普通で、それがひどく情けなかった。 指定の部屋の前で一呼吸。ノックすると、すぐに内側から扉が引かれる。ネクタイを外し、少しだけ着崩したシャツ。 「遅い」 それきり、言葉は要らないというように、部長はこちらへ背を向けた。 部屋の明かりは落とされ、カーテンの向こうの都市が海の底のようにぼんやりと揺れている。扉が閉まる音が、背骨に直接刺さった。 「来い」 短く落ちた命令に、膝の裏が勝手に熱くなる。動け、という言葉より確かに身体を動かす響きだった。 何かを説明するための言葉は、ここには一つも置かれていない。シャツの裾を掴む指が、うまく言うことを聞かない。喉が乾く。肩を掴まれ、ベッドの縁が膝裏に触れる。柔らかすぎるマットレスが、逃げる足場を奪う。 「……っ」 声を、噛み潰す。 その夜に起きたことを、透は語彙に乗せない。乗せれば、次からそれが名前を持って呼び出されるから。 ただ、息の仕方を忘れ、視界の端が白く滲み、指先がシーツの皺を数え、それでも世界が止まらないことだけは、はっきり知っている。 喉の奥から勝手に漏れそうになるものを、透は腕に歯を立てて押し戻した。 「……っ、く……」 皮膚の下で脈が跳ねる。噛んだ場所がじんじんと痛い。血の味はしないのに、味覚だけが痛みを覚えている。 (……痛い……でも、声を出すよりマシだ) そう思った瞬間、唇の隙間からかすれた息がこぼれる 拒むという言葉は簡単だ。けれど拒めない構造の中に自分がいることを、透はもう知っている。 「やだ……」という音は、返事を求めているのではない。自分自身への報告だった。 背に置かれた手は、ただ落ちないように支える機能だけを持っている。優しいとか優しくないとかはどうでもよく、ただ、温度だけが残った。 長い、短い、どちらともつかない時間ののち、静けさが戻る。耳鳴りと、どこか遠くで回る空調の音。 「忘れるな」 部長の声は低く、淡々とした刃のようだった。 「俺を拒否することは許さない」 その言葉は、あの日と同じ位置に正確に刺さった。抜けないまま、呼吸だけが続く。 バスルームの蛇口をひねる音が、やけに大きい。手首を洗うと、噛み跡の周りが赤くなっていた。鏡に映る自分の目は、少しだけ充血している。冷たい水で頬を叩いても、皮膚の奥に火照りが残る。その火照りが、熱でも欲でもなく、ただ「痕跡」として存在することが、いちばん耐えがたい。 帰り道、風が強かった。街路樹の葉が擦れ、信号待ちの群れが一斉にコートの襟を立てる。 (これで……終わりにしてくれ) 胸の中で言葉を置く。祈りというより、独白に近い。口にした瞬間、叶わないことを知っている種類の独白。 家の鍵を回し、灯りをつける。家事をする余裕がない…それでも、部長との関係が始まるまでは、いつ人が来てもいい程度には片付けられていた。テーブルの上には、昼に貰った唐揚げ弁当。封はそのまま、油の匂いはもう薄い。電子レンジの前で立ち尽くし、蓋を開けずにそっと冷蔵庫に移した。食べられないのに捨てられないものが、最近増えた。 シャワーを浴びる。熱すぎる温度にしても、一度火照った熱はなかなか治らない。タオルで拭いた噛み跡がまた主張を取り戻す。布団に入ると、目蓋の裏に、あの部屋の暗さがすぐ出てくる。眠るというより、目を閉じるために目を閉じた。 翌朝、目覚ましより少し早く目が開く。眠ったという実感はないのに、時間は進んでいる。顔を洗い、スーツに袖を通し、出勤の列に混ざる。 エレベーターの鏡に映った自分は、やっぱり普通だった。普通に見えることが、世の中のほとんどの仕組みにとっては善だ。だが、普通に見えることで自分が壊れていく速度は速くなる。 午前の会議。透は壁際に立って、メモを取りながら、部長の声の出し方だけを耳の端で追う。抑えた低音、必要以上の感情を混ぜない説明、決定の手順。完璧という言葉は便利すぎて嘘くさい。部長に関してだけは、便利な言葉がぴったり当てはまるのが悔しかった。 午後三時。コーヒーの香りがフロアを横切る時間帯、ポケットがまた震えた。 【来い】 心臓が、淡々としたリズムを一拍だけ外した。画面を閉じる。何も書かない。何も考えない、を考える。 退勤のラッシュより早い時間にビルを出る自分の背中に、誰の視線も乗っていないことを祈る。祈りは、やっぱり独白に近い。 三度目の夜は、短かったのか、長かったのか、うまく測れなかった。時間の単位が「嫌悪」や「羞恥」や「沈黙」に置き換わっていく。 声を堪えるために、また腕に歯を立てた。今度は血の味がした気がした。実際にはしていないのかもしれない。味覚は、記憶の嘘をすぐ引き受ける。じんじんとした痛みだけが、確かな現在だった。 「忘れるな」 同じ言葉。同じ低さ。同じ位置に刺さる。 「俺を拒否することは許さない」 帰り道、コンビニの白い光がやけに冷たい。温かいものの棚の前で立ち尽くし、蓋の写真だけ眺めて何も買わずに出る。 (終わりにしてくれ) 心の底に溜まる言葉の形が少しずつ磨耗して、意味だけが残り、やがてそれさえ薄くなる予感がした。 家に着く。ドアを閉める。背中で鍵の重みを確かめる。噛み跡がまだ痛い。袖をまくって確かめると、赤みは昨夜より濃い。冷たい水で指先を濡らし、そっと触れる。熱は引かない。皮膚の下に、誰かの存在が居座っているみたいだ。 布団に潜り、天井の端を見つめる。 (明日は――普通に働く。悠に笑う。数字を揃える。) 明日という言葉が、少し軽くなる。その軽さは、逃げるための道具だ。 目を閉じる。夜の音は、昨日と同じ速度で通り過ぎて行く。 透は知っていた。終わりは、来ない。 終わりではなく、次が来る。 その次の先…  

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