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第3話 終わらない

朝の地下鉄。揺れに合わせて、透の視界が揺れる。 広告の文字がかすみ、意味を結ばないまま通り過ぎていく。 昨夜、眠ったのかどうか思い出せない。目を閉じただけで夜が終わっていた。 会社に着いてスーツの袖を直す。噛み跡はまだ赤い。 誰も見ていないはずなのに、視線を意識してしまう。 「おはようございます!」 悠が明るい声で近づいてくる。 「先輩、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」 「大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけ」 笑って返すと、悠はそれ以上追及せずに席へ戻った。 その無邪気さに救われる反面、胸が苦しい。 (お前のせいじゃない。だけど……俺は、守りきれているのか) 午前の作業。数字が目の前に並ぶが、脳に入ってこない。 何度見直しても桁がずれて見える。 指先が冷たく、キーボードを打つ速度が落ちる。 マウスを握る手が小さく震え、思わず膝の上に隠した。 午後の会議。壁際に立ってメモを取る。 部長の声が響く。抑えた低音、寸分の狂いもない指示。 誰もが従うしかない強さ。 透はその声を、耳の奥でだけ聞いていた。 目を上げると、部長の視線が一瞬こちらをかすめる。 冷徹で、読み取れない。 (……気づいているのか?) 胸がざわめき、呼吸が乱れる。 休憩室で水を飲む。プラスチックのカップが手の中で揺れ、少し溢れた。 机に戻ると、悠が声を潜めて尋ねてきた。 「先輩、本当に大丈夫ですか? なんか……具合悪そうですよ」 「そんなことない。気のせいだ」 笑って返したが、言葉の軽さに自分で驚いた。 退勤時間。ポケットの中のスマートフォンが震えた。 【来い】 たった二文字。 (……やっぱり……) 透は画面を閉じ、立ち上がる。椅子の音に、悠が振り返る。 「先輩、今日は早いですね」 「ちょっと……用事がある」 声が掠れていた。 外の風が冷たい。体の芯が熱いのか寒いのか、もう分からない。 タクシーの窓に映る顔は、やはり普通で、それがひどく悔しかった。 部屋の扉を開けると、部長が無言で立っていた。 低い声が落ちる。 「座れ」 命令に従う自分を、透は心の中で罵った。 だが逆らえないことも知っている。 胃の奥に重い塊を抱えながら、足は勝手に前へ出る。 (――このままじゃ、壊れる) そう思いながらも、抗えない夜がまた始まろうとしていた。

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