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第4話 崩れる 

午前十時。 透の視界はにじんで、数字が二重に見えた。 キーを叩く指は思うように動かず、呼吸のリズムが乱れていく。 「先輩、本当に大丈夫ですか?」 悠が不安そうに声をかける。 「……大丈夫だ」 笑ってみせたが、声は掠れていた。 会議室。ペンを握る手が震え、紙に引いた線は歪む。 頭の奥で鈍い音が鳴った瞬間、視界が暗転する。 「篠原さん!」 同僚の声。椅子から滑り落ちる前に、誰かの腕が背を支えた。 霞む意識の中で、冷徹な顔だけが鮮明に浮かんでいた――部長 *** 目を開けると、自宅の天井だった。 布団の感触。額に冷たいタオル。 キッチンから、包丁の音と鍋の水音が聞こえてくる。 「……起きたか」 振り返った部長の姿に、透は言葉を失った。 「どうして……俺の家に……」 「倒れたお前を放っておけないだろう」 感情を挟まない声音。事実だけを述べる冷たさが胸をざわつかせた。 「……全部、お前のせいだろ……」 喉が焼けるように痛い。言葉遣いなんて考えることもせず言葉が出た。 「無理やり……追い詰めて……」 部長は眉一つ動かさずに。 「言い訳か」 「言い訳じゃない!」 「ならなんだ?」 「……」 「黙って食え」 椀を押し付けられる。匙を取ろうとしても、手が震えてうまく持てない。 「……食べられるわけないだろ……こんな状態で」 「それでも、食え」 突き刺すような冷たい言葉に、透は唇を噛みしめた。 「……もう解放してくれ… 俺は、もう無理だ……」 涙混じりの声が漏れる。 部長は目を細め、声を低く落とした。 「その程度の覚悟で責任を背負うつもりだったのか?」 「だったら……辞める。会社を辞めて責任を取る!」 布団を握る手に力を込めて叫んだ。 沈黙が落ちる。数秒後、部長がゆっくりと口を開いた。 「辞めても構わん。お前の代わりはいくらでもいる」 透の胸が痛む。 「……」 「佐藤でもな」 一瞬で血の気が引いた。 「……佐藤を……巻き込むつもりか」 「お前が降りればな。そもそも、あいつのせいだろう?」 「……それだけは…させない…!」 透の声は震えていたが、目だけは逸らさなかった。 部長は淡々と告げる。 「ならば――お前が背負え。言ったはずだろう、庇うなら自分が責任を取れと」 胸に刺さる言葉。 あの日、あの応接室で自分の口が答えたこと。 (……俺が……守ると……) 透は目を閉じた。怒りも、苛立ちも、悔しさも全部飲み込み、感情を押し殺す。 悠を守るために。自分で選んだ責任を背負うために。 「……分かった… 続ける」 かすれた声が布団の中に落ちた。 部長は視線を逸らさず、短く答える。 「それでいい」 *** 雑炊を口に運ぶ。喉が詰まりそうになるのを必死で飲み下す。 味は薄いのに、体の奥に染みて広がっていく。 匙を落としかけた瞬間、部長の手が支えた。 透は何も言わずに顔を逸らす。 冷たい言葉と、矛盾した世話。 その両方が透の心を締めつけていた。

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