6 / 38
第6話 欠落
オフィスの空気はどこか湿っていて、ブラインドの隙間から射し込む光が白々しく机の上を照らしていた。コピー機の音、電話のベル、誰かの足音。日常のはずの喧騒が、透には遠くに感じられる。
「先輩、おはようございます!」
明るい声が背中に届く。振り向けば、書類を抱えた悠が立っていた。
「この部分、数字を揃えてみたんですけど……合ってますか?」
紙を差し出す手は真っ直ぐで、瞳は期待に満ちている。
「……ああ、合ってる」
透は笑みを浮かべて答えた。
「ここだけ、桁を揃えておいた方が安心だな」
「ありがとうございます!」
悠はぱっと笑顔を見せてデスクへ戻っていった。
その笑顔を見て、胸の奥が痛む。
(守れているはずだ……でも……)
指先は冷たく、ペンを持つ手はかすかに震えていた。
資料を読み込もうとしても、文字は視界を滑っていく。
ふと顔を上げれば、フロアの一角に座る部長の姿。冷徹な横顔に目が吸い寄せられ、慌てて視線を落とす。
何も言葉を交わさなくても、存在の重みが胸にのしかかる。
***
透は帰宅し、スーツを脱いでソファに沈み込んだ。
部屋の照明をつけるのさえ面倒で、テレビだけが青白い光を放っている。
映像は目に入っているはずなのに、内容は頭に残らない。
シャワーを浴びようと立ち上がり、浴室の蛇口をひねった。
熱い湯が肌に触れる。
けれど温かさも冷たさも、感覚として届かない。
ただ水の流れる音が耳を満たし、世界を遮断する。
風呂上がり、濡れた髪を拭かずにベッドに倒れ込む。
枕がじんわりと濡れていく。
それでも目を閉じれば、暗い天井と冷たい声が浮かんだ。
【来い】
その二文字が、頭の奥で何度も点滅しているようで眠れなかった。
***
透は机に突っ伏したまま、パソコンを閉じることさえ忘れていた。
資料の数字がぼやけ、眩暈に似た感覚が襲う。
終業のチャイムが鳴ったとき、隣で悠が心配そうに声をかけた。
「先輩、今日はもう帰った方がいいですよ」
「……ああ」
笑って答えたが、足取りは重く、帰り道はやけに長かった。
家に辿り着くと、カバンを床に落とし、靴も脱ぎ捨ててそのまま倒れ込んだ。
スマホが震える。
画面には短い通知。
【来い】
透は画面を見つめ、指を動かさなかった。
(……もう、無理だ)
頭の奥で誰かの声が響く。
喉が焼けるように痛く、胸の奥がきしんだ。
ベッドに潜り込み、目を閉じても、眠りは訪れなかった。
***
目覚ましの音が鳴り続ける。
透は腕を伸ばして止め、布団に潜り直した。
行かなければ。
会社へ。
頭では分かっているのに、身体が動かない。
鉛のように重く、足に力が入らなかった。
スマホが震える。
悠からの着信。
「先輩、何かありましたか?」
メッセージ通知の文字がにじんで読めない。
次に震えたのは会社からの番号。
さらに、画面に浮かぶ名前――【椎名 蓮ー部長】。
透は耳を塞ぎ、布団を深く被った。
(……出られない。声を出したら壊れてしまう……)
***
昼を過ぎても、部屋は静まり返っていた。
カーテンの隙間から光が細く床に落ちる。
冷蔵庫を開けても、水と調味料しか入っていない。
喉は渇いているのに、立ち上がる気力がなかった。
何度も震えるスマホを、透は枕の下に押し込んだ。
無断欠勤。
背負うと誓ったはずの責任は音を立てて崩れ、心も一緒に欠け落ちていった。
***
再び震えたスマホを掴み、透は画面を見た。
表示された名前に、心臓が跳ねる。
【椎名 蓮ーー部長】
震え胸に落ちた影は止まらない。
透は目を閉じ、布団を頭まで被った。
(……頼むから、来ないでくれ……)
だがその願いが叶わないことを、透自身が一番よく知っていた。
ともだちにシェアしよう!

