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第8話 独り言
午前十時。
職場ではコピー機が鳴り、電話が次々に取り次がれていたはずだ。
だが透はその場にいない。
部長は昼から出勤するらしい。
キッチンから音がする。食器と水の音、ガスのはぜる音。
透はソファに腰を下ろし、何もできずにいた。
やがて差し出された皿。卵と野菜のスープの香りが湯気と共に広がる。
「食え」
命令の形。だがスープは優しい味だった。
匙を持つ指が震えて落としそうになると、部長は手首を押さえて支えた。
「子供か」
吐き捨てるような声。けれど握られた指は力強く、温かかった。
(どうして……こんな矛盾だらけなんだ)
心が追いつかない。
冷徹に縛るのに、世話を焼き、眠らせる。
身体だけが目的なら、とっくに捨てられているはずだ。
匙を置き、透は俯いた。
「……俺は、どうすれば…」
声は震えていた。
部長は答えない。沈黙の中で、ただ透を見ていた。
視線に晒されるだけで、心臓が速くなる。
恐怖なのか、別の何かなのか、自分でも分からなかった。
***
午後。
部長は仕事に戻ると言って玄関へ向かった。
足音が遠ざかる。扉が閉まった瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。
ソファに沈み込む。
眠れたはずなのに、胸はざわついたままだ。
背中に残る部長の体温が皮膚の奥に刻まれて消えない。
「……眠れたのは、あの人のせいだ」
声にした途端、心臓が跳ねた。
認めたくない。けれど事実だった。
窓の外で風が強まり、カーテンが揺れる。
その動きをぼんやり追いながら、透は自分の内側で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。
***
熱が引かないまま三日が過ぎた。
透は布団に潜り、時間の感覚を失っていた。昼も夜も、外の音でしか判断できない。
その間、部長は毎晩やって来た。
合鍵を渡せと言われ渡してるから、インターフォンなんて押さずに入ってくればいいのに…必ず一度はインターフォンを押す。
体を動かすのがしんどくて開けるのが遅くなった時は、「遅い」と言って鍵を使って入ってくる。
どうして、そこまで世話を焼くのか…分からないけど、聞いても答えないだろうから聞かない。
部長は、無言でキッチンに立つ。
鍋の中で米が煮える音が、今では透にとって夜の合図だった。
「起きろ」
布団をめくられ、冷徹な声が落ちる。
「……まだ動くのだるい」
「顔色は昨日よりマシだ。食え」
差し出された椀。匙を持つ手は震えて、うまく口まで運べない。
ため息とともに、部長の手が重なった。
けれどその手は確かに支えていた。
雑炊の熱が喉を滑るたび、空っぽだった胃がじんわり温まる。
「残すな」
命令通りに食べ切ると、布団を整えられ、背中を押される。
「寝ろ。明日の朝には起きられるようにしろ」
***
目を覚ますと、部長は既にシャツの袖を通していた。
テーブルには軽い朝食が置かれている。
「食え。食ったら薬を飲んで寝てろ」
足音が遠ざかり、ドアが閉まる。
それでようやく透は、部長が会社へ行ったと知る。
昼間、透は一人きりだった。
熱は下がりきらず、体は重い。
けれど夜になると再びインターホンが鳴り、部長が入ってくる。
食事を作り、薬を出し、片付け、そして布団に押し込む。
その繰り返し。
その間も、家事などを終わらせた部長が横に入ってきて抱きしめてくれたおかげでよく眠れた。
(どうして、ここまで……)
言葉にはしなかった。
***
体調はようやく落ち着いてきた。声も出せるようになり、起き上がって水を汲むこともできる。
けれど部長は変わらず夜に来て、泊まり、朝に出勤する生活を続けていた。
「もう、自分でできる……」
弱々しい抗議。
「黙れ。俺がやる」
返ってくるのはいつも通りの冷徹な一言。
テーブルに並ぶ皿。魚の焼けた香ばしい匂い、湯気の立つ味噌汁。
透は箸を持ちながら混乱していた。
(冷たい言葉しか言わないのに。どうして、こんなことまで……)
矛盾だらけだった。
***
その夜。
いつものように、全ての家事が終わった部長が布団に入り込んできて、そっと腕枕をしながら抱き寄せる。
なんだか、いつもは眠れるのに、今日は眠れなかった。布団に入ってきた部長と何を話したらいいのかわからず目を閉じた。
時計の針の音が部屋を刻む。
しばらく沈黙が続いたのち、低い声が落ちた。
「……お前には俺の気持ちなんてわからないだろうな」
心臓が跳ねる。
硬直した体を、必死に動かさないようにする。
「だけど……もうお前を自由にはしてやれない」
(……今のは……?)
瞼の裏が熱くなる。
一瞬、期待が胸を震わせた。
けれどすぐに否定する。
(違う。ただの執着だ。俺は都合のいい処理の相手でしかない)
涙がにじむ。
期待と絶望がぐちゃぐちゃに絡み、胸を押し潰した。
透は唇を噛み、背を向けたまま目を閉じ続けた。
部長の声はもう落ちてこない。
静かな部屋に、二人分の呼吸だけが重なっていた。
その夜、透は眠れなかった。
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