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第12話 いつもと変わらない日々
月曜の朝。
一週間ぶりのオフィスは、眩しいほどにいつも通りの音に満ちていた。
コピー機の紙を吐き出す音、電話のベル、上司や同僚の声。
透は鞄を下ろし、椅子に腰を下ろした瞬間、胸の奥が少し縮むのを感じた。
「先輩!」
真っ先に駆け寄ってきたのは悠だった。
小走りで机の横に立ち、心底ほっとしたような顔をする。
「本当に良かったです……。休んでる間、心配で」
「悪かったな。大げさにするほどじゃなかった」
そう答えると、悠は目を潤ませながら笑った。
「いや、先輩がいない間、仕事めっちゃ大変でしたから。僕なんかじゃ全然追いつかなくて……」
「何とかなっただろ」
「まあ……部長がほとんど片付けてくれたんですけど」
さらりと告げられた言葉に、透の胸が一瞬ざわついた。
「部長が?」
「そうですよ。先輩の担当分もほとんど見てくれてました。しかも普段、部長って遅くまで残ってるじゃないですか」
「ああ……」
「でも、先輩が休んでた一週間は逆に早く帰ってて……。それでも全部の案件をきっちり回してるんですから、ほんとすごいですよね」
透は机の上のペンを握りしめた。
(……知ってる。だって夜は俺の部屋に……)
悠が感心する声とは裏腹に、透の胸の内はざわめきでいっぱいになった。
周囲の同僚たちも「部長がいつも残ってくれてるおかげで助かってるよな」「見えないところでどれだけ仕事してるんだろうな」と口々に話している。
透は曖昧に笑みを作りながら、耳の奥が熱くなるのを感じていた。
(職場では完璧な部長。誰もが尊敬する上司……。でも、俺は知ってる。あの人のもう一つの顔を)
胸の奥で熱がぐらつき、机に視線を落とすしかなかった。
***
午前十時。
部長がフロアを横切ると、自然に空気が張り詰めた。
黒いスーツに冷徹な表情、無駄のない足取り。
一週間ぶりに見るその姿に、透の心臓は大きく跳ねた。
「部長って……ほんと隙がないですよね」
また悠が小声で言う。
「……ああ」
短く返す。
部長は何事もなかったようにデスクに腰を下ろし、次々と部下に指示を飛ばす。
透に向けられる特別な視線も、声もない。
それが当たり前のはずなのに、透は無意識にその動きを追っていた。
(……どうして俺は、目で追ってしまうんだ)
胸の奥が熱くなり、ペン先が震えた。
***
昼の会議。
資料を手に説明する透の声は少し硬かった。
それでも無事に言葉を繋ぎ、会議は粛々と進んだ。
部長は正面に座り、冷徹な眼差しで場を掌握している。
透に特別な言葉をかけることはない。
(これでいい。ここは職場なんだ。俺たちはただの上司と部下だ)
自分に言い聞かせる。
けれどふとした瞬間に視線が合い、その一秒で胸がざわつく。
息が浅くなり、額に汗が滲む。
「……篠原さん?」
隣の同僚に声をかけられ、慌てて首を振った。
「なんでもない」
(なんで俺は……こんな……)
会議の内容は頭に入ってこず、部長の横顔ばかりが脳裏に焼きついた。
***
夕方。
退勤の時刻を迎え、フロアにカバンを閉じる音が響く。
透も書類を整え、帰り支度を始めた。
そのとき。
「篠原」
低い声が背後から落ちた。
振り向けば、部長が立っていた。
冷徹な眼差し。
周囲の社員にとってはいつもの上司にしか見えないだろう。
「ちょっと来い」
短い命令。
透の心臓は一気に速くなる。
逃げ場を失った足が自然に動き、部長の背中を追っていた。
入ったのは空いていた小会議室。扉が閉まると、静けさが落ちる。
「体調は」
真正面から投げられた問い。
「……大丈夫です。ご心配なく」
答えながら、自分でもどこか頼りない声だと気づいた。
部長は表情を変えずに言った。
「眠れない時は、呼べ」
一瞬、耳を疑う。
冷たい命令にしか聞こえないのに、その裏に気遣いがにじむ。
「……そんなこと……」
返そうとしたが、言葉が続かない。
部長は視線を逸らさずに告げる。
「無理をするな」
短く、それだけ。
そして背を向け、会議室を出て行った。
残された透は、心臓の速さを持て余しながら椅子に沈んだ。
命令なのか、それとも――。
答えの出ない言葉が胸の奥に残り続けていた。
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