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第13話 金曜の夜
「先輩、こっちです!」
悠が明るい声で手を振る。
居酒屋の奥の長テーブルはすでに賑わっていて、ジョッキの泡が照明に揺れていた。
「お疲れさまでした!」
乾杯の声が重なり、グラスがぶつかり合う。
透は久々にジョッキを口に運び、喉を流れる苦味にほっと息をついた。
騒がしい声、煙と油の匂い、グラスの冷たさ。
一週間をやり遂げた安堵が、少しずつ酔いに変わっていく。
***
「先輩、この唐揚げでかすぎません?」
「じゃあ半分もらう」
「助かります!」
悠が皿を差し出す。
透は思わず笑って箸を伸ばした。
「悠は昔から食べるの遅いよな」
「だって噛んでるとすぐ話したくなるんです」
くだらないやり取りに、透は思わず声をあげて笑った。
自然に笑える時間。
肩の力を抜いて、心から笑ったのは、いつ以来だろう…
そう思った瞬間、部長と目が合った気がして、胸の奥がひやりとする。
グラスを口に運び、苦味でごまかした。
***
グラスは進み、酔いは加速度的に回る。
頬の熱は冷めず、頭も霞む。
「先輩、もうやめときましょう」
「大丈夫だ……明日は休みだし……」
そう言いながらも、足取りは怪しく、体は隣の悠に傾いた。
「せ、先輩!」
肩を支える腕が背をしっかり受け止める。
「……悪い、少し……酔った」
「送りますから、無理しないでください」
その温もりに情けなさを覚えつつも、一瞬だけ安堵してしまう。
***
店を出ると、夜風が火照った頬を撫で、ほんの少しだけ酔いが覚めた。
悠が肩を貸してくれる。
「タクシー拾いましょう」
「……ああ……」
その時――。
「篠原」
冷徹な声が夜を裂いた。
透の体がびくりと震える。
街灯の下に立つ部長の椎名。
鋭い視線がこちらを射抜いていた。
悠が驚きに目を見開く。
「部長……!」
「俺が送るから、あとはいい」
冷たい声音。場の空気が一瞬で張り詰める。
「でも、先輩が……」
「俺が送るのが不満か」
悠は唇を噛み、透を見てから小さく頭を下げた。
「……わかりました。では、よろしくお願いします。
先輩、また来週です!お疲れ様でした」
こちらを見て、挨拶してくる悠に返事をして見送っていると、急に腕を掴まれた。
「……ちょっと、強引すぎませんか」
抗議の声は夜風にかき消された。
掴む手は熱い。
それが怒りなのか、別の感情なのか、透にはわからない。
***
無言のまま歩かされ、人気のない路地に入ったところで、部長が足を止めた。
「……何なんですか。そんな強引に」
酔いの勢いも手伝って、透は顔を上げた。
部長の目は冷たく光る。
「当分、飲み会には行くな」
「……は?」
思わず聞き返す。
仕事の指示でもない、ただの束縛。
「そんなことまで……あなたの言うことを聞かないといけないんですか」
胸の奥から込み上げた言葉が、抑えきれずに飛び出した。
部長の声は一切揺れない。
「当然だ。……俺の前以外で弱い姿を晒すな」
心臓が跳ねた。
(……どういう意味だ)
怒りと戸惑いと、ほんのわずかな期待。
混ざり合って胸がかき乱される。
「勝手すぎる……」
俯いて呟く声は震えていた。
部長は透の肩を掴み、低く言い放った。
「勝手で結構だ。忘れるな――お前は俺から自由にはなれない」
夜の空気が凍りつき、掴まれた肩だけが熱を帯びていた。
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