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第19話 解放と重さ

「……勝手にしろ」 その一言を背に、俺は部屋を出た。 玄関の扉が閉まる音がやけに重く響く。 自由になったはずなのに、足取りは重く、駅までの道は妙に長かった。 *** 自宅に戻ると、冷えきった空気が出迎える。 ソファに腰を下ろしても落ち着かず、頭の中にはついさっきまでの光景が焼き付いて離れない。 ――冷たい声。 ――抑えきれずに笑った横顔。 ――本を閉じる仕草。 突き放されたはずなのに、まだ縛られているような気がした。 ベッドに潜り込み、何度も寝返りを打つ。 瞼を閉じれば、すぐに腕枕の感触が蘇る。 胸元の温度、一定の呼吸。 (……眠れたのは、あの腕の中だけだった) その事実が情けなく、枕に顔を押しつけた。 結局、浅い眠りを繰り返しただけで朝が来た。 *** 月曜のオフィス。 コピー機の音、電話のベル、同僚の声。 全部がいつも通りのはずなのに、遠くに聞こえる。 「先輩、おはようございます!」 明るい声に振り向けば、悠が立っていた。 「……おはよう」 自然と笑みが漏れる。 その笑顔に、悠は安心したように笑い返した。 一瞬だけ、胸の重さが軽くなる。 けれど視線を上げた瞬間、フロアの一角に座る部長の姿が目に飛び込んでくる。 書類を捌く冷徹な横顔。 昨日のことなどなかったかのように、俺など最初から存在していないみたいだった。 (……解放されたはずなのに、なんでまだ縛られてるみたいなんだ) 胸の奥のざわめきは消えず、俺は黙って資料に視線を落とした。 *** それから数日。 不思議なことに、呼び出しはなかった。 スマホが震えることもなく、【来い】の二文字を見ることもない。 最初のうちは落ち着かなかった。 通知が鳴るたびに心臓が跳ね、画面を確認しては空振りに安堵し、同時に奇妙な虚しさを抱く。 けれど、時間が経つにつれて、少しずつ日常を取り戻し始めた。 「先輩、この資料ってこう直した方がいいですか?」 「……そうだな、分かりやすいと思う」 「ありがとうございます!」 悠と交わすやり取りが増えていく。 昼を一緒に食べることもあり、仕事の帰りに軽く食事へ行くこともあった。 唐揚げ定食を頬張りながら、くだらない話をして笑い合う。 そんな時間が、ひどく懐かしく温かい。 約束を守って、酒には一切手をつけなかった。 けれど――。 (もし、部長がこの光景を見たら……) 想像するだけで胸の奥がざわつく。 呼び出しがない日常は確かに楽だ。 だけどその静けさの中に、見えない影が張り付いている気がしてならなかった。

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