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第23話 嫉妬の影
職場の空気はいつもと変わらない。
電話のベル、会議の声、コピー機の音。
その中にいても、以前ほど息苦しくはなかった。
――「いつか話す。それまで待てるか?」
あの日の言葉が、曖昧なまま胸に残っている。
何も解決していないのに、ほんのわずかな希望が心を支えていた。
部長からの呼び出しも相変わらずだ。
スマホに届く短い二文字。【来い】。
以前なら胃の奥が縮むほど怖かったが、今は深く息を吸って足を向けられる。
(……慣れてきたのか。それとも…)
答えを出せないまま、キーボードを叩いた。
***
「先輩」
昼休み、悠が書類を抱えて駆け寄ってきた。
「昨日の資料、自分なりに直してみたんです。見てもらえますか?」
透は受け取り、目を通した。
「……うん、いいな。よく考えたじゃないか」
「本当ですか? よかった……!」
悠は嬉しそうに笑い、いつものように耳の先まで赤くなる。
その反応に透もつい口元を緩めた。
その瞬間、刺さるような視線に気づいた。
フロアの奥、部長席。
冷徹な視線が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。
胸がざわつく。
何もしていないのに、罪悪感に似たものが湧き上がった。
***
夜。
スマホが震えた。
画面に浮かんだ通知を見て、透は息を呑んだ。
――【自宅】
いつもの【来い】ではない。
ただ場所を示すだけの二文字。
なのに、胸の奥が大きく波打った。
(……なんの変化…?)
一瞬、期待が芽生える。
けれどすぐに不安が押し寄せる。
(違う。結局、命令されてるだけだ。支配の延長……)
期待と不安がせめぎ合い、混乱のまま足を向けていた。
***
扉を開けると同時に、壁に押しつけられた。
「……部長……」
部長の目が真っ直ぐに迫る。
「昼間の佐藤とのやりとり……気に入らない」
低い声が耳元に落ちる。
「お前は、誰のものだ」
心臓が跳ね上がる。
嫉妬――そう思った瞬間、無性に腹が立った
「……俺は……部長の言いなりにはなってる。でも……だからって、部長のものじゃない」
吐き出した言葉に、自分の心臓さえ驚いた。
沈黙。
部長の視線は冷たく、それでいて奥に熱を宿していた。
「……お前がどう思おうと構わない」
声は低く、重く響く。
「だが――俺が呼んだら来い。それだけは忘れるな」
逃げ場を塞ぐ宣告。
支配でも、束縛でも、突き放しでもあるその言葉に、胸の奥がざわめいた。
(……俺はいったい、何を期待してるんだ)
透はただ唇を噛みしめた。
期待なんてしてはいけない。
もし“特別”に思われているなんて錯覚したら、きっと簡単に壊れてしまう。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
強く視線を逸らした。
それでも、すぐ横に立つ部長の存在は、皮膚を焦がすほど鮮明だった。
冷徹な声に怯え、矛盾した優しさに惑わされ、何度も揺さぶられてきた。
嫌悪はもうない。
むしろ、曖昧な態度の裏にある何かを知りたいと願ってしまう自分がいる。
(――そんなはず、ないのに)
もしこの気持ちを自覚してしまえば、それこそ救いようがない。
だからこそ、まだ距離を取れるうちに終わらせた方がいい。
そう考える理性と、目の前の存在に引き寄せられる心が、胸の中でせめぎ合っていた。
結局、透は何も言えなかった。
ただ重い沈黙が、二人の間に落ちていた。
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