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第26話 距離を置こうとする心

袖を掴んで泣いてしまった夜から、一週間が過ぎた。 透はまだ、あの時の自分を思い出すだけで顔が熱くなる。 (……なんで、あんな……) 自分から「部長」と呼び、袖を掴み、嗚咽を洩らした。 依存しているのは自分だと気づきかけた。 認めた瞬間、すべてが壊れてしまう気がして――その恐怖で胸がざわついた。 だから、今は距離を置こうとしている。 *** 週末の呼び出しは変わらない。 ただ、透の態度は明らかにぎこちなかった。 食卓に並べられた料理を前に、箸を持つ手が落ち着かない。 「……いただきます」 小さく呟いて口に運ぶが、味はほとんど感じられなかった。 視線を上げれば、正面に部長がいる。 冷徹な表情。 けれど、食べ終えるまで無言で見守っている。 「風呂に入れ」 「はい……」 命令に従い、シャワーを浴びる。 戻ると、部長はいつものようにドライヤーを手にしていた。 温風の音。髪を梳く大きな掌。 (……やめてくれ……優しくしないでくれ) 透は瞼を閉じ、必死に心を固めた。 触れられることを望んでしまう自分が怖い。 だから、できるだけ口数を減らし、目を合わせないようにした。 ベッドに横たわると、短い声が落ちる。 「寝ろ」 その一言で部屋の灯りが落ちた。 *** 暗闇の中、透は天井を見つめ続けた。 (……終われば、また元に戻れる……) そう言い聞かせるように心の中で繰り返す。 終われば、ただの上司と部下。 あの冷徹な人の、ほんの気まぐれで終わる。 そう信じれば、また呼吸ができる。 けれど――袖を掴んだ夜の温もりが、鮮明に残っていた。 「泣け」と許された声。 背を撫でる掌の感触。 (……違う。終わりになんかできない……) 胸の奥で小さな声が囁く。 認めたくない。 でも、認めざるを得ない。 矛盾が絡まり合い、心臓を締めつけた。 目尻が熱を帯び、涙がにじむ。 (……どうしたら……いいんだ) 布団を握りしめながら、透は声にならない問いを闇に落とした。 *** ドライヤーの音が止まり、静けさが戻る。 透は立ち上がろうとしたが、肩を押さえられた。 「そんな態度で誤魔化そうと思ってるのか」 「……っ」 「距離を置くつもりか?」 答えられない沈黙が、肯定のように響く。 胸がざわつき、透は思わず口を開いた。 ヤケクソになってたのかもしれない。 「……前に、眠れない時は呼べって……言ってくれましたよね」 「……」 「……あれは、今でも……聞いてもらえるんですか」 「……お前は、どうしたいんだ?」 低い声に射抜かれ、胸が詰まる。 答えられない。 「触れてほしい」なんて言えるはずもない。 沈黙が続く。 やがて、部長の手が肩から離れた。 「……寝ろ」 短く告げられ、透は布団に潜り込む。 背を向け、枕を濡らさぬように瞬きを繰り返した。 部屋は暗く沈む。 その時、不意に低い声が落ちた。 「……素直に言えと言っただろ?」 驚いて振り向いた。 部長は部屋の入り口に寄りかかり、影の中から透を見ていた。 冷たい距離。 拒絶にも、試すようにも聞こえる声。 胸の奥がきしみ、涙が込み上げる。 喉が震え、押し殺そうとしても堰を切ったように零れた。 「……部長……抱きしめて……」 言った瞬間、布団が揺れた。 次の呼吸の間に、部長の腕が透を引き寄せていた。 「……っ」 言葉はなかった。 ただ、固い胸板に顔を押しつけられ、大きな腕で包まれる。 そのまま布団に潜り込んだ部長が、透の頭を抱え込む。 腕枕に導かれ、強く抱きしめられる。 耳元に伝わるのは、部長の静かな呼吸だけ。 何も言われない。 責められることも、問われることもない。 ただ抱きしめられたまま、透は涙を流しながら目を閉じた。 (……ああ……俺はもう……) 意識が沈む直前、胸のざわめきが少しだけ和らいでいた。

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