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第28話 胸に落ちた影
どうやって帰ったのか覚えていない。
あの夜から、胸の奥は空洞のようにぽっかりと開き、何をしても埋まらなかった。
雑炊の匂い。冷たい声。――「自由にしてやる」。
それだけが何度も頭を巡り、眠りを奪った。
***
翌日。
透はいつものようにスーツに袖を通し、会社へ向かった。
電車の窓に映る自分の顔は、やつれて見えた。
だがフロアに立てば、笑顔を作ることはできた。
「先輩、ここ見てもらえますか?」
悠が書類を抱えて駆け寄る。
透は受け取り、目を通す。
「ここを揃えれば完璧だな」
「本当ですか? よかった!」
悠はほっと笑い、席に戻る。
その姿を見て、透は小さく息を吐いた。
前の生活に戻っただけ…
だが心の奥は冷えたままだった。
笑って返しても、虚しさが増すだけ。
食欲はなく、昼食も半分残した。
夜になって布団に潜っても眠れない。
時計の針が進む音ばかりが耳に響く。
(……本当に、もう終わったんだ)
胸の奥が重く沈んでいく。
***
週末。
冷たい風に頬を刺されながら、透はふらふらと歩いていた。
気づけば、部長のマンションの前に立っていた。
(……何してんだ、俺……)
自分でも呆れる。
帰ろうと足を向けた、そのとき。
黒いコートの男性の影が視界に入った。
部長が歩いてくる。
その隣に、女性らしい影。
透の呼吸が止まった。
笑いながら並んで歩く二人。
肩が触れ合うほど自然な距離。
(……そうか……だから、終わりにしたんだ……)
胸の奥が崩れ落ちる。
視界が滲み、涙が零れた。
「……なんだ……」
掠れた声が夜風に消える。
二人がマンションに入っていく姿を見届けることもできず、透は背を向けた。
足取りは重く、涙で街灯の光さえ滲んでいた。
***
その夜から、透はますます壊れていった。
会社では仕事をこなした。
数字を確認し、報告書を仕上げ、悠の相談にも答える。
表面上は変わらない。
けれど、胸の奥は空っぽだった。
「先輩、最近疲れてませんか?」
昼休み、悠が心配そうに覗き込む。
「そんなことない」
即座に否定する。
だが笑顔は引きつっていた。
廊下を歩けば、遠くにスーツ姿の整った背中。
自然と目で追ってしまい、慌てて視線を逸らす。
そのたびに胸が痛んだ。
(……俺は、もう必要じゃない……恋人がいるんだから当然だ……)
そう思えば思うほど、息苦しさは増すばかりだった。
***
夜。
布団に潜っても眠れない。
目を閉じれば、女性と並ぶ部長の姿が浮かぶ。
雑炊の匂い、冷たい「自由にしてやる」という声。
(……俺は……何だったんだ)
呟いても答えは返ってこない。
ただ虚しさが深く沈んでいくだけだった。
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