29 / 38

第29話 矛盾した声

夜のフロアは冷たい蛍光灯に照らされ、静まり返っていた。 コピー機の低い唸り音と、時計の針の刻む音だけが響く。 透は背筋を丸め、机に積まれた書類に視線を落とし続けていた。 いつしてもいいような雑用まで引き受けて、とにかく仕事を増やした。一瞬でも気を抜くと、部長を探して、部長のことを考えてしまうからだ。 (……忘れるんだ。部長のことなんて) だけど… ――「自由にしてやる」 あの言葉が何度も胸を抉る。 気づけば、パソコンの端には転職サイトのタブ。 ぼんやりと見つめていた。 「……環境を変えなきゃ、忘れられないのかな…」 小さく口にして、かえって胸の空洞を深める。 *** 「まだ残っていたのか」 低い声に、心臓が跳ねた。 振り返ると、部長が立っていた。 透は慌てて画面を閉じる。 「……すみません、もう少しで終わるので」 部長の視線が、机の書類から透の顔へと移る。 冷徹な瞳が真っ直ぐに射抜いた。 「佐藤を置き去りにするのか」 透の手が震えた。 「体を張って守ったのに」 短い言葉が胸を抉る。 部長の目が透の顔に留まり、ゆっくりと口を開く。 「……解放してやったのに、目の下のクマは深くなるばかりだな」 息が止まる。 突き放すようでいて、どこか気遣いが滲む声。 そして視線を外し、低く呟いた。 「……眠れない時は……呼べよ」 胸の奥が強く揺れる。 (……やめてくれ。終わったはずなのに……まだ、そんなこと言うんだ……) 信じてしまいそうな優しさが、余計に苦しかった。 透は唇を噛み、心の奥で言葉が渦を巻く。 もう堪えきれない。 (……俺は、いったい何なんだ) 「冗談はやめてくださいよ」 必死で、出た言葉だった。 「そんな冗談を俺が言うと思うか?」 「あんたの言葉は全部が冗談だろう?」 「そう思われても仕方のないことかもしれないな。だけど…まぁいい、そんなことより早く帰れよ」 そう言うと出口に歩き出す。 何かを言いかけてやめた部長に怒りが湧いた。 夜のフロアに透の呼吸だけが乱れていった。

ともだちにシェアしよう!