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第29話 矛盾した声
夜のフロアは冷たい蛍光灯に照らされ、静まり返っていた。
コピー機の低い唸り音と、時計の針の刻む音だけが響く。
透は背筋を丸め、机に積まれた書類に視線を落とし続けていた。
いつしてもいいような雑用まで引き受けて、とにかく仕事を増やした。一瞬でも気を抜くと、部長を探して、部長のことを考えてしまうからだ。
(……忘れるんだ。部長のことなんて)
だけど…
――「自由にしてやる」
あの言葉が何度も胸を抉る。
気づけば、パソコンの端には転職サイトのタブ。
ぼんやりと見つめていた。
「……環境を変えなきゃ、忘れられないのかな…」
小さく口にして、かえって胸の空洞を深める。
***
「まだ残っていたのか」
低い声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、部長が立っていた。
透は慌てて画面を閉じる。
「……すみません、もう少しで終わるので」
部長の視線が、机の書類から透の顔へと移る。
冷徹な瞳が真っ直ぐに射抜いた。
「佐藤を置き去りにするのか」
透の手が震えた。
「体を張って守ったのに」
短い言葉が胸を抉る。
部長の目が透の顔に留まり、ゆっくりと口を開く。
「……解放してやったのに、目の下のクマは深くなるばかりだな」
息が止まる。
突き放すようでいて、どこか気遣いが滲む声。
そして視線を外し、低く呟いた。
「……眠れない時は……呼べよ」
胸の奥が強く揺れる。
(……やめてくれ。終わったはずなのに……まだ、そんなこと言うんだ……)
信じてしまいそうな優しさが、余計に苦しかった。
透は唇を噛み、心の奥で言葉が渦を巻く。
もう堪えきれない。
(……俺は、いったい何なんだ)
「冗談はやめてくださいよ」
必死で、出た言葉だった。
「そんな冗談を俺が言うと思うか?」
「あんたの言葉は全部が冗談だろう?」
「そう思われても仕方のないことかもしれないな。だけど…まぁいい、そんなことより早く帰れよ」
そう言うと出口に歩き出す。
何かを言いかけてやめた部長に怒りが湧いた。
夜のフロアに透の呼吸だけが乱れていった。
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