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第30話 すれ違う心

「……部長」 呼び止めた声は自分でも驚くほど掠れていた。 足を止めた部長がゆっくり振り返る。 その黒い瞳に射抜かれると、透の胸は締め付けられた。 「……最初は、嫌で嫌でしょうがなかったんです。触れられるのも、命令されるのも、全部」 声が震え、涙が滲む。 「だけど……部長の優しさとか、腕枕で眠れる夜が心地良くて……そのうち、もっと触れて欲しい、触れたいって思うようになった」 喉を詰まらせながらも、必死に続ける。 「部長がどんなつもりであんなことをしたのか分からない。でも……気がついたら、部長のことが気になって……多分、好きなんだと思います」 頬を伝う涙を拭う余裕もなく、透は俯いた。 「でも、嫌なんです。こんな関係」 (恋人がいるし、部長は俺を好きじゃない。お互いに好きじゃないなら、これ以上一緒にいたくない。もっと好きになって……傷つきたくないんです) その心の声は胸を抉り、透の肩を小さく震わせた。 ***【部長視点】 「……好きなんです」 その言葉が耳に落ちた瞬間、体は熱を帯びた。 抱きしめたい。今すぐにでも腕に閉じ込めてしまいたい。 気づけば一歩、前に出そうになっていた。 だが次の瞬間、透の口から零れた言葉に、足が止まった。 「でも、嫌なんです。こんな関係」 伸ばしかけた腕は宙に固まり、動けなくなる。 (……やはり、そうか) 最初は、嫌がる透を支配して屈服させればいいと思っていた。 入社当時から仕事もできて誰とでも仲良くて輪の中心にいるような奴で、部下を庇い、意見してくるその強さをねじ伏せて、ちょっとした好奇心のつもりだった。 そうやって支配して、飽きたら解放するはずだった。 ――だが。 腕枕で眠る透を見た夜、自分は気づいてしまった。 嫌がる顔でも、苦しむ声でもなく、安らかに眠る表情に心を奪われたことに。 愛しいと思ってしまったことに。 (離れられなくなっていたのは、俺の方だ) だが、どうすればいいのか分からなかった。 これまで誰かを好きになったことなど一度もない。 気持ちを伝える術も知らない。 本当は優しい言葉をかけたいのに、口から出るのは冷たい言葉ばかり。 (触れていたい。ただ、それだけなのに……) だから黙るしかなかった。 透の涙を見ながらも、何も言えなかった。 *** 「……もういいです」 透は震える声で絞り出した。 「前みたいに……会社にも、部長にも迷惑はかけませんから」 強がりのはずのその声に、未練が滲む。 だが部長は動けなかった。 拒絶でも肯定でもない沈黙だけが、二人の間を冷たく裂いた。 (……俺は、結局なんだったんだろう) 透の心を押し潰すように、時計の針の音だけが響き続けていた。

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