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第31話 頼られない相手
朝、出社してすぐに耳にした一言が、透の一日を縛りつけた。
「椎名部長、体調不良でお休みだって」
同僚の何気ない声。
その瞬間から、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
(ただの風邪かもしれない。寝ていればすぐ治るのかもしれない……でも)
パソコンに向かっても、文字が頭に入ってこない。
電話を取りながらも、相手の声より部長の顔ばかりが浮かぶ。
会議で報告する声は震えていて、何人かに心配そうに見られた。
昼休み、悠が机に駆け寄ってきた。
「先輩! この前話した合コン、今日ですけど大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
曖昧に答える。悠の目はきらきらしていて、こちらの胸のざわめきとは正反対だった。
(普通に、そういう場に出ればいいんだ。
新しい出会いがあれば……部長のことなんて忘れられるかもしれない)
自分にそう言い聞かせる。
それでも午後の仕事中、時計の針が進むたびに、胸の奥はざわめきを増していった。
***
夕方。
退勤時間が近づいても、透は机の前で立ち尽くしていた。
スマホには合コンの待ち合わせ場所が送られてきている。
けれど、画面を見ても一歩も動けなかった。
(……このまま行っても、俺はきっと笑えない。
部長が苦しんでるかもしれないのに)
気づけば足は自然に会社を離れていた。
行き先は――部長のマンション。
(俺は馬鹿だ。忘れたいのに、余計に……)
自嘲しながらも、足を止められなかった。
***
エントランスでインターフォンを押すと、すぐに返事があった。
出たのは、女性の声。
「はい?」
「あの……椎名部長は……」
「今、休んでますけど。どちら様ですか?」
透の心臓が跳ねた。言葉が出てこない。
女性の自然な問いかけに喉が詰まって声が出せない。
(……体調が悪いとき、部長が頼る相手は俺じゃない。
俺じゃなくて――この人なんだ)
頭では分かっていたはずなのに、胸が潰れそうになる。
ここに来た自分が愚かで惨めで、いたたまれなくなった。
「すみません、大丈夫です」
かろうじてそう告げ、透は逃げるようにその場を後にした。
夜の風が頬を刺す。
どこへ歩いているのかも分からない。
(俺は、必要じゃなかった。
ただ都合よく、体を差し出していただけ……と言ってもキスもセックスもしてない)
呼吸が乱れ、視界が滲む。
胸の奥から込み上げるのは、孤独と後悔と――どうしようもない寂しさ。
(誰でもいい。抱きしめてほしい。
この空っぽを、埋めてほしい)
無意識にスマホを取り出し、連絡先を探す。
指が止まったのは――悠の名前だった。
***
「先輩……!」
駆けつけてきた悠の顔を見た瞬間、堰が切れた。
透は言葉もなく、その胸に縋りついた。
子供のように声をあげて泣く。
「……俺、もう……どうしたら……」
「大丈夫です、先輩。俺がいます」
悠の腕が強く背を抱きしめる。
温かい。
あまりに温かくて、涙が止まらない。
そのまま悠に連れられ、彼の家へ。
***
「落ち着きましたか?」
差し出されたタオルで顔を拭いながら、透は頷いた。
けれど、悠の腕は離れない。
「……先輩」
低く呼ばれ、顔を上げた。
悠の視線が真っ直ぐで、近い。
次の瞬間、彼の顔がさらに近づいた。
「……や、め……」
慌てて身を引く。
「ご、ごめん……!」
透は立ち上がり、逃げるように玄関へ向かった。
背後から名前を呼ぶ声が追いかけてきたが、振り返ることはできなかった。
***
翌週の会社。
透はいつも通りに仕事をこなした。
悠とも普段通りに話す。
部長とも必要なことだけを交わす。
(……何もなかったように。
そうしていれば、きっと……大丈夫だ)
そう思い込もうとするほど、胸の奥のざわめきは深くなっていった。
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