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第32話 諦めきれない
午後の会議は、終盤で冷たい空気に変わった。
資料の差し替えが間に合わず、先方の数字が一行ずれて表示されたのだ。致命傷ではない。だが、椎名の部署で「粗」は許されない。
「……すみません、また僕が——」
会議室を出た途端、悠が血の気のない顔で頭を下げる。
透は肩を押して小さく首を振った。
「落ち着け、悠。先方に送る前で良かったじゃないか。気を取り直せ」
そのやりとりを無言で見ていた部長が、視線だけで示す。
フロア奥の小会議室。ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。
「座れ」
透は椅子の背にもたれず、背筋を伸ばす。
部長は机の端に手を置き、低く短く切り込んだ。
「——責任はどちらが取る?」
胸の奥で、初夜の記憶が鈍く疼く。
(また、その問いか……)
逃げずに、透は見返した。
「俺が取ります。——辞めて責任を取ります」
即答だった。部長の眉がわずかに動く。
「それはダメだ」
「どうしてですか」
「許可しない」
瞬きひとつ分の静寂のあと、透は唇を結んだ。
「前のように、言いなりになるんですか? 俺が。——あのときみたいに」
部長は目を細める。
「——そうだな」
刃のような肯定。
喉が焼けるように熱くなって、透は言葉を押し出した。
「できません」
声が震えた。
「そんなことしたら、部長を諦めきれなくなる。……恋人もいるのに、逆にそうなるって分かっていて、それでも前のように……責任、取ってくれるんですか?」
黒い瞳が深く揺れ、低い息が落ちた。
「あぁ、俺が取る」
「何言ってるか分かってますか?そんな無責任な人だと思いませんでした……っ」
「……諦めなくていい」
「…は?」
視線は逸らさないまま、押し殺した声で。
「少しずつでいい。——お前のことを教えてくれ。
それで、俺のことも知って欲しい」
透は息を呑む。心臓が痛いほど跳ねた。
「でも、恋人は……」
「恋人?…もしかして——あれは幼馴染で、男だ」
部長は淡々と首を横に振った。
時間が止まったように思えた。
(……男?)
喉が乾く。先週末、扉の向こうに立っていた“女性”の影が、音もなく別の輪郭に置き換わる。
「体調を崩した時に世話を焼く。昔からそういう関係だ。医者だしな」
余計な装飾のない説明が落ちる。
「先週、お前がインターホンを押したろう。出たのはそいつだ」
部長の目が、まっすぐ透を捉え続ける。
言い訳にも虚勢にも聞こえない、乾いた事実だけの声だった。
「……でも、じゃあ、どうして“自由にする”なんて」
掠れた問いに、部長の喉がわずかに動く。
「それは、お前が『嫌だ』と言ったからだ。男同士の関係そのものを拒まれたと思った。……だから手を離した」
静かな声で言う。
透の胸に、遅れて熱が広がる。
「違う!関係が“男同士”だから嫌だと言ったわけじゃない……俺だけが好きなのが怖かっただけだ。もっと好きになって、壊れるのが」
声が綻ぶ。
「俺は、部長のこと、諦めなくていい?」
「それでいい」
間髪いれず返ってきた言葉に骨まで響いた。
部長は机から手を離し、ほんの半歩だけ近づく。
触れない距離。だが、逃げ道は用意されている距離。
「責任は仕事で取れ。辞めるな。佐藤はお前しか守れない」
言葉は冷たいのに、芯に熱がある。
「そして——俺のことは、今すぐ結論を出すな。少しずつでいい。話せ。お前の言葉で」
透は頷こうとして、こぼれた。
「……でも、俺は、うまく話せない」
「俺もだ」
短く、同じ欠落を告げるように。
「だから少しずつでいい」
会議室の時計が、ひとつ音を刻む。
透は深く息を吸い、吐いた。喉の苦い塊が、わずかにほどける。
「——分かりました。辞めません。悠の件は、俺が前に立って処理します。報告は逐一、上げます」
「それでいい」
透はうなずいた。
ドアノブに手をかける前、振り返らずに口を開いた。
「言えなかったことも、いつか話してくれますか?」
一拍。
「——ああ、必ずな」
短く落ちた返事が、胸の奥の一番痛いところを、そっと撫でた。
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