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第33話 触れてしまう理由

(……諦めなくていい、なんて) 数日前に部長が放った言葉が、頭から離れない。 冷たい瞳、感情を押し殺した声音。 それなのに、その短いひと言は、透の奥深くで熱を灯していた。 信じ切れるわけじゃない。 でも嘘だとも思えない。 視線を上げると、部長とふいに目が合った。 すぐに逸らされたのに、それだけで心臓が跳ね、息が詰まる。 「……っ」 慌てて視線を戻し、キーボードを叩く。 (俺は……何を期待してるんだよ) それから数日。 会議でも報告でも、部長はいつも通りの冷徹さを崩さなかった。 けれど透の胸は、一度揺れ始めた熱に支配され続けていた。 *** 週末の夜。 透のスマホが震えた。 表示された短い通知に、思わず息を呑む。 ――【くるか?】 これまでと違う。 命令ではなく、問いかけ。 ただそれだけなのに、透の胸は強く揺さぶられた。 (…断わるはずがない) 深く息を吐き、タクシーに乗り込む。 *** 部長の部屋に入ると、テーブルの上に湯気の立つ皿があった。 鮮やかな黄色のオムライス。 ケチャップで飾られていないシンプルなそれを見た瞬間、胸が熱くなる。 「……オムライス……」 思わず声が漏れる。 「好きだろう」 短い答え。 耳の奥まで熱が広がった。 二人で向かい合い、黙ってスプーンを動かす。 味はこの前と同じ。 けれど透にとっては「また作ってくれた」という事実の方がずっと重かった。 *** 食後、シャワーを浴びて出ると、当然のように部長が待っていた。 手にはドライヤー。 「座れ」 冷たい声に逆らえず、透は椅子に腰を下ろす。 スイッチが入ると、温風が耳の横を撫でた。 部長の大きな掌が髪をすくい、丁寧に乾かしていく。 耳の後ろに指先が触れるたび、心臓が跳ねた。 (……どうして、ここまで) 堪えきれず、声に出した。 「……どうして、ここまでしてくれるんですか」 部長の手がわずかに止まる。 「風邪をぶり返されたら困る」 冷徹な答え。 透は唇を噛み、勇気を振り絞った。 「……本当ですか。俺に……触りたいだけじゃないんですか」 一瞬の沈黙。 温風の音だけが響く。 「あ、違いますよね! すみません! 調子に乗りました!」 透は慌てて顔を伏せ、耳まで真っ赤に染めた。 だが、その頭上から低い声が落ちる。 「……ああ。触りたい」 「っ……!?」 目を見開いた透は、心臓を握られたように固まった。 「な、なんで……そんな、はっきり……」 部長は髪を乾かす手を止めず、淡々と告げる。 「理由が必要か?」 「……っ、必要……じゃないです……」 透は俯き、小さな声で答えた。 耳まで真っ赤になり、呼吸さえ乱れる。 (……なんだよこれ、どうしてこんな……) やがて髪が乾ききると、部長はドライヤーを置き、透の頭を軽く撫でた。 一瞬の仕草。 それだけで胸が溢れそうになった。 *** ソファでくつろぎ、テレビをつけた。 映画が流れる。 だが透には内容が頭に入らない。 隣に座る部長の存在が近すぎて、心臓がうるさい。 (さっきの……聞き間違いじゃないよな) 触りたいと、確かに言った。 その言葉が何度も頭の中で響く。 横目で盗み見る横顔は冷徹なまま。 でもその瞳の奥に、見えない何かを探してしまう。 やがて透は瞼が重くなり、ソファにもたれた。 意識が沈む直前、隣から視線を感じた。 (……触れてくれてもいいのに……) そんな願いを胸に、眠りに落ちた。 部長は腕を伸ばしかけ、しかし途中で止めた。 眠る透を見下ろし、押し殺したように呟く。 「……可愛すぎて、困る」 その声は、透の耳には届かなかった。

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