35 / 38
第35話 湯煙の夜に
「……行かないか?」
唐突な言葉に、透は目を瞬いた。
机に積まれた資料の上から顔を上げると、部長が書類を閉じながらこちらを見ていた。
「ど、どこにですか」
「温泉だ。二泊三日」
それ以上の説明はない。ただ、その日程がクリスマスに重なることに、透はすぐ気づいた。
(……部長から“特別”に誘ってくれた……)
胸が熱くなるのをごまかすように「分かりました」とだけ答えた。
***
障子越しに雪明かりが揺れ、畳の匂いが沁みる部屋。
夕食を終え、温泉に浸かった後の体はじんわり熱い。
浴衣姿で卓に並んだ徳利を手にした部長が、短く言った。
「……飲むか」
透は頷き、差し出された盃を受け取る。
浴衣の胸元が少しはだけ、火照った肌に冷たい空気が触れる。
目の前で同じ浴衣姿の部長が酒を注ぐ。その仕草だけで胸がざわついた。
二杯、三杯と進んだ頃だった。
部長はふいに盃を置き、低く言葉を紡ぎ始めた。
「……最初は、本当に性処理のつもりだった」
透は息を呑む。
視線は合わさないまま、部長は続けた。
「最低だけど……輪の中心にいたお前をいいようにしたかった。ただ、それだけだった」
胸の奥が痛む。けれど、その先の言葉を待った。
「だけど……口は悪いし、メンタルは弱い。それなのに、俺の腕枕で安心して眠る。……そんなお前を見ているうちに、もっと知りたいと思うようになった」
酒のせいか、声が少し掠れている。
「佐藤との距離感に腹を立てたり……俺だけのものにしたいと思うようになった」
透は視線を上げた。
部長の目は真剣で、迷いの影が揺れていた。
「これがただの独占欲なのか、それとも“好き”って気持ちなのか……俺にはまだ分からない。だけど、この感情が“好き”ってことならいいなって……思ってる」
静かな沈黙。
透は唇を震わせた。
「……それって、つまり……好きってことですよね?」
部長の眉がわずかに動く。
「……好きって思っていいか?」
「寧ろ、それ以外の気持ちってあるの?」
意地のように、透は返した。
短い沈黙の後、部長はふっと笑った。
「……お前は、たまに口が悪いな」
「す、すみません!」
慌てて頭を下げる。
だが部長は首を振った。
「気にしてない。……むしろ、距離が近い気がしていい」
胸の奥が熱で満ちていく。
「……これからの俺たちの関係は……恋人、なのか? それとも主従なのか」
不器用な問いが落ちた。
透は迷わず言った。
「俺は……恋人がいいです」
障子の外で雪が静かに落ちていた。
部屋の中では、二人の呼吸だけが響く。
布団に入ると、部長の腕が自然に伸び、透を引き寄せる。
「……今日は、このまま寝ろ」
「はい……」
浴衣越しの体温に包まれて、透は目を閉じた。
(……恋人、か。こんな日が来るなんて…)
温泉宿の夜は、甘く静かに更けていった。
ともだちにシェアしよう!

