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第35話 湯煙の夜に

  「……行かないか?」 唐突な言葉に、透は目を瞬いた。 机に積まれた資料の上から顔を上げると、部長が書類を閉じながらこちらを見ていた。 「ど、どこにですか」 「温泉だ。二泊三日」 それ以上の説明はない。ただ、その日程がクリスマスに重なることに、透はすぐ気づいた。 (……部長から“特別”に誘ってくれた……) 胸が熱くなるのをごまかすように「分かりました」とだけ答えた。 *** 障子越しに雪明かりが揺れ、畳の匂いが沁みる部屋。 夕食を終え、温泉に浸かった後の体はじんわり熱い。 浴衣姿で卓に並んだ徳利を手にした部長が、短く言った。 「……飲むか」 透は頷き、差し出された盃を受け取る。 浴衣の胸元が少しはだけ、火照った肌に冷たい空気が触れる。 目の前で同じ浴衣姿の部長が酒を注ぐ。その仕草だけで胸がざわついた。 二杯、三杯と進んだ頃だった。 部長はふいに盃を置き、低く言葉を紡ぎ始めた。 「……最初は、本当に性処理のつもりだった」 透は息を呑む。 視線は合わさないまま、部長は続けた。 「最低だけど……輪の中心にいたお前をいいようにしたかった。ただ、それだけだった」 胸の奥が痛む。けれど、その先の言葉を待った。 「だけど……口は悪いし、メンタルは弱い。それなのに、俺の腕枕で安心して眠る。……そんなお前を見ているうちに、もっと知りたいと思うようになった」 酒のせいか、声が少し掠れている。 「佐藤との距離感に腹を立てたり……俺だけのものにしたいと思うようになった」 透は視線を上げた。 部長の目は真剣で、迷いの影が揺れていた。 「これがただの独占欲なのか、それとも“好き”って気持ちなのか……俺にはまだ分からない。だけど、この感情が“好き”ってことならいいなって……思ってる」 静かな沈黙。 透は唇を震わせた。 「……それって、つまり……好きってことですよね?」 部長の眉がわずかに動く。 「……好きって思っていいか?」 「寧ろ、それ以外の気持ちってあるの?」 意地のように、透は返した。 短い沈黙の後、部長はふっと笑った。 「……お前は、たまに口が悪いな」 「す、すみません!」 慌てて頭を下げる。 だが部長は首を振った。 「気にしてない。……むしろ、距離が近い気がしていい」 胸の奥が熱で満ちていく。 「……これからの俺たちの関係は……恋人、なのか? それとも主従なのか」 不器用な問いが落ちた。 透は迷わず言った。 「俺は……恋人がいいです」 障子の外で雪が静かに落ちていた。 部屋の中では、二人の呼吸だけが響く。 布団に入ると、部長の腕が自然に伸び、透を引き寄せる。 「……今日は、このまま寝ろ」 「はい……」 浴衣越しの体温に包まれて、透は目を閉じた。 (……恋人、か。こんな日が来るなんて…) 温泉宿の夜は、甘く静かに更けていった。

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