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第36話 恋人という言葉の重み

  昼の温泉街は、湯気と甘い香りに包まれていた。 観光客で賑わうお土産屋に足を踏み入れた透は、饅頭を手に取りながら隣の部長へ声をかける。 「部長、これ……どうですか?」 その瞬間、横から視線を浴びて胸がざわついた。 (……やっぱり、“部長”って呼び方が気になるんだ) 「……こんなところで部長と呼ぶのは、やっぱり……」 言いかけた透に、返ってきたのは短い声。 「呼びやすいように呼べばいい」 言葉は素っ気ないのに、その横顔にはわずかな熱が見えた。 透はそれ以上追及できず、饅頭を買い物かごに入れて誤魔化した。 *** 夜。 夕食を終え、浴衣のまま並んで布団に入る。 月明かりが障子を透かし、部長の横顔を淡く照らしていた。 静かな空気が胸を圧迫する。 眠れずにいた透は、堪えきれずに口を開いた。 「……部長は、俺に……触りたいって思わないんですか?」 一瞬の沈黙。 低く落ちた声が、空気を震わせた。 「……触りたいに決まってる」 鼓動が跳ね上がる。 頬まで熱くなり、唇が勝手に動いた。 「……じゃあ、触ってよ」 布団の中で視線が絡む。 刃のように鋭く、しかし揺るぎなく。 「その前に――透」 名前を呼ばれるだけで胸が震える。 「俺の恋人になってくれるか」 涙がにじむのをこらえきれなかった。 「……もちろんです」 口角がわずかに上がる。 「きちんと言っときたくてな」 「…うん」 「透」 「……部長」 「蓮だ」 息が詰まった。 視線を逸らせないまま、震える声で呼んだ。 「……蓮さん」 「それでいい」 目が合い、自然と口付けをした。 次の瞬間、強く抱き寄せられる。 お互いに1番欲しかったものを与えられたかのように夢中で求めた。 「透…好きだ」 低い囁きが耳に触れた瞬間、胸の奥が溶けていく。 *** 腕の中に閉じ込められ、透は初めて自分から言葉を続けた。 「……触れて欲しい」 強い腕がゆっくりと背を撫で、唇が額に落ちる。 「……俺もだ」 浴衣の紐が解かれ、肌に夜風のような冷たさが触れる。 背を伝う指先に震えが走り、同時に安心感に包まれる。 これまでの支配の延長ではない、ただ優しく確かめるような手。 「……透」 低い声に呼ばれるたび、胸の奥が熱で満ちていく。 透は顔を真っ赤にしながらも、勇気を振り絞った。 「……蓮……もっと」 二人の距離は、言葉の最後で完全に溶け合った。 恋人として初めて迎える夜、透は震えながらも全てを受け入れた。 障子越しに映る二つの影が重なり、静かな部屋に熱い息が混ざり合う。 痛みよりも、愛しいという気持ちの方が胸を突き上げる。 やがて強く抱き寄せられ、耳元に落ちた声は震えていた。 「……透。もう離さない」 透は涙を零しながら、その腕にすべてを委ねた。 (……恋人になれたんだ。蓮と――) 温もりに包まれ、ただその存在を確かめるように、夜は更けていった。

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