2 / 21
刻印(こくいん)
※性描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
ピンポーン。
ずっと鳴り続ける呼び鈴。外の空気を割るような音が、部屋の熱を切り裂いた。
「……くそ、だれだよ……っ」
匠は涙を滲ませ、必死に声を絞る。しかし遙はその問いに答えるどころか、更に深く匠を貫いた。
「……そんな事は、どうでも良いだろう」
「っ……あっ」
ピンポーン。
音は執拗に続く。まるで、この扉の向こうに居る誰かが、決して諦める気が無いと示すよう。やがて間を置いた後、今度は扉の向こうから少し高い、柔らかな声が響いた。
「……居留守かい?」
それは涼やかで落ち着いた声。けれど、その奥底には氷のような棘が潜んでいる。
「っ……まじで……だれ?」
匠の琥珀の目が大きく開かれる。遙は、その声を聞いた瞬間、無表情に近い静かな青灰の瞳を僅かに細めた。
「……無視しろ。お前は応える必要など無い」
「で、でも……!」
「他の奴の心配をしている場合か……?」
更に深く沈む熱に、匠は全身をガクガクと震わせる。壁に押し付けていた手が滑り、爪痕のような跡を残す。必死に声を堪えるほど、喉の奥から漏れる切なげな喘ぎ。玄関の外では、扉を隔てて再び声が響いた。
「……久しぶりだね、遙。今の君の完成度を、ちょっとだけ確認しに来ただけなんだけど?」
穏やかな声音。しかし、その言葉には挑発とも皮肉ともつかない冷たさが滲む。
「……帰れ」
遙の声は低く、静かに。しかし有無を言わせないほどの冷徹さを含んでいた。
「は、はるか……っ、やぁ……っ」
「ふふ……この状況でもしっかり感じているな。匠は本当にいやらしいな……」
外の声は執拗に続く訳では無かった。扉の向こうでしばしの沈黙の後、再び柔らかい声が落ちる。
「……邪魔しちゃったかな。ただ……忘れないでくれ。君の隣は僕こそが相応しい。その子とは、ただのお遊び、だよね?……じゃ、とりあえず今日のところは帰るよ。またね……遙」
遠ざかる足音。やがて、扉越しに感じる気配は完全に消えた。
「……っ、あぁっ……!」
「……ほら、お前が気を散らせる相手は俺だけで良い」
遙の声が、今度は一層低く脳に染み込むように響いた。涙を浮かべながらも匠は再びその腕に縋り、無意識に腰を揺らす。
「あっ……あぁんっ……も、だめぇ……っ」
「……あぁ。好きなだけイけ。とことん付き合ってやる」
腰を支えられ、逃げ場を失ったまま何度も突き上げられる。玄関に反響する匠の声は、夕闇へと甘く残酷に溶けていく。朔という影が去った後、更に深く狂おしく、二人の世界は再開された。
朝の光が静かに、寝室に差し込む。白いカーテンが僅かに揺れ、微かな夏の風が入り込む。毛布の中、匠は微かに息を吐いた。昨日の夕方から始まった行為。何度繰り返されたか分からない快楽の余韻が、まだ全身に滲んでいる。
「っ……うぅ……」
声にならない声が漏れる。無理に動かそうとした指先は力が入らず、そのまま布に沈む。
「……お早う、匠」
低く静かな声が耳元をくすぐる。ゆっくりと目を開けると、すぐ傍で遙が柔らかな茶髪を梳いていた。
「……お、おはよ……」
掠れた声。遙は短く息を吐くと、指先で匠の頬を優しく撫でた。
「……身体が辛いんだろう」
「……だ、誰のせいだよ……」
か細い抗議の声に、遙の口元がゆっくりと緩む。
「俺のせいだな。……反省すれども後悔せず、といった所だ」
「……バーカ」
そっと押し返そうとした指先は、すぐに力尽きて遙の胸に落ちる。その手を、遙は大きな手のひらで優しく包み込んだ。
「今日は休んでも良いぞ……」
「……だめ……大学……」
「無理するな……声も上手く出ていない」
匠は悔しそうに眉を寄せるが、反論する気力は何処にも残っていなかった。項垂れ、ふと首元や胸に濃く残る赤い痕が目に入り、顔が熱くなる。
「お前……また、こんなに……っ」
「隠す必要など皆無だ。……お前が俺のものだと云う証明だからな」
「っ……!」
声を荒げるどころか、熱に溶けた吐息しか出せない。遙はそんな匠を抱き寄せ、額にそっと口付ける。
「……今日は俺がずっと傍に居る。何も考えなくて良い」
「……ずりぃよな、ほんと……」
「……そうか?狡いのは寧ろ、お前の可愛さではないか?」
遙の声は柔らかく、しかし根底には変わらない執着が流れている。匠は小さく震えながら、その胸元に顔を埋めた。
「お前、マジで……バカ……」
言葉は途中で途切れた。その少し小さな背に置かれた遙の手は、どこまでも優しく、どこまでも深く、ただ匠を抱き締めていた。部屋の外では、夏の蝉の声が遠く響いている。だが、その音は二人の間には届かない。静かに穏やかに、しかし確実に縛られた朝。二人の呼吸だけが、ゆっくりと重なる。遙の胸に顔を埋めたままの匠は小さく息を繰り返していた。さっきまでぼんやりと霞んでいた意識が、少しずつ戻り始める。
「……なあ」
声を掛けた瞬間、遙の指がそっと唇に触れた。
「……休めと言っただろう」
「で、でも……っ」
遙の静かな目に射抜かれると匠は小さく息を詰める。それでも、抑えきれない思いが胸の奥から溢れてくる。
「……昨日の人……誰だよ……」
言葉にした瞬間、胸がズキリと痛む。朔の声、玄関越しに届いた冷たい笑み。それが、今も頭の奥でざわめいていた。
「あれは……」
遙が答えようとすると、匠は僅かに顔を上げる。熱に赤く染まった頬、伏せられた琥珀色の目。そこには恐れと戸惑い、そして微かな興味が混ざっていた。
「友達……?それとも、会社の人とか……?」
「関係無い。少なくとも、お前が気にする必要は無い」
即答する遙の声は静かだが、その底に鋭い冷たさが潜んでいる。匠は震え、視線を逸らす。
「……でも俺、すげぇ気になる」
「知る必要が無い」
淡々とした言葉に、匠の指が小さく毛布を掴む。
「何だよそれ。逆だったらめちゃくちゃキレ散らかすくせに……!」
「……そうだな」
遙は静かに息を吐き、匠の顎をそっと持ち上げる。視線が絡み合うと、匠はまた小さく震えた。
「……知ってどうする。お前にとって取るに足らない情報だ」
「っ……」
匠の唇が微かに開くが言葉は出ない。代わりに涙が滲み、頬を伝う。遙はその涙を舌で掬うと、口元に冷たい笑みを浮かべる。
「……心配するな。お前はただ何も考えず、俺の腕の中で甘えていれば良い」
「……はぁ?」
胸の奥で、ずっと重たく疼く朔の存在。けれど、それを超えるほど強い支配と甘さに縛られ匠は結局、再び遙の胸板に顔を埋めるしかなかった。部屋の中に満ちるのは、夏の光と二人の静かな呼吸音。その奥で匠の小さな不安だけが、熱に溶けきれない。
「……もういい……っ」
ポツリと落とした匠の声は、落胆の色が滲んでいた。更に、その奥には小さな棘が刺さっている。
「……匠」
呼び掛ける遙の声を、匠は無視して毛布をギュッと掴む。肩が震え、そのまま背を向けると小さく呼吸を整える音だけが聞こえた。
「バカ……もう知らね……」
小さく唇が動くが、それ以上の言葉は出ない。酷く幼い、でも誰よりも素直な拒絶。遙は、しばらく無言でその背を見つめていた。やがて匠の呼吸が少しずつ落ち着き、規則正しい寝息が聞こえ始める。
(……やはり、誤魔化されたと感じたか……)
遙は視線を落とし、匠の背中にそっと触れようとしたが、途中でその手を止めた。
一ノ瀬 朔。
あの冷たい声。柔らかい微笑みの奥に潜む、氷のような断絶。
(理想を演じる……か)
朔が遙を拒絶したあの日の記憶が未だ脳裏に焼き付いている。完璧な仮面を被り続けた自分に「失望した」と冷たく告げた声。それは今でも遙の心の奥で爪痕のように疼いていた。
(結局あいつは……俺の素を受け入れなかった)
身を起こし視線を落とすと匠の寝顔が見える。熱に赤く染まった頬、乱れた髪。不器用なほど真っ直ぐで、全てを曝け出して泣く姿。その全てが愛おしくて堪らない。子供のように拗ねて眠る姿が可愛くて仕方がない。どうしてこんなにも振り回されるのか理解出来ない。それでも、結局はこの寝顔に勝てずにいる。手放せる訳が無い。匠は自分のものだと既に確信しているから。しかし匠を愛でる感情と同時に、朔の影に動揺する自分に苛立ちが募っていく。
「……お前だけは、俺から逃げるなよ。尤も、逃げても無駄だがな」
微かに揺れる低音が、部屋の中に消える。遙はそっと毛布を整え、匠の髪を指先で梳く。無意識に縋るように手を伸ばす匠の指を、そっと握った。
(……理想も仮面も、もう不要だ。お前が居れば、それで良い)
静かな夏の朝。匠の寝息と、遙の抑え込まれた呼吸だけが熱を孕んだまま、そこに残った。
ともだちにシェアしよう!

