3 / 21
軋轢(あつれき)
都内の高層ビル群と並ぶ、ガラス張りのホテルのラウンジ。ゆっくりと注がれる紅茶の良い香りが漂い、奥の席で朔は一人、端正に腰掛けていた。手元のスマートフォンには、いくつかの未読メッセージが並んでいる。その画面を淡々と眺めながら、長い指先がカップの取っ手を優雅に掴む。
「……やはり、素の自分を抱えたまま演じているんだね、遙」
声は少し低く、独り言ともつかないほど穏やかだった。薄く笑みを浮かべるその横顔には、哀しみとも侮蔑とも取れる微細な揺らぎ。
「……それにしても、あの子は……」
一瞬、窓に映った自分の姿を見て朔は灰色の瞳を細める。その奥には遙に対する燻った未練と、それを上回るほどの匠への憎悪。そして二人の関係をこの手で壊したい、という静かな欲望が潜んでいた。
「……面白いなぁ。壊し甲斐があるよ」
ストレートのアールグレイを一口含むと、視線がカップの縁を滑る。その一挙一動は、まるで舞台上の俳優のように洗練されている。だが、その朔を遠くから覗き見ている存在が居た。
ホテル近くのカフェ。リボンとフリルがたくさん付いた、黒のゴスロリワンピースという一見可愛らしい少女のような格好。しかしその格好に似つかわしくない、鋭い眼差しで双眼鏡を持ち観察していたのはアリス。
「……フーン、わざわざあんな高級そうなとこでティータイムなんて、素敵ね♡」
カップを手に取りながら、真紅の瞳はレンズ越しにずっと朔の動きを追っている。
「……あの絶倫モンスターもヤバいけど、こっちの氷の王子様もなかなかヤバそうね……」
アリスの薄い唇が、愉快そうに吊り上がった。
「さてさて?何を企んでるのか、じっくり暴いてやろうじゃない♡」
席を立った朔が会計を済ませると、グレーのスーツジャケットの裾を翻して外へ出る。アリスは一呼吸置き、さっと立ち上がると影のように後を追った。陽炎で揺れる夏の道。朔の足取りは一定で、決して後ろを振り返らない。
「……恐ろしく早い歩行……アタシじゃなきゃ見逃しちゃうわね♡」
アリスは微笑むと、日傘を差し再び歩を進めた。その瞳には、獲物を捕らえた捕食者のような光が宿っていた。
(……あの子に少しでもちょっかい出すなら、どう料理してやろうかしら)
湿った風が二人の間をすり抜ける。朔の頭の中では、これから始めようとする計画が練られていた。
夕刻、遙のマンション。リビングの間接照明が灯り、外の西日が部屋に差し込む。遙はレポート資料を整理していた。涼しげな表情のまま、整った指先でページを捲る仕草は完璧そのもの。
その空気を唐突に破る軽い足音。
「ヤッホー、性欲モンスター♡」
アリスが部屋に入ってくると、遙は書類から視線を上げた。
「……何処から湧いた。ここは高層階の筈だが、どうやって侵入した」
青灰の瞳が細められる。怪訝な表情の遙を無視して、アリスは笑いながら茶封筒をテーブルに放り投げた。
「ヤダ、そんな怖い顔しないで?……アンタにいいモノあげるわ♡」
「俺の質問に答えろ」
「ウルサイわねぇ……。高層階だとかセキュリティだとか、アタシにとってはただの飾りなのよ」
溜め息をつき、仕方なく遙は封筒の中身を確認する。そこには、昼間の朔の行動を詳細にまとめた報告書が入っていた。
「ウフフ♡大変だったんだからぁ♡」
遙の表情は更に険しくなり、眼光が鋭くなる。
「不要だ。頼んだ覚えが無い」
遙の声は低く抑えられているが、内に潜む冷気が漂う。アリスは肩を竦めてみせた後、高い位置で二つに結われた金色の髪の毛先を細い指でクルクルと弄ぶ。
「頼まれた覚えも無いけど?……あの氷の王子様、何だか面白そうだったからアタシが一人で調査してみたのよ。アンタの可愛いネコちゃんに何するつもりなのかしらね♡」
表情を変えず遙の指が封筒をぎゅっと潰す。そのまま中の書類を手にすると立ち上がり、シュレッダーにかける。
「……無用な事をするな。これは俺の問題であって、貴様には一切関係無い」
「あっ!ひっどーい!アタシの努力の結晶が!……アンタってホント、性格悪いわよねぇ」
アリスは、わざとらしく楽しげに笑うと勝手にソファに座った。
「ちょっとした好奇心と、退屈しのぎに監視してただけよ。……報告しないほうが良かったかしら?」
遙は返事をせず、視線を封筒の中の書類に戻した。一枚、また一枚、シュレッダーへと吸い込ませていく。ふと手を止め、一枚だけ再度確認するとそこには朔の行動、会った相手、交わされた言葉。全て冷静かつ正確にまとめられている。
(……あいつは自分が望む理想に縋りながら、俺に再び近寄ろうとしている。何故だ。拒絶したのはあいつの方なのに、何故今更……)
「……下らない。只の徒労だ」
小さく吐き捨てると、遙の表情が歪む。その変化に、アリスは思わず茶々を入れる。
「ンフフ……やだ、ちょっとコワーイ。でも……そういうアンタが最高に醜くて面白いわね」
遙はゆっくりと振り返り、アリスを睨むように見据える。
「……失せろ」
その言葉には一切の隙も情も無く、鋭い冷徹さだけが込められていた。アリスは薄い笑みを浮かべたまま。
「ハイハイ、分かったわよ。……でもね?」
窓を開ける前に、アリスはチラリと遙の方を振り向く。
「アタシ、あの子の泣き顔は見たくないけど、アンタの精神崩壊したような顔は見てみたいわ♡」
その言葉を残し、アリスは軽い足取りで窓から去っていった。部屋に残された遙の手には、無意識に強く握り締められた紙が、ぐしゃりと大きな音を立てていた。
リビングの静寂に、寝室から柔らかい衣擦れの音が混ざった。
「……んっ……」
薄く赤みの残る頬、少しだけ乱れた茶髪。匠が寝室の扉をそっと開け、ゆっくりとリビングに足を踏み入れる。
「……何だ……仕事してたのかよ……」
掠れた声で呟きながら、まだ眠気の残る目を指の背で擦る。動くたびに首元の痕や僅かに引き摺る足取りが、昨夜の名残を雄弁に物語っていた。遙はアリスから渡された書類の残りをテーブルに置いたまま、その姿を見やった。
「……起きたか」
「……ん……」
短く返事をすると、匠はテーブルの端に手を置いて支え深く息をついた。小さく口を開けて息を吸い込む仕草が幼く見える。
「……水、飲む」
「……座っていろ」
遙は一度仕事用の資料を置くとキッチンへ向かい、グラスに水を注ぐ。冷たい水が注がれる音が、妙に部屋に響く。
「……ほら」
差し出されたグラスを匠は視線を泳がせながら受け取る。縁に口をつけると、僅かに震える指が見えた。
「……っ、ぷは……」
喉を通る水に、ほっとしたように小さく息を吐く。それを見届けた遙は、しばらく無言で自分より細いその肩を凝視する。
「ふふ……まだ眠いか?」
「……寝過ぎて眠い……」
匠は少し顔を赤くして返す。その声は頼りなく震えていた。グラスを置くと目元をまた擦りながら、不意にテーブルの書類に気づく。
「……それ……何?」
琥珀の目が、一瞬だけ揺れる。すぐに逸らそうとする匠の顎を遙の指がそっと掴み、視線を戻させる。
「……気にするな。お前には関係無い」
「っ……」
低音の声と短い言葉に、匠の喉が詰まり小さな吐息が漏れる。何かしら言おうとする前に遙にそっと口付けられ、言葉を塞がれた。
「……水を飲んだら、ゆっくりしていろ」
「……俺」
「良い子にしていろ」
その声に押し込まれるように、匠は面食らったような顔をした。俯いた睫毛の影に、複雑に揺れる感情が隠れる。
「……何で……」
ポツリと落とした匠の声は、か細い。けれど、遙の手に触れた指先がカタカタと震えている。
「何で、俺には何も話してくれねぇんだよ……」
俯いたままの瞳が、涙で濡れる。
「……いっつもそうだ。大事な事は全部、自分だけで勝手に決めて……」
言葉を吐き出すたびに胸の奥が軋むように痛む。震える唇を噛んだ匠は、そのままテーブルを掴むようにして身を支えた。
「誤魔化してばっかじゃん。俺には、全部見せてくれるんじゃなかったのかよ……」
その言葉に、遙の青灰色の瞳が微かに揺れた。しかし表情は変わらない。その無表情さが、更に匠の苛立ちを煽る。
「……バーカ!」
声を荒げると匠は無理に身を起こそうとする。けれど昨夜の熱がまだ残る身体は言うことを聞かず、足元がふらついた。
「匠……」
遙が手を伸ばすと、匠はそれを振り払う。
「触んなっ!」
一瞬、部屋の空気が止まる。匠の吐息が大きく震え、肩が上下する。
「何で?俺、お前の事……好きで……ずっと、そばに居たいって思ってんのに……」
声は更に震え、喉の奥で掠れた。
「それなのに……何で。何で俺には何も言ってくんねぇんだよっ!」
零れた涙が頬を伝い、ポタリとテーブルに落ちる。遙は微動だにせず、その涙をただ見つめていた。
「俺だって、ちゃんと知りてぇんだよ。遙の事、全部……」
掠れる声が、部屋の静けさに溶けて消える。
「……そうか。そんなに知りたいなら、教えてやる……」
低く押し殺した声。青灰の瞳に、妖しき篝火が静かに燃え立ち、不穏な空気が匠を包んだ。
ともだちにシェアしよう!

