5 / 21
反抗(はんこう)
高層ビルのオフィスフロア。窓越しに見える青空は、夏の陽射しで一層眩しい。遙は会議室に入り、静かに資料をテーブルに置いた。完璧に整えられた乱れの無い白いワイシャツ、美しく綺麗な姿勢。その場に居る者全員が畏敬の眼差しを向ける中、遙は平然と席に着く。
「……では、資料の確認を」
低く静かな声。その一言で場の空気が引き締まる。
(……今朝は声を掛けてあげられなかったな。またやり過ぎてしまった……。用意した朝食はちゃんと食べただろうか……)
冷静に資料に目を通す一方で、脳内では朝、寝室で眠る匠と、昨夜の匠の泣き顔を鮮明に浮かばせていた。
(それにしても……身体は素直だが、心がまだ完全に屈していない気がする。昨日のあの言葉……本心からなのか?……やはりもっと徹底的に……)
「九条さん、ここの部分なんですが……」
「後にしろ」
「え……あ、はい」
淡々と答えると、部下は怯えたように小さく肩を竦める。遙の視線はすぐに資料に戻ったが、その青灰の瞳の奥には匠の震える指、潤んだ目、熱に蕩ける声、全てが鮮やかに流れ続けている。
(……あいつ、朔のせいでだいぶ参っていた様にも見えたな。明らかに動揺していた。だが問題無い。あいつには何もさせない、何も出来ない。匠はもう俺のものだ。俺だけの……)
「九条さん?」
「……続けろ」
会議室に何故か緊張が走る。周囲の社員達は、ただ黙々と資料を読み上げるしかない。
(……帰ったら、今日はどうしてやろう。俺にしか見せない、あの怯えた顔を見たい。泣きながら好き、と縋る声が……もっと聞きたい)
ペンを回す指先が微かに止まる。しかし相反するのは止まらない加虐心。苦笑しつつ辺りを見るが、その動きに気づく者は誰も居ない。
(……俺だけを見て、俺だけを欲しがれ。それが、お前に許された唯一の生き方だ)
「……以上だ。会議を終わる」
短く告げると遙は書類をまとめ、高く結われた銀髪を揺らして静かに立ち上がる。その背中には一切の隙も疲労も見えない。だが内側では、今夜も匠を貪る為の計画が何通りも組み立てられていた。
(……匠、良い子にしているか……。今日は大学に行ったのか……?)
無表情のまま会議室の扉を閉めた遙の瞳には、淡い光の向こうに、怯えながらも泣き縋る匠の幻影が静かに映し出されている。
昼下がりの大学の講義室。冷房が効いているはずなのに、匠の額には小さな汗が滲んでいた。
「っ……」
教科書を開いてはいるが、視線はずっと同じ行を行き来するばかり。ペンを握る指先が、無意識に震える。
(クソ……全身痛え、特にケツが。……遙のクソバカ野郎!今に始まった事じゃねぇけど、毎日毎晩あんなバカデケェモン無理やりねじ込んできやがって!お陰で椅子に座んのも一苦労だぜ全く!)
一昨日、玄関越しに聞こえた声は冷たく、穏やかで、でも何処か遙に似た鋭さを持つような。そんな声が、頭の中で何度も反響する。
(遙は全然教えてくんねぇし、知ろうとしたらキレるし……マジ意味分かんねぇ)
無理やり頭を振ると茶髪が小さく揺れ乱れる。周りの学生の存在も、誰かが笑っている声も、全部が遠く感じる。
(そんなに俺に知られたくねぇのか?詮索するなって事?それにしたって、俺には知る権利があるはずじゃねぇの?)
指先が、ペンをギュッと掴む。
(……アイツは全部知ってるくせに。俺の事、俺の身体の事とか、全部……秘密なんかねぇのに!)
ふと、脳裏に浮かぶのは昨日の夜の出来事。泣いて、何度も止めてと訴えたのに、遙は一切止めるどころか行為は更に激しくなった。
(ま、言ってどうにかなる相手だとは俺も思ってねぇけどさ。アイツの頭はイカれてるし……でも……)
顔が熱くなる。それは羞恥だけじゃない。胸の奥で渦巻く、言いようのない不安と怒り。そして……。
(……それなのに、やっぱり好き、って思っちまう。俺の方がよっぽど頭おかしいのかも……)
自分自身への苛立ちが胸を締め付ける。ノートに落とした視線の先、白紙のページに爪の跡が微かに残っていた。
(遙は結局、何がしてぇんだ?何が言いてぇ?全然分かんねぇよ……)
思考がグルグルと絡まり、やがて停滞すると胸の中で淀みが溜まっていく。
「はぁ……」
小さく吐き出した溜め息。窓の外は強い夏の陽射しが眩しく輝いている。その光は、今の匠の心にはまるで届かず厚い雲に覆われ、差し込む隙間さえ無い。
講義が終わると匠はペンを置き、少し強引にノートを閉じた。胸の中で渦巻いていた悩みは、排水口に詰まった水の如く排水されず、どうにもならなかった。
(……考えても仕方ねぇや……)
無理に自分に言い聞かせるように教室を飛び出す。外に出ると夏の夕方の光が強く照り返してきた。
「おーい! 匠ー!」
少し先でこちらに手を振る友達二人。キャンパスでたまに一緒にスケッチしたり、カフェに行ったりする仲間だ。
「あ……」
声が小さくなってしまったが、二人は特に気にせず近づいてきた。
「今日このあと暇?ボウリングでも行かね?」
「そうそう、最近お前付き合い悪いからさ、たまには付き合えよ!」
「……まぁ、別に……いいけど……」
歯切れの悪い返事をしながら曖昧に笑うと、友達の一人が思い切り肩を組んできた。
「おっ!久々じゃーん! いいねいいね!」
「じゃ、決まりな!」
思わず苦笑する。こんな風に大学終わりに賑やかに過ごすのは、随分久しぶりだった。
(……考えなくていいや。今は、ただ……コイツらと遊ぶ事に集中しよ……)
ボウリング場に着くと、三人はすぐに盛り上がった。ストライクが出ればハイタッチして大騒ぎし、スペアでガッツポーズして、ガターでも爆笑する。
「おい匠、お前ヘッタクソ!」
「ガターのプロだな!」
「うるせぇ!ひっさびさなんだからしょうがねぇだろ!見てろよ、次はストライクだ!」
順番が回るたびに自然と笑顔が零れる。身体を動かしてるうちに、頭の中のモヤモヤが少しずつ霧散していくような感覚。
(アイツの事は……今だけは忘れよう!)
ストライクを取った瞬間、仲間に肩を叩かれて笑い合う。そんなささやかな日常が、思いのほか心地良かった。
しかし。
(……あーあ、帰りたくねぇ……)
一瞬よぎるのは、冷たい青灰色の瞳。無理に振り払うように、ボールを強めに投げ込む。またガターになり、友達が笑いながら囃し立てる。匠は小さく笑って、その笑みの奥に微かな影を隠した。
数時間ほど遊んで、友人二人と別れた。夜風に当たりながら帰る道、匠は小さく息を吐く。遊んでいる間はあんなに笑えていたのに、帰る足は何処か重かった。
(家帰ったら……また、どうせ……)
玄関の扉をそっと開ける。部屋の中は静かで暗いまま。
「……あれ?」
スニーカーを脱ぎながら周囲を見回す。薄暗い中、遙の気配を察知しようとするが反応は無い。
(……帰ってきてない?)
思わず小さく安堵の息が漏れる。その音が、静寂の部屋に溶けて消えた。
(とりあえず今だけは平和だ……)
リュックをソファに放り投げると、軽い肩の疲れと一緒に身体を沈める。やっと自由になったような、微かな解放感。
(……たまにはゲームでもやるか)
無造作にコントローラーを取り出し、ゲーム機を起動する。モニターに映るのは、広大なフィールドと巨大なモンスターの姿。ゲームのタイトル画面が表示され、スタートボタンを押す。
「よし、ひと狩り行くぜ!」
オンラインに接続し、クエストを受注して救難信号を出す。知らない誰かと繋がるこの感覚は、今の匠にはちょうど良かった。自分が作ったキャラクターが、シームレスにフィールドを駆け回る。モンスターを攻撃しては回避し、集まってくれたプレイヤーと共闘する。匠は徐々に集中していく。ぽっかり空いたこの心を埋めてくれるのは、脳内から湧き上がるドーパミン。
(……遙、何時に帰ってくるかな……)
一瞬、ふっと思い出したが青灰色の瞳を振り払うように、ボタンを強く押す。
「やっと倒した……!」
画面の中、モンスターが倒れると同時に小さな達成感が匠の胸を躍らせる。
「……よし、もう一回……っ!」
しかし、その瞬間。
鍵が回る金属音と、玄関の扉が静かに開く音が部屋に低く響いた。
「うっ……」
指が止まった。心臓が跳ね上がり、胸の奥に冷たい水を注がれたような感覚が走る。
「……ただいま」
低く穏やかな声。その一言だけで匠の背筋は凍りつく。振り返ると、遙はネクタイを緩め僅かに微笑んでいた。その笑みは柔らかく、表面上は優しい。けれど、その奥底に見え隠れするのは、いつものそれと変わらない、何故か嫌な予感しかしない狂気の光。
「あっ……お、おかえり……」
再び画面に戻そうとした視線は下がり、指が力無く滑る。コントローラーが膝の上から落ちて小さな音を立てて床に転がる。
「ゲームか。……楽しそうで何よりだ」
遙がゆっくりと近づいてきた。足音が鼓膜を叩くたびに、匠の肩が震える。
「え、い、いや……別に……も、もうやめる……」
視線を合わせようとせず、逃げるように横を向く匠の首筋に、うっすらと汗が滲んでいた。遙はそんな匠を見つめると、更に口元を深く緩める。
「……そうか」
一歩、また一歩と距離を詰める遙の気配が、部屋全体を支配していく。
「随分と元気そうだな。……安心した」
静かに落ちる言葉。だがそれは安堵ではなく、皮肉のようにも聞こえた。
「……最近、ゲームやってなかったから……」
呼吸が詰まり、匠の指先がソファをギュッと掴む。適当な事を言って場を繋いでみせたが、全身は固まってしまっていた。遙の目は笑っている。しかし、その視線は酷く冷たく、檻のように匠の身体に絡みつく。ソファの背に手を置いた遙が、匠の正面に立つ。視界が塞がれ、呼吸が浅くなる。
「ところで……」
低い声が、すぐ目の前で落ちる。匠は視線を逸らそうとするが遙の指が顎を掴み無理やり顔を向けさせる。
「今日、大学が終わってから……誰と、何をしていた?」
その声は穏やかだった。けれど、その穏やかさは決して温かくなく、むしろ冷たい。どうしても逆らえない重さを伴っていた。
「っ……な、なに……?」
声が震えてしまう。口の中が乾き、唇は無意識に開く。
「……質問をしているのは俺だ」
その一言で匠の心臓の鼓動は一気に早くなる。冷や汗が背中を伝い、身震いする。
「……や、やだ……」
「……ふふ、聞き違えたか?」
「嫌だ……」
「……何だと。もう一度言え」
指先が顎を強く掴む。その力に、匠は小さく呻き声を漏らす。それでも、琥珀の目に涙を溜めて必死に反抗の色を示した。
「嫌だって言ったんだよ……」
「ふむ。心配して損したな……」
遙の目が細まり、唇の端に僅かな笑みが浮かぶ。その笑みは匠の胸に重くのしかかるような圧力を感じる。
「……今日はやたら反抗的だな、一体どうした」
「っ……自分の胸に聞けよ」
「ほう……?」
「俺は悪くねぇ……悪いのはむしろお前だろ……っ」
詰まった排水口から水が流れるように、言葉が出てくる。けれどやっぱり少し怖くて目を逸らすと、遙の親指が唇をなぞる。
「……そうか」
「そ、そうだよ……お前が隠し事するなら、俺だって、してやる……」
小さく絞り出した声に、遙は一瞬だけ目を大きく見開いた。そして、顎を掴んでいた手を離すと、匠の頬をそっと撫でる。
「……そうか、分かった。もう充分だ」
静かに言う声は優しげで、しかし奥底には鋭い冷気が潜む。
「……?わ、分かってくれたんならいいよ。これでおあいこ、だぜ……」
「引き分けだと?」
「うぐ……」
反論は長くは続かず、言葉は途切れる。遙の圧に思わず怯んだ匠。琥珀の目に浮かぶ恐怖と戸惑いを、遙は深く凝視する。
「……成程、俺への当て付けと云う訳か。まるで幼稚だな。俺は今日一日、ずっとお前を心の底から心配していたというのに……」
低音の冷えた声。その声だけで、匠の呼吸は完全に乱れる。
「な……何だよ……元はと言えば……」
「昨日はやり過ぎた、反省もした。なのにこの仕打ちとはな……」
遙の唇が匠の耳元に落ちると、熱い吐息が震える皮膚を這った。
「……覚悟しろ。今日は徹底的にお前を躾けてやる」
「や、やだ……っ」
「駄目だ。これは決定事項だ」
その一言で、再び匠の身体は完全に遙の手に堕ちていく。逃れられない、甘美な地獄と化す部屋。
ともだちにシェアしよう!

