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真実(しんじつ)

夜更けの部屋。ソファの上で乱れた服と、汗で濡れた髪が暗い影を落としている。匠は荒い呼吸を繰り返しながら、遙の腕に縋っていた。胸は大きく上下し、細い指が遙の白のワイシャツを弱く掴む。夜の静寂が、余計に胸を締め付けた。 「っ……はぁっ……はぁ……っ」 息が整わないまま、匠は白濁に濡れた唇を拭い、控えめに話し掛ける。 「な……なぁ……」 弱々しい声が暗い部屋に溶ける。遙は冷たい青灰の瞳で匠を見下ろす。その視線は変わらず、支配と執着の色に染まり切っていた。 「いい加減……教えてくれよ……」 小さく震える音。言葉を紡ぐたびに、胸の奥が軋むように痛む。 「……この前来た人、誰なんだよ。俺には関係無いワケねぇじゃん。そんなに隠すって事は……もしかして、う……浮気、とか……?」 始めはポツリと。だが徐々に、まるで堰を切ったように流れる。 「昨日だか一昨日にも言ったけど、俺だって……全部知りてぇんだよ、遙の事……全部。なのに……お前は誤魔化したり隠し事ばっかしてさ……」 遙の指が柔らかい茶髪にそっと触れる。その動きは優しげだが何処かぎこちない。 「……頼むから、本当の事を教えてくれ……っ」 涙が、また頬を伝う。何度も伝っていった涙の跡が、濃く刻まれていく。 「知りたいって思うのはダメなのか?俺が間違ってんの?お前の事、本気で好き……だから、しょうがねぇじゃん……。なぁ……遙……っ、ひぅ……っ」 小さな子供が泣くような、弱く、切実な声。匠は遙の胸板に顔を埋める。 「うっ……ひ……っ……」 無言。匠にとって重くて長い沈黙。小さな泣き声と、時計の秒針が耳の奥でやけに大きく響く。 そして遙がようやく、ゆっくりと口を開いた。 「一ノ瀬 朔。あいつは俺を理想の人間だと勝手に決め付け、そう思い込んでいた過去の亡霊だ」 低い声が、夜の静けさを割る。 「俺の家は古くから伝統と体裁を重んじる家系でな。幼少期から常に完璧、優秀、理想を求められ、そんな人間を演じる事が当然であり、習慣になった。お陰で感情を押し殺す癖も出来た」 淡々とした声。だが、その奥には微かな苦味が滲む。 「そんな教育を経て社会人になって、俺は朔に出会った。あいつは、完璧を装った俺に好意を抱いた。演じ続ける事で関係は上手くいっていたが、ある日ほんの少しだけ素顔を見せた。お前が良く知っている、今の俺をな……」 匠は、小さく息を詰めた。琥珀の目が潤んだまま、震える指で遙のシャツを掴む。 「その時の俺は、今までずっと被っていた仮面の裏側を見せても大丈夫だと思った。だが……」 遙はそっと、匠の頬に触れる。濡れた頬を親指で拭うが、その指先は冷たい。 「……俺は、朔に失望された。あいつが思う理想とは全く違う俺を見て、否定したんだ」 淡く短い吐息。それは、改めて匠が知る、遙の小さな弱さだった。 「無論、比べるまでも無いんだが……お前は朔とは違う。逃げようとしても、必ず戻ってくる。泣きながら、好きだと縋る。今、こうして俺と一緒に居てくれる。それが何よりの証拠だろう」 言葉の端が微かに震えている。その震えに匠の胸は強く締め付けられた。いつもより饒舌な遙だが、内容が内容なので素直に喜べない。 「……怖いんだ。お前を失うのが。……これだけお前に好き勝手しておいて変な話だがな」 静かな告白。それは支配する男の仮面を脱ぎ捨てた、ただ一人の男の声。匠の涙が、再び溢れる。 「っ……バカ……」 掠れた声で絞り出す。それを聞いた遙は小さく笑う。 「あぁ、そうだな。俺は馬鹿だ」 その発言の後、遙は匠を抱き締める。強くも、弱くも無い、静かで確かな抱擁。二人の息遣いだけが、夜の静寂に溶けていく。 「遙の言ってる事……よく分かんねぇよ……」 匠の頬を伝う涙は、もう止まる気配を見せない。掠れた声が、震えながら漏れる。乱れた呼吸と一緒に吐き出された言葉は途切れ途切れで、幼子のように不器用だった。 「……で、でも……っ」 細い指が、必死に遙の服を掴む。 「俺は……遙が好きだっ」 涙で濡れた睫毛が震え、赤く熱を持つ瞳が真っ直ぐに遙を見上げる。 「お前が……変な奴でも、ドSで変態で鬼畜で絶倫モンスターでも……」 嗚咽が混じり、詰まる。それでも必死に言葉を繋ぎ、頑張って捲し立てた。 「俺は……お前が好きなんだよっ!前にも言ったろ!?理想だとか何だとか、そんなモン……どうでもいいんだよ!俺には関係ねぇ!遙は遙、それでいいじゃねぇか……!」 遙は黙ってその声を受け止めていた。青灰色の瞳を細め、静かに吐息を整える。先程とは温度の違うその沈黙に、匠は少しだけ救われ、胸の重さがようやく和らぐ。だが安堵の余白に、不意に過去の言葉がじわりと蘇った。記憶の中で形を変え、それは鋭い直感となって胸を刺す。 「あ……でも、最後に一つだけ……」 一瞬、息を止める。そして苦しげに、でも決して逸らせない視線で問う。 「お前……前に話してた……フラれたっての……もしかして、そのさく、って奴に……?」 質問は震え、喉の奥で掠れていた。けれどその一言には匠の全ての勇気が込められている。むしろこっちが本題とも思えた。遙の手が、匠の髪をそっと撫でる。目を細め、酷く静かに。それでも確実に、核心を言葉にした。 「……そうだ。あいつと俺は、恋人だった」 静かに語られた言の葉は鋭く、ナイフのように匠の胸を斬り裂く。そんな感覚に襲われた。 「……だが、さっきも言った通り、あいつは俺の本性を拒絶した。完璧で理想しか愛せないあいつに、俺の存在は必要無かった」 少しだけ目を伏せる遙。その姿は、自分だけに再度見せる弱い影を含んでいた。 「今の俺を見て、あいつが何を思っているかは知らない。だが……もう関係無い」 再び、匠の目を真っ直ぐに見据える。 「……お前だけが、俺を必要としてくれている。それが俺にとって全てだ。何なら、それだけで充分だ」 静かに告げられた真実。それは匠の胸に深く刺さり、痛みと共に熱を灯す。急に、遙の顔をまともに見れなくなった。 「……そ、そうなんだ……」 匠の声は、か細くなっていった。喉の奥で絞り出すように吐かれたその台詞には覇気が無い。無意識に震える唇。濡れた睫毛の奥、琥珀色の目が曇っていく。 (……恋人……だった……) 考えれば考えるほど、胸の奥が黒く塗り潰されていく。 「っ、うっ……」 小さく嗚咽が漏れる。指先が、遙のシャツを離れ力無く滑る。遙はその細い肩を支えるように腕を回すが、匠はそれに応えるように身を寄せる事が出来なかった。 「……そ、そっか……」 落胆の色に染まった声。笑おうとするが、唇が引き攣る。 「お前にとって……さくは……完璧で……優秀で……理想で……恋人……」 断続的に落ちる呟き。それは自分の感情を落ち着かせるような、しかし何故か支離滅裂だった。 「……俺は……何も無い……」 頭の中で何かが割れた音がする。それは怒りでも嫉妬でも無く、ただ純粋な絶望。 「うっ……うぅ……」 匠の目から、また一筋、涙が零れた。頬を伝い、震える顎から落ちる雫が静かな夜の中に光る。 「……匠」 遙の低音が、静寂を震わせるように響く。 「俺が愛しているのは、匠……お前だけだ」 ゆっくりと確かめるように紡がれた言葉。その声音には弁解も言い訳も、一切含まれていない。遙の大きな手が、匠の背を強く抱き寄せる。熱を伝えるように、だが押し潰すような力ではない。静かに、確かに、全てを包み込む抱擁。 「匠……」 名前を呼ぶ声は低く柔らかい。その優しさは甘い麻薬のよう。匠の身体は、その腕の中で小さく揺れていた。指先が僅かに動き、何かを求めるように遙のシャツを掴もうとするが、すぐに力が抜ける。 「っ……」 肩を震わせ目を閉じたまま、一筋の涙がまた零れ落ちた。 (何だよ、何で俺、こんなにショック受けてんだ……?自分で聞いといて、勝手に落ち込んで、世話ねぇな……) 声を出そうとしても喉が詰まって出ず、笑おうとしても顔は引き攣るだけ。遙に包まれた匠の表情はずっと、曇ったままだった。温かいはずの抱擁の中に、冷たく深い絶望の雨が匠にだけ降り注ぐ。それは雹に変わり、鋭い氷刃となって心臓を突き刺す。 「そんな顔をするな……」 遙は切なげな表情をして匠を見つめた後、そっと額に口付ける。 「安心しろ……お前だけだ」 静かに、決定的に告げられる言葉。しかし、それを聞いても、匠の笑顔は晴れない。

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