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動揺(どうよう)

昼休み。ようやく蝉の声は落ち着き、日差しが柔らかくなり秋の訪れを感じる。落葉樹を揺らすそよ風が、紅葉しかけた葉を散らす。匠は木陰のベンチに座り、友達二人に囲まれ三人でコンビニのカフェラテを飲んでいた。 「あー、金欠だー!シフト増やさねーと死ぬ!でも勉強もしないと!って訳だから、よこせ!」 「あ、ちょ、おま……!」 小さなチョコチップクッキーが入った袋を横取りされ、思わず声を上げる。強奪した友達Aが笑いながらピースサインした。 「あ、そうそう、聞いてくれよ。最近さ、元カノがヨリ戻そうって言ってきてさぁ……」 「ぶはっ!!」 口に含んでいたカフェラテを盛大に噴き出した。内心では猛烈に焦る匠。 「おい、大丈夫か?」 もう一人の友達Bが、心配そうに声を掛ける。 「だ、大丈夫……気管に入っただけ……げほっ」 (……何てタイムリーな話題なんだよ……コイツ、俺の今の状況を知ってんのか!?) 「でもその元カノ……ちょっと束縛ヤバめの子だったんだよねー。それで別れたんだけど。『今どこにいるの?寂しい、構ってよ!』とか、『どうせ他の女と一緒にいるんでしょ!』とか、もう毎日来てた!こっちは勉強かバイトしかしてねーのに、マジ息苦しかったわー」 「俗に言うメンヘラってやつ?うわー、俺は無理だなーそういうの……」 AとBが、会話を進める。匠は何も言えず咳をしながら二人の話を聞いていた。 「だってしょうがねーじゃん!顔がすげー可愛かったんだよ!いや、ホント!見る?」 「お前元カノの写真まだ持ってんのかよ!キッショ!それはそうと、見る!」 笑い声が弾ける。しかし匠はその話題に混ざれず、別の事を考え始めた。 (……元カノ、束縛……) 思い出すのは、数日前に玄関先で聞いた少し高めの声。それと同時に、どこまでも冷たく、深く、そして異常なほどの執着を秘めた青灰色の瞳。この二人は繋がって、それぞれが浮いたり沈んだり。 「そういやさ、お前んとこの年上で美人の彼女は束縛してくる?」 「えっ……」 突如Aに投げられた言葉に思考がピタリと止まる。視線が泳ぎ、喉が微かに鳴った。 「……いや、別に……」 顔が引き攣るが、無理にでも笑顔を作る。心臓が痛いほど脈を打つ。 (……俺なんて、束縛どころの騒ぎじゃねぇ) 誰と、何をしていたか。言っても言わなくても静かに怒りを露わにするあの男。そしてその後、何が起こるか……思い出すだけで背筋が震える。今この瞬間も、実は監視されているのではないかと疑ってしまう。昨日のボウリングの件だけじゃない。何故自分が他の誰かと遊んだ事実を知っているのか。それを知った上で、何故聞いてくるのか。考えれば考えるほど、遙という人間が分からなくなってきた。 「ふーん、匠んとこは大丈夫そうだな!いいなー!ま、最近付き合ったばっかだもんな、そりゃそうか!」 「……あ、うん……」 曖昧な返事が喉で詰まる。空の青さが目に沁みて、友達の楽しげな笑い声が、やけに遠く響いた。 (……全然大丈夫じゃねぇよ……) 飲みかけのカフェラテの味は何も感じなくなった。一気にストローで吸い上げると、もう一つの話題を思い出し控えめに聞いてみる。 「……でさ、その元カノとは、どうすんの?」 Aは「おっ、お前にしては珍しいな!」と言って笑った。 「いやー、マジで悩んでんだよ!顔は可愛いし、おっぱいはデカイし、下の具合も良いし。でもさ、また毎日『私の事嫌いなんでしょ!浮気者!』とか『もう別れる!死んでやる!』とか、そんなんばっか言われる生活に戻るのはなぁ……もう神経すり減るレベル!」 「うわぁ……まず出てくんのは身体の話かよ……」 Bは本気で引いた顔をした。 「元カノより、お前に引くレベルだよ……」 Aにドン引きしつつ匠の脳裏には、穏やかだったが突き刺すように放たれた、遙の元恋人の声がよぎる。直接会った訳では無いのに、何故か強烈な劣等感を抱いてしまう。あの時は遙に抱かれていて、あの声の主が何を言ったかまでは聞き取れなかったし覚えていなかった。 「えぇー!何で!!普通元カノは名前を付けて保存するじゃん!身体ごと!!マジで良かったんだよ!名器ってやつ?ほら、締まりが良くて……ヒダがビッシリあって……」 「止めろ!お前ホントにキモイわ!!」 「……名前を付けて保存……」 無意識に呟いた声は小さ過ぎて、二人には届かない。 (……俺は、遙の何番目かな……) 髪にそっと触れてくる熱い指先。匠の体温を確かめるように強く抱き締めてくる腕。朔の存在を知るまでは安心出来た。でも今は、とても苦しい。大袈裟だが、夢と現実の境界が崩れていくよう。 「話を戻すぞ!!……俺さ、実は最初の方ちょっと嬉しかったんだよね、あー俺愛されてる!的な。でも、段々自由が無くなっていって……友達とも遊べなくなるしさぁ」 (……自由……) 「まぁ、そうだな。付き合ってるって言っても、毎回毎回彼女優先にする訳にもいかないよなぁ……家族だって居るし」 Bは腕を組み、しみじみと言う。ふと浮かぶのは、あの独占欲の塊で出来たような男との口論事件。前に「普通に寝たい」と叫び、家を飛び出した。しかしすぐに見つかり、強制連行され、その日は穏やかに終了したが翌日もっと大変な事になった。 「ちなみにさ、二人は束縛されたらどうする?我慢して付き合う?それともやっぱ別れる?」 返事をしようとして詰まった。微かに震える指が、空のプラスチック容器をギュッと押さえる。 「……知らね。そん時になったら考える」 目を逸らし、力無く答えた。胸の奥で渦巻く感情に潰されそうになる。 「程度にもよるけど、俺は無理!自由を謳歌したいじゃん」 匠の後にBも続ける。自分にもそんな選択肢があればな……と思い、カフェラテが入っていたカップを握り締めた。 (束縛どころじゃ無い。もう……全部、根こそぎ縛られちまってんだ俺は。でも、それでも……) 地面を見つめる視線が揺れる。友達の笑い声が、やけに遠くで重なり合う。匠は盛り上がる友達二人の前で、貼り付けたような笑顔しか出来なかった。 高層ビルのオフィス。大きな窓の外には夕日が反射して、街が赤く染まる。遙はスーツの袖に目を落としながら資料を確認していた。相も変わらず完璧な姿勢、揺るぎない視線、誰が見ても眉目秀麗な男性そのもの。 ……しかし。 (……流石にやり過ぎたか) 脳内にふっと浮かぶのは、今朝の匠の無表情な顔。うっすら赤い首筋、視線を合わせない琥珀の目、フォークを掴む微かな指先の震え。 (……いや、違うな。可愛く反抗してくるのが悪い) 次の瞬間には、泣きながら「好き」と悲痛に訴える匠の姿まで浮かんでくる。濡れた睫毛、声を震わせ、縋るように服を掴む、自分にとってとても大切な恋人。 (……やはり、俺のせいではないな。……仕方がない) 「九条さん、この書類は……」 「後にしろ」 「えぇ……」 短く切り捨てると、手元にある資料に目を戻すふりをしながら遙の脳内会議は続く。 (やはり昨夜、最後まで抱いてあげた方が良かったか?しかし……それでは躾にならない。ふむ……飴と鞭の使い方が難しいな) ペンをゆっくりと回す指先。その指が思い出すのは、匠の柔らかな茶色の髪、滑らかな肌、痙攣する背中。 (……可愛過ぎる。俺が理性を保てないのは、あいつのせいだ。全部、匠が可愛過ぎるのが悪い) 無限ループに入り込み、思考がぐるぐると堂々巡りする。 (……可愛い。泣いても嫌がっても最後には結局「好き」と言う。最近はあいつのお気に入りの呪文みたいだが。あぁ……早く帰りたい。今夜は、しっかり抱いてやろう……) 「九条さん、本日作成した書類ですが……」 「……そこに置いておけ」 冷静な声、完璧な指示。だが内心では……。 (昨夜しなかった分、沢山悦ばせてやろう。兎にも角にも、帰ったらセックスだ……) 熱い狂気と欲望が、遙の心の奥底で静かに煮え滾っていた。 (最近の九条さん、何か益々ヤバくなってる) その場に居た人間が、皆こう思っている事を、この男は知らない。 同時刻、夕方のカフェ。店内には甘い香りとコーヒーの苦い香りが混ざり合っている。 「お疲れー匠くん!あれ、今日も相変わらず顔死んでない?大丈夫?」 カウンターの奥から顔を覗かせたのは、いつもの先輩、鹿島 萌(かしま もえ)。ダークブラウンのセミロングを一つにまとめ、両耳には青とオレンジのピアスが一つづつ付いており、それぞれがキラリと光る。 「……大丈夫、別に普通だし……」 小さく呟く匠。その言葉に力は無く、グラスを拭く指先が微かに震えていた。 「んー?本当に??」 萌がジト目で見つめてくるので思わず引く匠。 「な、何だよ……近ぇよ……」 「まーた致し過ぎましたね?毎日?毎晩?全く、叡智ばっかりして、学生の本業はお勉強でしょ?」 「ち、違っ……」 「はい、違わない!絶対違わない!!」 ニヤニヤ笑って詰め寄ってくる萌。匠は思わず赤くなった顔を背けるが、すぐに小さな声が漏れた。 「……な、何で分かんの……」 「えっ!マジ?嘘!冗談で言ったのにー!!」 「……くそ!!ハメやがったな!!」 「ハメてるのは、遙さんでしょ?」 「っ……!!」 視界が揺れ、喉の奥に重い鉛のようなものが詰まる。小さく息を吸って、やっと言葉を出す。 「……俺さ、もう全部……何もかもアイツに奪われちまった……」 「……ふむふむ?」 「普通じゃなくなっちまった気がする。友達にも本当の事は言えねぇし。しかもさ、何か最近、色々あって。よく分かんねぇ奴は来るし、その人の事聞いたら怒るし、教えて貰って不安になってたら襲ってくるし……」 顎に手を当て、一瞬だけ萌の明るい茶色の目が細くなる。けれど、すぐにいつもの笑顔が戻った。 「へぇー。それで?それが嫌なの?」 「……嫌……じゃ、ない……かも。でも……何か、そういうの……よく分かんなくなった」 カウンターに置いた手をギュッと握る。 「……何で、こんな……」 ポツリと落とした言葉。それを聞いた萌は小さく息を吐く。 「えへへ、それが恋ってやつなんじゃない?ま、常人には耐えられないレベルの恋愛だけどねぇ」 匠の瞳が僅かに揺れる。 「でもさ、匠くん……別れたいなら、もうとっくに逃げてるんじゃないの?」 「えっ?」 「好きなんでしょ?別れたくないんでしょ?それって、つまり……」 萌はコーヒーのカップを差し出すと、悪戯っぽく微笑んだ。 「もう、完全に遙さんに堕ちてるって事!」 匠はその言葉に目を見開き、カップを受け取る手が震えた。中のコーヒーが揺れ、指に少しづつ熱が伝わる。 (……堕ちてる……?) 胸の奥に、その言葉が静かに沈んでいった。視線を落とし、カップの中のコーヒーの波紋を見つめる。 「っ、くそ……」 「にへへ。匠くん、可愛い顔してるよ?」 萌がにやけながら覗き込もうとしたその瞬間。 「ウフフ♡楽しそうね、アタシも混ぜて♡」 何処からともなく、甘ったるい声。振り返ると、黒のゴスロリワンピースに身を包んだアリスがカウンターに肘をついていた。 「アリスちゃん!!」 「しかしアンタ達ったら。人目もはばからずに『えっち』だとか『堕ちた』とか……。一体何の話?」 わざとらしく指先を唇に当てて笑うアリス。一見可愛らしい仕草だが、その真紅の瞳は鋭く、何処か底知れない光を帯びている。 「……な、何だよ。お前には関係ねぇよ……」 「なーに、その態度。可愛くないわねぇ」 フリルの袖をひらりと揺らしながら、アリスは匠をじっと見つめる。不意に表情を変え、真剣なトーンで萌に聞こえないように続けた。 「……アンタさ、このままペットみたいに、あの絶倫モンスターに飼い慣らされて、一生性奴隷として生きていくつもりなの?」 「……は?」 匠の肩がビクリと跳ねる。 「逃げたいなら逃げればいいし、飼われたいならもっと素直に、何なら従順になればいい。……今のアンタは、中途半端ね」 視線が絡む。その瞳には薄い嘲笑と、何処か小さな優しさが混じっているような気がする。 「……どうするかぐらい、自分で決めなさい。いい大人なんだから。それすら出来ないのなら、あの男にずーっと飼い殺されるだけよ?」 アリスはふっと口元を緩めると、爪でカウンターを軽く叩いた。 「……ま、アタシには関係無いし、どうでもいいけど。それも一つの愛の形……ってヤツかしら?」 クスクスと笑いながら、アリスはその場を離れ、ひらりと背を向ける。黒いフリルの裾が、秋の夕焼けと共に溶けていく。 「どうでもいいなら、ほっとけよ……」 匠はカップを見つめたまま、ボソッと呟いた。揺れるコーヒーの黒が、まるで自分の胸の奥に広がる深い闇のように見えた。

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