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衝突(しょうとつ)
街はすっかり濃紺に沈み、光を吸い込むような夜が広がっていた。冷たい風が匠の茶髪を揺らし、頬を掠めて通り抜ける。吐いた息は微かに白く漂い、すぐに闇に溶けて消えていった。
(……今日は、もう居るかな……)
夜が深まるほどに、気持ちもまた暗く沈んでいく。ざわめく心は落ち着かず、重く冷たいものが足取りを引き摺る。エントランスを抜け、エレベーターに乗り、玄関の前に立つ。鍵を差し込む指先に力が入らない。それでも、ずっとここに立ち尽くす訳にもいかず、無理やり解錠し扉を押し開いた。
「お帰り」
靴を雑に脱ぎ、リビングへ入ると低い声が出迎える。スーツの上着を脱いだ遙が、ソファに足を組んで座り本を読んでいた。
「っ……た、ただいま……」
珍しく先に帰宅していた存在に驚く。何故か胸の奥が強く締め付けられる。昼間の友達との会話。萌やアリスの言葉が一気に溢れ返る。
「……何かあったか?」
遙がいつもの落ち着いた声で問い掛けてくる。読みかけの分厚い本に栞を挟み、閉じてそれを机に置く。その音がどうしてか、胸に刺さった。
「いや……あのさ……」
呼吸が浅くなり指先が小刻みに震え、視界がじわりと滲み出す。
「……今日色々考えたんだけど……」
遙の青灰色の瞳が細く鋭くなる。意を決した匠は、目を逸らさずに言葉を吐き出した。
「……何で、お前はそんな平気な顔してられんだよ。何事も無かったみたいにさ。俺……今すっげぇ怖いんだよ……前に来た人と、遙がヨリを戻すんじゃないかってさ……」
震える声。けれど、もう止まらない。
「……お前の事、好きだけど……でも俺は……俺なんか……何も取り柄ないし。この前の人がどんな人か知らねぇけど、一度はお前が選んだ人だ、きっと俺よりも立派で、凄くかっこいいんだろ?声だけで何となく思った。お前とその人が並んでた方が、絵になるんだろうな……って。俺なんかより、よっぽど……」
言葉にしてしまった途端、その惨めさが一層胸に重く伸し掛かる。比較するには情報は足らず、根拠も全く無いのに自分で自分の首を絞める感覚。想像の中の朔は美化されるばかりで、劣等感だけが際限なく膨らんでいく。
「後、上手く言えねぇけど……都合が悪くなるとすぐ、ああいう事して、証明だとか、全部、無理やり納得させてさ……」
胸の奥が熱く、痛く、ぐちゃぐちゃに絡まる。
「俺……もう、自分がどうしたいとか、お前が何したいとか、何もかも全部分かんねぇ……」
溢れた涙が頬を伝い落ちる。
「俺はただ……お前にちゃんと向き合いたいのに……好きだって……思ってる……けどっ」
途切れた言葉の合間に、肩を大きく震わす。視界の向こうで遙は微動だにせず、ただじっと匠を見つめている。
「お前が何考えてんのか、全然分かんねぇんだよ!わざわざ前付き合ってた奴が家に来るって事は……そういう事だろ?なのにお前は何も言わねぇ。大事な事は言わねぇクセに、証明とか……そんなのばっかり。……俺は、お前の性欲を満たす為だけのオナホかよ……っ!」
声が割れ喉が痛む。それでも、ずっと溜め込んでいた言葉は止まらなかった。
「……おれ、は……っ!」
息は浅く、言葉が詰まり、涙が零れたまま視界が霞む。嗚咽が漏れ、何も見えなくなったその瞬間。遙がゆっくりと立ち上がった。
「……匠」
静かに呼ばれた名前。膝が崩れそうになる。また地獄のような「証明」が始まるのだろう。気づけば、遙がすぐ目の前に居た。肩にそっと手を置き、視線を合わせてくる。
「ひっ……う……っ」
無意識に身を引こうとする匠を、遙はそっと、だが決して逃げられない力加減で抱き寄せた。
「……泣くな」
低音で落ち着いた声。普段の冷たさは無く、何処か温かい。
「いや、泣かせているのは俺だな。……済まなかった」
匠の身体を思い切り抱き締め、耳元に唇を押し当てながら深く息を吐く。
「全部……俺のエゴでしかない」
匠の背に回された腕が熱く、強い。些か震えているようにも感じる。
「……だが、これだけは信じて欲しい」
ゆっくりと顔を離し、濡れた琥珀の目を真正面から見据える。
「……俺は、お前だから好きなんだ。あいつと今更復縁など有り得ない。例え、お前が今この場に居なかったとしてもな。……お前にしか興味が無いんだ、本気で。無論、そうさせたのは匠だ。……今は、月並みな事しか言えないが、兎に角俺が欲しいのはお前だけだ……」
震える匠の濡れた頬を、柔らかく微笑みながら優しくなぞる。
「……お前の全てを、俺だけのものにしたい」
いつもとは違う切実な声。熱い涙が零れるたびに、冷たい指がそれを掬う。
「……俺はもう、お前が居ないと生きられない」
再び身体を引き寄せると、匠が小さく声を漏らす。
「お前を愛さずにはいられない……」
細く、深い囁きが鼓膜へと浸透していく。
「……お前だけが、俺の全てだ……」
遙の腕の中で、匠は小さく震え続けていた。背中を撫でる指先は優しくて、呼吸の音は穏やかで。胸の奥が痛いほど熱くなる。
「っ……」
唇を噛み、おずおずと視線を上げる。そこには至近距離で自分を真っ直ぐに見つめる青灰色の瞳。
(……信じたい……)
胸の中で小さな声が漏れる。本当は逃げたい、怖い。でも、それでも。この男を選んでしまった自分が確かに居る。
「っ、バカ……」
掠れた声で呟くと頬がじわりと熱を帯びる。真っ赤になった顔を隠すように遙の胸元に顔を埋めた。
「……そんな、選挙の演説じゃねぇんだからさ……。でも、俺……信じる……。お前の事……信じてやるよ……」
布に染みる雫と震える吐息。その奥には照れと諦めと、小さな決意が混じっていた。
(でも……)
脳裏にふと蘇る、朔の声。あの静かで、穏やかだが冷たくて、自分の全てを奪うような音。胸の奥で小さな火が灯る。劣等感、嫉妬、そして敵意。
(……絶対、渡さねぇ。遙の隣に居るのは、今は俺だ。こんな俺でもいいって言ってくれたんだ……アイツには、負けたくないっ)
匠の手が、ギュッと遙の白いワイシャツを掴む。その指先は怯えではなく、確かな意志が宿っている。
「……匠」
低く呼ぶ声に、匠は小さく笑って頷いてみせる。照れたまま、しかし逃げずに、胸に宿した決意を握り締めた。
(……俺は俺で、この性欲モンスターがいい。理想なんざクソ喰らえだ……)
遙の腕の力が更に強くなって全身は熱に包まれる。その夜、二人を繋ぐ温度は、これまで以上に深く、熱く、静かに上昇を続けた。
朝の光がガラス越しに差し込み、リビングを柔らかく照らす。食卓には湯気の立つコーンスープ、香ばしく焼けたパン、カプレーゼに目玉焼きとウィンナー。どれも温かい香りが漂っている。
「……ほら、早く食べないと遅刻するぞ……」
遙がコーヒーをテーブルに置き、匠の前にそっと差し出す。匠は少しだけ気まずそうに視線を落としながらも、それを手に取り一口啜る。
「……分かってるよ。でも、あちぃんだよ、火傷しちまう」
口ではそっけなく言いながらも、その頬は赤い。昨夜の話し合いで自分の全てをぶつけ、受け止めて貰った事で心のモヤがだいぶ晴れていた。
「……そうか」
遙は淡々とした声で返すが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。その表情を見た匠は、ムッとしたような顔をした。
「……何だよ」
「ふふ……」
「な、何だよ!」
「……今日も今日とて、お前が可愛いと思っただけだ」
「はっ!?ば、バカかお前……っ」
フォークを持つ手が止まり、頬が更に赤くなる。視線を逸らしながら、モッツァレラチーズを口に押し込む。
(……ったく、朝からコイツは……)
昨夜の決意、そして自分の中に灯った敵意。様々な感情を抱えながらも、今ここで一緒に食事をしている事実に胸がほんのり温かくなる。
「匠……」
急に名前を呼ばれ、思わず遙の方へ顔を向ける。
「好きだ。これからも、この先も、未来永劫……」
遙の瞳は真っ直ぐで揺るぎない。匠は数秒固まった後、プイッと目を逸らし、小さく呟いた。
「……うるせぇ、アホ……」
言葉とは裏腹に、口元は緩み嬉しそうな色に染まっていた。小さな音を立ててカップに口をつける。コーヒーの苦味が、今日はやたら美味しく感じる。秋の朝、二人だけの朝食は静かで、優しい時間だった。
……筈だった。
食後のコーヒーをちびちびと飲みながら、匠がふと呟く。
「……昨日は、そういえば……しなかったな……」
小さな声。誰に向けた訳でもない、ただの独り言。しかし。
「ふふ……」
一瞬で空気が変わった。平和だったリビングに、ピンと張り詰めるような緊張感が走る。匠はマグカップを持ったまま動きが止まる。
「……えっ……な、何?」
遙の青灰の瞳が細まり、ゆっくりと匠を見据える。その瞳の奥で捕食者の光が宿る。
「……今、何と?」
「え、いや……別に!ただの独り言だって!」
慌ててカップを置き、バタバタと手を振る。目の前の遙はもう動いていた。椅子を引く音。遙の長い腕が、逃げる間もなく匠の手首を掴む。
「……匠」
低く、唸るような声。匠の背中に冷たい汗が走る。
「……昨日、抱かれなかったのが不満か?それとも、一昨日最後までしなかった方か?」
「ち、ちがっ……違う、違くて……っ!」
「……本当にそうか?」
淡々とした声。しかし、その奥に潜む熱は既に抑えようのないほどに膨れ上がっていた。
「……どちらにせよ、補填が必要だな。俺も、お前も」
「や、やめろっ……朝だぞっ!」
「……どうでも良いだろう、そんな事」
唇が耳元に落ち、そのまま啄まれる。舌を這わせ、熱い吐息と共に低い囁きが匠の鼓膜を犯す。
「あ……っ!」
「言っておくが、お前を性欲処理だと思った事は一度も無い。ただ、そうやって煽る……そういうお前にも非があると俺は思うがな……」
「っ、やだ……っ!」
時すでに遅し。匠の身体はいつの間にか遙の腕によって捕らえられていた。強く絡み付き、逃れられない。
「一昨日は悪い事をしてしまった。俺も心底反省している。昨日は空気を読んだつもりだった。だが、却って不安にさせてしまったな。申し訳無い。……今から沢山愛してやる……」
逃げ場の無い甘い情事が、朝の光の中でゆっくりと始まろうとしている。
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