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絶望(ぜつぼう)

「クソがっ!!」 玄関を乱暴に閉める音が部屋中に響く。靴を脱ぎ捨て、真っ直ぐリビングへ向かうとリュックをソファに投げ捨てた。ついさっき買ったばかりの、ケーキがぎっしり入った箱をダイニングテーブルに置き、開ける。 「何なんだアイツ……マジでムカつく……!」 とりあえず目についたショートケーキを掴み、ビニールを取ってそのまま大きく一口かぶりついた。 「っ……これは……うめぇ!!」 口いっぱいに広がる甘さ。ふわふわのスポンジ、生クリームの冷たい舌触り、酸味のある苺。 「やっぱストレスには甘いもんだよなぁ……」 ケーキの甘さにより自分の中の怒りの感情が中和されていく。もう一口、更にもう一口。まるで何かを誤魔化すように夢中で食べ進める。 「しっかし、ついノリで買い過ぎちまった……全部食ったら流石に太るよな……」 クリームが頬に付くが、それを拭う事もせず、また新しいケーキを手に取る。タルト、チーズケーキ、エクレア。どれも甘くて美味しいのに、胸のざわつきは消えてくれない。 「いや……あのキザヤローのせいだな、あん時アイツに会わなかったらこんなに買わなかったぜ……」 更に冷蔵庫からプリンを取り出し、スプーンで掬って口に運ぶ。柔らかな甘さが口の中でとろけるたび、溢れかけていた涙が今になってじわりと滲む。 「っ……」 喉の奥で詰まる息。食べても食べても、虚しさだけが増えていく。 「はぁ……」 食べ終えたスプーンを手にしたまま、ぐったりとソファに身を沈ませた。乱れた呼吸と甘い香りだけが部屋に充満する。 (あーあ、もう何もやる気しねぇ……) 心の中では、やるせない気持ちがまだ燻っている。甘い味と涙の塩味が混ざる。スプーンをテーブルに置き、深く息を吐いた。 (いやいや、ここはもう……グダグダ考えても仕方ねぇよな……) ギュッと力を込めて拳を握り締める。琥珀の目には悔しさと不安。 (あのバカを……遙を信じるって決めたじゃねぇか。だったらここで女々しく泣いてんのは違ぇだろ。男なら、ここは正々堂々戦うところだ……) 呼吸を整え、そっと首元に触れる。朝に付けられた痕が、まだ熱を持っている気がした。 (とりあえず次会ったら、ぶん殴ってやる!) 「……よしっ!!」 勢いよく立ち上がり、ゲーム機を起動。テレビの液晶が光るとコントローラーを握る。 「まずはキザヤローの前に、こっち!」 ゲームのBGMと、モンスターの咆哮が匠の闘争心を燃やす。画面の中で自分のキャラが華麗に動くたび、表情が僅かに晴れていく。汗ばむ額と、濡れた頬を腕で雑に拭い、深呼吸。 (……俺を壊す?上等じゃねぇか、やれるもんならやってみろ!どうせハッタリだろうけどな!!) 朔を画面内のモンスターに見立て、ひたすら攻撃する。我ながらガキくせぇな、と苦笑しつつ夢中になっていた、その時。ソファの上に転がっていたスマホが震えた。しかし様子がおかしい。何度も何度も連続して振動するのだ。最初は無視していた匠だったが、あまりにもうるさいので怪訝な顔で尚も震えるスマホを確認する。画面には見覚えの無い名前からの通知で溢れていた。 (……何だこれ、詐欺か?) 恐る恐るロックを解除し、見てみる事に。どうやら送られてきたのは全て画像だけのよう。固唾を呑んで、一つ目をタップする。 「……っ……な、何だよこれ……」 そこに映っていたのは、銀髪ロングの男性が、紫髪ショートの男性と肩を並べるツーショット。二人の笑顔はどこまでも親密で、絵画のように美しい。見たくないはずなのに次々と見てしまう。食事、旅行、ホテルのロビー。様々な場所の風景と、二人の見知った男性。 (……や、やめろ……っ、もうこれ以上は……!) 心の中で叫びながらも、指が止まらない。次第に写真は、より親密なものに変わっていく。寄り添う二人、寝室らしき部屋で互いに触れ合う手。そして、火照った肌、絡む指、朦朧とした視線、唇が重なる、夜の情事を思わせるような、決定的な写真。 「……あ、悪趣味にもほどがあんだろ……」 全身から力が抜ける。持っていたスマホが手から滑り落ち、床へ転がる。 「……っ……嘘、だろ……?」 肩が震え、呼吸が上手く出来ない。 (……これ、遙と、あのキザヤローだよな……) 視界がみるみる歪み、涙が溢れ、胸を抉るような痛みに喉奥から掠れた声が漏れる。 「……っ……うっ……あ……」 落としたスマホの画面には、新しい通知が次々と来ている。匠は震える手でクッションを掴み、顔を覆い隠した。 (……やめろ、やめてくれっ!!) 必死に思考を閉ざそうとするも、遙の笑顔、朔の表情が脳裏に完全に焼き付いてしまった。 「……くそ……くそっ……!」 泣き声とも、呻きともつかない、くぐもった音が部屋に反響する。 その頃、都内の別の高層マンション。ガラス張りの広いリビングに、静かにクラシックが流れる。大理石のテーブルに置かれたスマートフォンの画面には、大量の画像を送信した後が映っていた。 「ふふっ」 指先で軽くスマホを撫でる。暗い部屋の中、青白い光が冷たい微笑を浮かべた顔を照らす。 「……さて、今頃どんな気持ちかな?」 画面には既読の文字。 「遙に相応しいのは僕だって、これではっきり分かってくれたよね?……もしこれで理解出来ないような子なら、頭が悪過ぎる」 ティーカップを手に取り、一口。湯気の立つ液体が、ゆっくりとカップの中で揺れた。 「……遙も遙だ。何故あんな子供に執着しているのか、さっぱり分からないよ。僕と別れて寂しかったのは分かるけど、それにしても……ねぇ?」 小さく含み笑いをし、唇を舐める。 「ま、何でもいいか。どうせあの二人は、もう壊れちゃうし」 ソファに背を預け、匠が今、崩れ落ちている姿を想像し、静かに目を細める。 「……その後は、僕が遙の心の傷を、あの時の事も含めて癒してあげるから……だから安心してね、遙」 再度紅茶を一口含むと、まるで甘美な蜜を味わうかのように舌を這わせる。 「ふふっ。今日の夕食は何を食べようかな……」 その声は柔らかく甘い響きでありながら、底無しの冷たさが感じられた。 「う……っ……」 暗闇の中、匠はクッションに顔を埋め震えていた。涙と嗚咽が混じり、心臓が激しく鼓動を打つ。 (……何だこれ、何なんだこれ……俺は、どうしたらいいんだよ……!) 視界が霞み呼吸が乱れる。指先が震える中、無意識にスマホを拾い上げた。 (……誰か……誰でも良い、助けて……っ) ふと浮かんだ名前。 「……な、おと……」 涙で濡れた画面を震える親指でタップしてみる。何度もミスをして、やっと早乙女 直斗(さおとめ なおと)のアイコンを押し、通話ボタンを押す。 『おっす!匠?ちょ、おま、いきなり掛けてくんなよ!びっくりしちまったじゃん!掛ける前に言えよ、俺がオナニーの真っ最中だったらどうすんだよ!俺お前の声でフィニッシュすんの?』 数秒後、すぐに明るい声が飛び込んできた。 「……あ……っ……ご、ごめ……っ」 『……匠?何かあったのか?いや、あったから電話してきたんだよな。……どうした?』 「……っ、う……っ、あ……いや……」 声が詰まり言葉が出ない。嗚咽だけが漏れ続ける。 『匠、大丈夫じゃねーよな?今何処に居んの?』 「……い、え……」 『家に居るんだな?あのボロアパート?あれ、でもお前この間……ま、いいや、今はどうでもいいか。で、何があったんだよ……話してくれ』 しばらくの沈黙の後、途切れ途切れの涙声。 「……俺っ、もう、また、分かんねぇ……分かんなくなっちまった……っ」 『何が……?』 「へ、変な奴から……写真……いっぱい……」 『……写真?何の?』 「……えっと、説明すんの、今は、ちょっと……」 『っ……!』 直斗の息が詰まる音が、スマホ越しに鼓膜へ届く。 『分かった、お前のエロい写真だな。クソ、ぜってー許さねー!』 「ち、違ぇけど……でも、似たようなモンかも……」 『匠!!』 直斗の声が必死に匠を呼び掛ける。 『……大丈夫だぜ。お前は、この俺が助ける。絶対にな』 「いや、でも……っ」 『お前が泣いて、エロ写真ばら撒かれるなんて、俺耐えらんねー』 直斗は少し誤解したまま、懸命に匠を励ます。 『よし、今からそっち行く。あのボロアパートに行けばいいのか?それとも、違うとこのがいい?』 「いや、いいよ、もう遅いし……っ」 泣き声が静まり返った部屋で小さく震える。その小さな心の叫びは、直斗の心に深く落ちた。 『うるせー!行くって言ったら行くの!分かったな?待ってろ!じゃあな!近くなったら、また連絡する』 「お、おい……なお……」 プツッ。 通話を切るや否や直斗は家を飛び出し、スマホを助手席に投げ捨てシートベルトを乱暴に引き寄せた。クラッチを踏みながらキーを回すとエンジンが深く唸りを上げ、夜の静寂を低音が乱す。 「……泣いてたな、あいつ……」 小さく呟いた後、直斗の目つきは変わる。サイドブレーキを下ろしてクラッチを踏み込み、一速。アクセルを煽り回転数を僅かに上げ、慎重にクラッチを戻し、青い車体は滑るように動き出した。住宅街を抜けるまでの短い道、彼は一度も視線を逸らさない。信号が青に変わると二速、三速とギアを上げていく。タコメーターの針が跳ねるたび、エンジン音が一層深く変化する。高架が見えてきた。やがて車は高速へと滑り込み、海上に立つ橋の上を走行する。車内ではユーロビートのリズムが大きく鳴っていた。それは焦燥を煽るようでいて、不思議と心を落ち着かせる音でもあった。 「落ち着け……今、俺が焦っても仕方ねーだろ……」 自分に言い聞かせるように呟いて、純正じゃないハンドルを静かに握る。アクセルに置いた足の力を抜き、速度を一定に保つ。スピードは速いが動きに無駄は無い。SAの灯りが見える。このSAは海上に浮かぶ人工島だ。空と海の境目が消えた夜の中を、青い車体が疾走していく。 (……俺っ、もう、また、分かんねぇ……分かんなくなっちまった……っ) 匠の泣き声が、頭の中で何度もリフレインした。胸の奥の熱を押し殺すように、直斗はギアを六速に繋ぐ。その動きは滑らかで、とても手慣れていた。 「……待ってろよ、匠。すぐだかんな……」 エンジン音が長いトンネルに反響し、夜の海底を貫く。 所変わって、都内の高級ラウンジ。シャンデリアが煌めき、綺麗に着飾った女性陣がテーブルを華やかに囲む。 「九条くんは見所があるよ。今度ウチの娘に紹介したいくらいだ」 「……恐縮です」 「えぇ、そうなんですよ。九条が居てくれるとこちらとしても凄く助かります。仕事も完璧ですし、見た目も良いですし」 「ホント、九条さんってイケメンですよねぇ♡」 「九条さん、今日は一緒に飲んでくれますよね?」 楽しげに笑うのは取引先の常務と、上司の課長。そして女性達。テーブルには高級シャンパンと、色とりどりのカクテル、豪華な前菜が並ぶ。 しかし。 遙は一切グラスに口をつけず、無表情のまま前を見つめていた。 (……世界一、無駄な時間だ) 女性が隣でそっと腕に触れるが、遙は微動だにしない。そんな遙の様子に戸惑いながらも微笑みを保つ。彼女もプロだ、仕事で泣く訳にはいかない。更に距離を詰めて、たわわに実った胸を押し付けた。 「九条さんって、彼女とかいるんですか?こんなに素敵なら、絶対いますよね♡」 遙は一瞬、女性を見下ろすように視線を落とす。 「……あぁ、居るぞ。俺だけの可愛い恋人がな。分かったらその手を離してくれ、気安く触らないで頂きたい。後、その脂肪を押し付けてくるのも止めろ、虫唾が走る」 「えっ……」 それ以上言葉を続けず、女性を視界から外す。その青灰色の瞳には完全な虚無と冷たい無関心が漂っている。 (匠は、もう家に居るだろうか。今頃は入浴中か……濡れた髪から滴る雫、顔はほんのり赤く、白い肌は水を弾いて……。早く帰りたい。早く抱き締めたい。早くセックスがしたい) 「九条くん、飲んでるかい?」 「……はい」 微笑を浮かべ、グラスをほんの少しだけ持ち上げる。それ以上は一切飲もうとしない。常務や上司、女性達の笑い声が響いても、遙の耳には全く届かない。 (きっと寂しがっているだろうな。今日はもう、抱き殺す勢いで可愛がってやろう……) ドロドロに熱く溶けた思考だけが頭の中で煮え滾る。しかし表面は無表情。周りの男性陣は遙の様子など気にも留めないが、女性達の方は気圧されるように視線を合わせるのを止めた。華やかなラウンジの中に、一人だけ別の空間に居るような。そんな狂気すら滲む空気が、遙の周囲を纏う。 (いつ終わるんだ。早く帰してくれないか) グラスの中の氷を見つめながら、遙はふとスマートフォンを取り出す。何故かは分からないが、胸騒ぎがした。

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