13 / 21
残響(ざんきょう)
夜風が頬を打つたび、身体の芯まで冷たさが染み込む。街は静かで、信号の切り替わる音が遠くで聞こえる。匠はパーカーのフードを被りながら目的地へと歩いていた。あの後すぐにマンションを飛び出し、最寄り駅までの足を急がせ電車に乗り、遙と同棲している街とは別の街へと逃げるように来てしまった。
(……もう、家に居たくねぇ……)
部屋に残る空気に耐えられなかった。誰も居ないはずなのに、今のあの部屋は遙と朔の気配で満ちている気がして。息をするたび、喉の奥がひりつく。泣き疲れた目が痛い。涙はもう出なかった。街灯が連なる歩道を俯きながら進む。通り過ぎる人の笑い声やスマホの光が、妙に遠い。まるで自分だけが別の世界に取り残された感覚。
(……直斗、本当に来るのかな……)
ポケットの中のスマホが、ただのひんやりとした金属のよう。握る指先には力が入らない。それでも、何処かで期待している自分が居る事に気づいて小さく溜め息をついた。
「バッカみてぇ、俺。情けねぇし、惨めだし……」
誰に聞かせるでもなく呟いたその声は、夜の風にすぐ掻き消された。
辿り着いた場所は、かつて一人で暮らしていたアパート。何だか十数年ぶりに感じる。まだ解約していない部屋に何となく入ろうと思った瞬間、ポケットの中でスマホが震え、無機質な振動音が夜の静けさを僅かに切り裂いた。思わず心臓が跳ねる。躊躇いつつ取り出して画面を見ると、そこに映る名前を見て驚き、同時に嬉しくなった。
(え……本当に来てくれたのか……?)
震える指で通話ボタンを押す。耳に当てると、一時間程前に聞いたばかりの声がすぐに飛び込んできた。
『……匠?今何処?』
しかし先程までの軽さは無く、少し低めの落ち着いた声。胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「……あ、えっと……アパートの近く」
『そっか。じゃあ、そこを動くなよ、もうすぐ着くから』
「……う、うん。……でも、何で?」
『野暮な事聞くなよ。お前が泣いてんのに、放っとける訳ねーじゃん』
電話口の向こうで風を切るような音が微かに聞こえる。それが直斗の車の音だと分かった瞬間、凍ってしまっていた心が少しずつ溶けていく。
「……ありがと……」
『水くせーぞ。泣くなよバカ。今、行くからな』
通話が切れると耳に残った声が、まだ震える心を静かに包み込む。匠は、ゆっくりと息を吐き出した。アパートの前に座り、見上げた夜空には雲の切れ間から細い月が覗く。
程なくして、遠くから低く唸るような音が聞こえた。最初はただの迷惑な車の走行音だと思ったが、その音は次第に近づき空気を震わせながら匠の鼓膜を打つ。夜の閑静な住宅街を騒音で乱すエンジンの轟き。匠は即座に反応した。
(……この音は……!)
顔を上げよく見てみると、角を曲がった先から一際目立つ鮮やかな青が現れた。滑るように近づいてくる。HIDヘッドライトと黄色のLEDフォグランプが、二つ同時に匠の身体を照らす。あまりの眩しさに思わず目を細めた。ブレーキの音と共に、青の車体は目の前で停止。サイドブレーキを引く音がした後エンジンが静まり、ドアが開く。少し冷たい風の中から見慣れた姿と、聞き慣れた声がした。
「おっす!……来ちゃった」
息を荒げるでもなく、けれどその赤茶色の目は真剣そのもので、真っ直ぐに匠を見据えている。思わず喉が詰まる。何か言おうとしても、何故か声にならない。
「つうか寒いだろ。何してんだよ、こんなとこで」
そう言って、直斗は匠の肩に手を置いた。温かかった。その瞬間、張り詰めていたものが音を立てて崩れ、匠は俯いたまま唇を噛んだ。
「……ごめ……っ」
途切れ途切れの謝罪。直斗は何も言わず、そのまま匠を抱き締めた。背中を撫でる手が落ち着け、とでも言うようにゆっくり動く。
「泣いちゃうくらい嫌な事だったんだろ?なら、そんな時は、この俺様を頼ってくれよ。……幼なじみとか、関係無しに」
その声が耳に落ちた瞬間、匠の胸の奥で何かが静かに弾けた。夜風が吹き抜け、青いボディと金色のホイールが街灯の下で微かに光る。冷えた空気の中、二人の呼吸だけが確かに聞こえる。
「とりあえずさ、何か冷えるし、俺の超かっこいい愛車スバたんで夜のドライブでもしようぜ。ほら、乗れ!」
(スバたん……?)
直斗に促され、涙を拭い車に乗り込む。助手席のドアを閉め、エンジンが始動すると車内は一瞬でカーオーディオの爆音に包まれた。直斗が慌ててボリュームを下げる。外の冷たい空気とは違い、暖房の柔らかな温もりが頬を撫でる。匠はシートに背を預けたまま、小さく息を吐いた。身体にはまだ直斗の体温が残っている気がする。
「……ごめんな、わざわざ来て貰っちまって……」
「何言ってんだよ。お前が泣いてんのに放っとく方が無理だろ」
軽口のように言いながらも、直斗の目は一瞬たりとも前方から逸れない。社外ステアリングを握るその横顔は、普段の飄々とした彼とは違って、何処か頼もしく見えた。
「……相変わらず運転上手いな」
「そりゃ毎日運転してるし、愛してるからな。こいつも、勿論お前の事も!」
「……何だそれ、キッショ……」
思わず顔を背けた匠の頬が、淡く赤色に染まる。車内にはエンジンの低い唸りと、僅かな息遣いだけが混ざり合っていた。しばらくして直斗が声を落とす。
「……なぁ。さっきあらかた聞いたけどさ、何があったのか、もう一回聞いてもいい?……いや、言いたく無かったらいいや」
その優しい声音に、匠の喉がキュッと詰まる。言葉にするのが怖い。上手く説明出来るかも分からない。でも、この沈黙のままでは、もっと苦しい。握り締めた拳を膝の上に置き、震える声で呟いた。
「も、元カノから、写真が……大量に来て……」
「元カノ?あの高校ん時付き合ってた?」
匠は答えず、窓の外に視線を向けた。ガラスに映る自分の顔が、酷く弱々しく見えた。それを見た直斗は深く息を吸い込み、静かにギアを変える。
「よく分かんねーけど分かった。……とりあえず腹減ったから何か食おうぜ。泣くのも話すのも、あったかいとこで、な?」
青い車がゆっくりと走る。その滑らかな走行とロードノイズが心地よい。二人だけの密室の夜。
「やっぱりこの時間だとファミレスか?匠、何か食いたいもんとかある?」
「別に……。何でもいいよ、ネカフェとかで」
「えっ」
直斗の車は繁華街を抜けて少し外れた通りへ。看板に明かりを灯すネットカフェが見えた。直斗は少し戸惑いながらも、匠に確認を取る。
「……本当に入る?」
「本当に入る。何?俺と入んのは嫌?」
「いや、嫌とかではなくて……その……」
「……何だよ」
何故か一人で焦る直斗を見て、少し笑ってしまった。ネカフェの駐車場に入り、完璧な駐車を見届けて入店する。受付でブースを選ぶ時、匠は即座に「角部屋の個室がいい」と言った。
「普通の席とか無理。ぜってぇやだ」
「こっ、こここここ個室ぅ!?ちょ、おま……俺、風呂は入ってきたけどさぁ……」
「さっきから何なんだよお前……マジでキショいな」
丁度二人分くらいの狭い個室に入ると、何だか少し落ち着いた。モニターの光が眩しい。直斗は一人動揺しながらパソコンを操作し、メニューを表示させている。匠はその隙に、マナーモードでスマホが振動しないように設定を変更していた。
「ほ、ほら!何でも頼め!お、お、奢ってやる!」
「は?いいよ別に。お前、今日は無理して来てくれたんだから、逆に俺が奢ってやるよ」
「べ、別に無理なんてしてないんだからね!お前が泣いてたから来てやっただけなんだからね!」
「……何だろう、ガチでキモイ。まぁ何でもいいや」
結局、匠はカツカレーとカルボナーラを注文。直斗はポテトだけ。少し経った後、料理が出来たと通知が来たので一旦個室の外へ。飲食が可能なスペースのテーブルの上に置かれた料理に匠は頬を緩める。その隣で直斗は呆れ顔で笑った。
「ヤケ食いかな?」
「うるせぇな。食わなきゃやってらんねぇんだよ」
スプーンを持つ手は震えず、ようやく心底安堵しているように思えた。一口食べて、何かを思い出したかのように小さく笑う。
「……何か、懐かしいな。昔よく直斗ん家でメシ食わせてくれたよな……家族皆で食って、マジ美味かった……」
「おいおい、そんな事言わず、いつでも家に帰って来いよ。父ちゃんも母ちゃんも、皆待ってるぜ。勿論俺も」
「……うん」
匠の肩の力が少しずつ抜けていく。直斗はそれ以上余計な事は言わず、黙ってその様子を見つめた。
……この笑顔を守りたい。
そんな想いが、直斗の中で静かに膨らむ。
「なぁ、匠」
「何?」
「俺、何があっても、お前の味方だからな」
「あっそ。……ありがと」
わざと素っ気無く返す声の裏で、匠の目尻にはうっすら涙が光る。メロンソーダのストローを咥えたまま、照れた表情を浮かべた。
(やっぱ、直斗と居ると気が楽だ……)
飲食フロアの照明が、二人を優しく照らす。都会の喧騒が遠く、何処か現実とは隔たれたような穏やかな時間だけが流れていた。
食事を終えた後、二人は再び個室へ戻った。部屋の中は暗く、パソコンのモニターの光だけが揺れている。匠はフラットなマットの上に座り、両手で温かいココアを包み込むように持っていた。
「……ありがとな、直斗。マジで」
「気にすんなって。ほら、お子ちゃま匠くんは『ココアはやっぱり森〇♫』でも飲んどけよ。あ、猫舌だったよな。フーフーしてやろうか?」
「……いらね」
強がるように返した声は、もう少しで震えそうだった。カップをテーブルに置くと、匠は小さく笑って俯く。
「直斗と居ると、なんつうか……凄ぇ安心する」
「知ってる。俺は伝説の超癒し人だからな」
そう言って直斗は少し身体をずらし、匠の隣に腰を下ろす。モニターが自動的に暗くなり、直斗が慌てて個室の電気をつけた。
「……自分で言っちゃう、そういうところがお前の残念なところだよな……」
匠の声は、さっきよりもずっと明るかった。
「顔だけは良いのに。もったいねぇな、本当」
直斗は何も言わず、そっと匠の頭を優しく撫でた。その手の温もりに匠の全身の力が抜けていく。
「……なぁ、直斗」
「ん?」
「俺、ちょっと……寝てもいい?」
「えっ、あ……うん、いいに決まってんじゃん!寝ろ!はい、おやすみーたっくん」
匠は頷き、マットの上で猫のように丸くなって横になる。目尻に残った涙が薄いシートに小さな染みを作った。直斗は脱いだ上着をそっと匠の身体に掛け、静かに息をつく。
「本当、無防備過ぎなんだよなぁ……お前は」
微かな独り言。外はもう夜明け前の光が少しだけ差し込み始めていた。ココアの甘い香りと匠の寝息だけが混じり合い、その個室は小さな安息の箱のように静まり返る。直斗は唇を震わせて眠る匠を見つめたまま、動けずにいた。狭い部屋に満ちる静けさの中、照明を少し落としたこの空間で二人の輪郭は闇に溶ける。
(くそぉ……あんまりよく見えねーけど、隣で寝てるってだけで何でか分かんねーけど意識しちまう……)
そっと茶色の髪を撫でようとした瞬間、匠がころん、と寝返りを打った。目が慣れてきて、視界に入るのは少し開いたパーカーの隙間から覗く白い肌と、鎖骨。息を呑むほど魅入ってしまう。思わず顔を近づけた。温かな吐息が触れる距離。
(やべ……勃っちまったじゃねーか。ど、どうする?トイレで抜くか?それともバレねーように隣でシコるか?)
胸の鼓動が不自然なほど速くなる。握り締めた拳が、僅かに震えた。
「……はるか……」
囁くような寝言が沈黙の空気を震わせた。口付けようとした直斗の動きがピタリと止まる。
(はるか……?もしかして彼女か?)
胸の奥が訳も無くざらつく。知らない名前なのに、何故か耳に焼き付いて離れない。
(そういや俺、匠が彼女持ちって聞いてねーぞ?)
思考が渦を巻く。ただ、見つめるたびに鼓動が高鳴り、理性が崩れそうになる。直斗は乱れた呼吸を抑えるように深く息を吐き、穏やかな表情で呟く。
「……ダメだろ。彼女居るくせに、俺の前でそんな可愛い顔して寝るなんてよ……」
今はっきりと音を立てて昔から抱いていた恋心が目を覚ました。
(やっぱ俺、匠の事……好きだわ。彼女が居ても、好きなものは好きだ!)
言葉に出来ない想いを飲み込んで、直斗は静かに意を決して立ち上がり部屋を出た。外の街は、もう白い朝に染まっている。
時刻は遡り、しかし同じ夜。
深夜三時を回った頃、街の明かりはほとんど消え、タクシーのヘッドライトだけがアスファルトを照らしていた。遙は後部座席でネクタイを緩めながら、細い月の光が微かに滲む窓の外を眺めていた。
(……長い夜だったな。しかし退屈だった)
店での笑顔も、酒の味も、全てが上辺だけ。ようやくタクシーがマンションの前で止まり、大きく溜め息を吐いて精算し、ドアを開けて貰う。
「……ただいま」
玄関の灯りを点ける。いつもより遅い帰宅だったからか、静寂が部屋を包んでいた。しかしすぐに違和感を覚える。匠の普段履いている、かかとの潰れたスニーカー、大学で使っているリュックが何処にも見当たらない。遙は一瞬だけ眉を顰め部屋を見回した。ソファの下には落ちたクッション。テーブルにはケーキが入っていたと思われる箱と、その中には大量のビニール。空のプリンの器。隣に置かれたスプーンに、僅かなプリンの欠片が乾いてこびりついていた。
「……匠?」
呼んでも返事は無い。ポケットからスマートフォンを取り出し通話履歴やメッセージを開くが、何も届いていない。
「……何処へ行った」
低く漏らした声が静寂と暗闇の空間に落ちる。窓の外では夜明け前の風が吹き抜け、カーテンが微かに揺れた。そのまま窓際に立ち、街の遠い灯を眺めながら青灰の瞳を細める。静かな違和感だけが、遙の心に淀みを生む。その淀みは泡沫のように浮かび上がっては消え、やがて匠という名を暗示する。
ともだちにシェアしよう!

