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審問(しんもん)
窓の無い個室の朝。日光の代わりに電気の光が匠の瞼を刺激する。思わず、ゆっくりと目を開けた。見慣れない天井。狭い部屋に二人分の呼吸がこもっている。隣では直斗が座った姿勢で寝ていた。腕を組み、胡座をかいて時々カクン、と金髪頭を揺らしている。
(……コイツ、座ったまま寝てやがる……)
ぼんやりした視界の中で、昨夜の記憶の断片が浮かんでは消える。泣いて、喋って、食べて、笑って。気づけば眠ってしまっていた。まだ瞼が重いけれど、胸の奥は昨日より少しだけ軽い。
「……おい、直斗……」
呼び掛けると、彼の睫毛が僅かに震える。寝起きの声で、低くボソッと返された。
「……おはよぉ匠くーん……寝顔、可愛かったぞぉー」
「ぶっ殺すぞテメェ」
匠は枕代わりにしていた腕を解き、赤くなった頬を隠すように顔を背けた。静まり返った個室に、二人の息遣いだけが満ちている。何だか恥ずかしくなって寝ていられなくなり身を起こした。空のカップを見て、匠がよく分からない不満を漏らす。
「おい、ココアもうねぇの?」
「いやいや、俺はお前の召使いですかぁ?」
「違ぇけど……。動くのクソだりぃから持ってきて」
「YA☆DA」
「チッ……ムカつくなコイツ……」
二人は半分寝ぼけながら、くだらないことで小突き合っていた。気がつけば夜は完全に明けて、世間は既に活動を始めている時間。ネカフェに置いてあったアメニティで身なりを整え、二人一緒に並んで歯を磨いた。部屋に戻り匠が伸びをして、テーブルのスマホの画面を覗く。そこに表示された時刻は午前10時過ぎ。それに加えて無数の着信履歴とメッセージ。
「……っ、やっべぇ……」
「どした?」
「か、帰んなきゃ……」
急に顔を真っ青にさせた匠を、直斗が不思議そうに見つめる。
「え?何、今日大学一限からだった?つっても、もう間に合わなくね?」
「いや……違うけど、はる……っ」
言いかけて、匠は唇を噛んだ。遙の名前を出す事に躊躇う。その沈黙を察した直斗の目が僅かに翳る。
「……そっか。大事な人が待ってんだな」
その声に匠は答えられなかった。ただ曖昧に頷き、リュックを掴んで立ち上がる。
「送ってく?」
「いい。駅、すぐそこだし」
ネットカフェの出入口で一瞬だけ振り返った匠に、直斗は笑って片手を上げた。
「じゃ、またな。ちゃんと寝ろよー」
「お前もな」
朝の光の中へ匠は足早に消えていく。その背中を見送りながら、直斗は小さく息を吐いた。
「……はるか、ね」
寝言で呼んでいたその名前が、まだ耳の奥に残っている。赤茶色の瞳に、再度翳りが落ちた。
(はぁ……。匠はもう部屋にいねーし、シコってから二度寝すっか……)
すっかり昇った太陽が街を照らす中、マンションに着いた匠の足は重く何度も止まりそうになる。しかし、震える手で家の鍵を取り出し、玄関の扉をそっと開けた。
「っ……」
室内は異様なほど静かだった。カーテンは全て閉め切られ、日光が遮断されている。俯いたままリビングに目を向けると、そこにはソファに腰掛けた遙が微動だにせず佇んでいた。暗い部屋の中、その瞳だけが青灰色の鋭い光を放っている。
「……」
こっちに気づいた視線が、自分を真っ直ぐに射抜いてきた。
「ぁっ……」
足が竦み、思わず息を呑む。喉の奥から掠れた音が漏れたが声にはならない。遙は一言も発さず、ただじっと凝視する。逃げ場を探す小動物のように目を泳がせ、身体を小さく震わせる匠。
(や、やっぱり怒ってる。どうしよう……)
沈黙の中、カーテンの隙間から僅かに射す光が、二人の距離を更に際立たせる。
「……あ、えっと……」
緊張が張り詰める部屋。匠は玄関で立ち尽くし固まっている。遙は何も言わず、ただ静かに立ち上がった。昨日と同じスーツ、高い位置で結われた銀髪は下ろされ、瞳には暗い影と冷たい光。硬直状態の匠を見つめたまま、ゆっくりと歩み寄る。一歩、また一歩、確実に。まるで狼が獲物を捉えるように、近づく。
そして。
「……っ、あ……」
声が出る間も無く、その怯えきった身体は強い腕に引き寄せられた。内臓が飛び出てしまうのではないかと思えるほどの力で抱き締められ、背中に回された腕は逃げ道を塞ぐように絡みつく。息が詰まり、匠の身体は尚も震える。
「……う……あ……苦し……っ」
遙の呼吸は熱く、荒い。背中を撫でる手は何度も匠の存在を確かめるような動き。
「……」
言葉は無いが、その沈黙が何よりも雄弁だった。匠は恐怖と戸惑いの中、心の奥にある僅かな安心の欠片が溶けだし、涙腺が刺激される。
「……ひぅっ……うぅ……っ」
堪えきれず、喉奥から小さな嗚咽。遙は無言のまま、ただひたすらに抱擁を続け、その強い腕の中で匠は震え続ける。二人の心拍数は大きく乱れていた。
「……お前が無事で……本当に良かった……」
低く、喉から絞り出すような声。それは普段の冷たい支配や威圧とは違う、何処か壊れそうに脆い響き。
「……ふっ……う……っ」
琥珀の目に、また涙が溢れ、何度も瞬きを繰り返す。遙のその一言で、凍りついていた何かが少しだけ解凍された気がした。
「……っ、ごめ……なさ……」
か細い声を漏らし、力無く広い胸板に顔を埋める。
(……俺、何してんだろ……)
それでも何故か抱き締め返す事は出来なかった。ただ泣く事しか出来ない。不意に遙の大きな手が、そっと匠の後頭部を撫でる。
「……もう、勝手に居なくなる様な真似は止めろ。お前に何かあったのかと思って、死ぬ程心配した……」
執着と哀願が滲んだ低音。
「一生、俺の傍に居ろ……」
言葉の温かさで、匠の心に熱がこもる。
カーテンは閉め切られたまま。昼の光は一切入らない。暗い部屋の中、ソファに並んで座る二人。匠は膝を抱え小さく丸まり、視線を下げている。その横で遙は少しだけ背を預け、ゆったりとした呼吸。長い沈黙の後、遙がゆっくりと口を開く。
「……何処に居た」
低く穏やかだが、決して逃がさないとでもいうような声色。
「っ……」
匠は答えず、キュッと唇を噛む。
「……誰と居た」
更に静かに問い掛けてくる。有無を言わせない圧が込められている。
「お、幼なじみが……来てくれて……」
蚊の鳴くような声。遙は「幼なじみ」というワードに反応し、眉を顰めた。
「……で、何処に居たんだ」
「ね、ネカフェ……」
視線はまだ上げられない。膝を抱える匠の指の力は強い。
「……何故出ていった」
遙の問いは淡々とした調子。しかし、その青灰色の瞳には底無しの執着が燃え盛っている。
「家に……居たくなかった……」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がまた一段と重くなった。
「……俺の接待が原因か」
「ち、違う……」
小さく首を横に振る。目尻に再び涙が滲む。遙は視線を伏せ、指先で膝を掴んでいた匠の手に触れる。
「……では何故……何かあったのか?」
「っ……!」
「……教えてくれないと分からない……」
声は穏やかだが同時に刃のような鋭さを孕んでいた。匠は唇を震わせ、何度も頭の中で言葉を探す。
「何も無い……けど、何か……色々嫌になっちゃって……っ」
本当は昨日の出来事を話したかった。でも余計な心配を掛けたくないと思った匠は嘘をついた。遙は黙ったまま僅かに息を吐く。その溜め息が、逆に圧力となって胸を締め付ける。そんな彼の本心を知ってか知らずか、大きい手のひらが匠の手をそっと包む。その温度に肩を小さく揺らした。
「……成程。その結果があれか……」
ダイニングテーブルに置かれたケーキの箱と空のプリンの容器を見て、低く柔らかい一言。遙の長い指は鎖のように絡みついて離れない。
「……しかし、本当にそうか?」
無意識に震えてしまう身体。それでも何とか喉の奥から声を出す。
「ごめんなさい。俺が……間違ってた……ごめんなさい……っ」
「謝罪が聞きたい訳では無い」
遙の瞳が鋭く細められる。
「……本当の事を言え。俺に隠し事が出来ると思うな」
心を読まれているのかと思い、遙に包まれている手から汗が滲み出す。必死に言葉を選んで何かしら言おうとするが、ただただ喉を上下させるだけ。視線は下に落ち呼吸は乱れる。動揺の色が隠せない。
「う……上手く言えないけど……」
掠れた声が、やっとの思いで漏れる。
「実は……大学で色々あって。課題とか、絵の事とか、色々……」
その言葉に混じるのは偽り。声はほとんど途切れがちで、喉が詰まり息も絶え絶え。
「お、俺……バカだから、このままじゃ単位取れないかもって思ったら、全部嫌になった……」
目から大粒の涙が零れ落ちる。その涙の成分は遙に対する罪悪感と、朔に対する敗北感。
「だから……遙に迷惑掛けちゃいけないと思っ……」
最後の言葉は、もう泣き声と区別がつかないほど細く、弱かった。遙はその横顔を静かに見つめ、ゆっくりと息を吐いた。青灰色の瞳には、冷たい光と底無しの愛情が入り混じる。
「……お前は、俺に嘘をついているな」
重く、逃げ場を与えないような低い声。
「何故そんなにも必死なんだ?俺にはどうしても言えないか?何を庇っている?」
匠は顔を上げられず、泣きながら首を振った。
「……っ、違う……っ!」
頬に触れた遙の指が、優しくも有無を言わせぬ力で引き寄せる。その距離の近さに、匠の呼吸が止まった。
「……そうか。なら、もう……無理矢理言わせるしかないな……」
「ひっ……」
「お前は直ぐに後悔する事になる。俺が優しく質問している間に吐けば良かった……とな」
淡々とした声音。だがその裏には確かな怒りが満ちていた。琥珀の目から、また新しい涙が溢れ、頬を伝って落ちる。悲痛な声が室内に小さく響く。
「……や……嫌だ……許して……」
「それと、もう二つ。俺に内緒で他の男と会ったり、家出するような悪い子には……仕置きが必要だろう?」
匠の身体がビクンと跳ねる。顔を上げると、青灰の瞳には既に狂気が宿っていた。
「ま、待って……お願い……っ」
懇願の声も虚しく、遙の人差し指が震える唇に触れ、それを封じる。
「……事実だけを話せ。それ以外は何も喋るな」
「……っ、や……やだっ!」
「どうやら俺の言っている事が理解出来ないようだな……」
何処までも低く、容赦の無い声。逃げようとしたその腕を、強い力で捕らえる。
「馬鹿だな。逃がす訳が無いだろう」
絶望の表情を浮かべる匠の頬に舌を這わせ、愉悦に浸る遙。
「今日という今日は、絶対に許さん……」
目の前の男は、いつもの舌舐めずりをして妖艶な微笑みをこちらに向ける。匠はただ震えるしかなかった。
(怖い……逃げたい。誰か、助けて……直斗っ!)
そう思っても、もう身体は動かない。
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