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余韻(よいん)
カーテンの隙間から僅かな月の光が、薄暗い室内に静かに射し込んでいる。いつの間にか気を失っていたようだった。
「……っ……う……」
匠がゆっくりと瞼を開ける。まず感じたのは、身体の芯まで残る鈍い痛みと重い倦怠感。
「い゛っ……てぇ……」
呻き、シーツを掴む。思うように動かせない脚と、節々に残る熱の痕。
(いくら何でも、ヤり過ぎだろ……)
頭の中で昼間の記憶が断片的に蘇る。
「……っ……くそ……」
目を固く閉じながら、小さく悪態をつく。喉は乾き、声は掠れていた。
(あんなに何回も……殺されるかと思ったぜ……)
罪悪感が胸の奥にじわじわと広がる。遙に心配を掛けたくない、という気遣いが裏目になってしまった。とにかく色んな感情が混ざり思考はグルグルと回る。前髪をくしゃっと掴み、項垂れる。
「……いや、俺が全部悪いんだけどさ……」
声に出した瞬間、更に罪の意識に苛まれる。
(バカ……俺のバカ……ついでに遙もバカ……)
自分の言葉に落ち込み、布団に顔を埋めた。
「もう……しばらく……顔、見れねぇ……」
小声の呟きは震え、途切れがち。だが、心の奥では微かに残る熱と、遙の感触。それら全部が一緒に混ざり合い、離れずに残っていた。
「……ほう。暫く顔が見れない、か。ならばどうする。また家出でもするか?」
不意に低く、静かな声が部屋に響く。
「っ……!!」
匠の肩がビクリと跳ねる。恐る恐る顔を上げると、そこには乱れた白いワイシャツと黒のスラックスに身を包んだ遙が立っていた。青灰色の瞳は、いつものように冷たくも底無しの執着を湛えている。
「……は、遙……っ」
思わず声が震え、喉が詰まる。ゆっくりと歩み寄り、ベッドの縁に腰掛ける遙。
「あれだけ教育してやったというのに、まだ足りなかったようだな……」
「っ……違っ……!」
匠の顔が引き攣り、言葉が続かない。
「また逃げるつもりか……」
「そ、そんな事……」
「……なら、何故俺の顔が見れない」
遙の冷たい指が、そっと匠の頬に触れる。その指先の温度に心臓は大きく高鳴る。
「……お前はもう、俺から逃れられないんだ。今回はお前を信じて家で待っていたが……次もし同じ事があった場合……お前が何処に居ようと、必ず探し出して連れ帰る。そしてその後は監禁する……」
「っ……!」
涙が滲む。でも、それを拭おうとせず匠は血の固まった唇を噛んだ。
「……もう、家出なんて……しねぇよ……」
か細い声。遙は一瞬、瞳を細める。
「……だと良いがな」
満足げに呟き、柔らかな茶髪を優しく撫でた後、遙は懐からスマホを取り出した。その動作があまりにゆっくりで、何事かと匠は息を呑む。
「そういえば、お前に見せたいものがあった」
画面をタップしながら、遙の口角が微かに上がったように見える。
「お前が帰って来る少し前に届いた」
匠の目の前にスマホが差し出される。画面には、差出人不明の一通のメッセージ。
【匠くんを愛してやまない遙へ。愛しの匠くんに、僕から素敵な贈り物をプレゼントしたよ。喜んでくれたかな?是非感想を教えてね。】
琥珀の目が揺れ、指先は震え出す。
「……何、これ……どうして……」
遙は微笑んだまま、続ける。
「俺に何も無かった、と言っていたが……これはどう説明してくれるんだ?」
その声は氷刃のように冷たかった。
「……俺に嘘や隠し事をするからこうなる」
震える匠の頬を、遙の指が優しく撫でる。
「……だが安心しろ。そしてもう、何も隠すな。俺がお前の全部を守ってやる」
「う……うぅっ……っ」
途端に温かく、柔らかくなる声。その音に、匠の涙腺が緩む。
「匠……」
嗚咽を漏らし、震える身体を遙が強く抱き締めた。
「……っ……遙、ごめん……なさい……」
掠れた謝罪。そっと匠の頭を撫で、そのまま更に腕の力を強める。
「……もう良い」
低く優しい声。その言葉を聞いた匠の腕が、おずおずと伸びる。震えながら、けれど必死に、遙の広い背中に回された。呼吸が乱れ、熱い何かがぶつかり合うような抱擁。
「……っ、う……っ……」
匠の頬が遙の首筋に押し付けられ、涙がそこに溶ける。いつもの匂いに安心する。
「もう二度と……俺から離れるな……」
耳元で響く低い囁き。それは命令のようで、同時に必死な願いのようでもあった。
「……っ……うん……っ……ごめん……っ」
抱き締める腕の力が僅かに強まる。遙もまた、胸の奥に溜めていた感情をぶつけるように、匠の背中を大きな手で覆い尽くす。
「……お前だけだ。お前しか要らない」
「遙……」
どちらともなく、額を擦り寄せ唇を重ねる。吐息と涙、熱と震え。全てが混合し、ただ互いの存在を確かめ合う。この瞬間だけは、言葉よりも深く繋がるキスの音が二人の間に静かに響いていた。
遙がダイニングテーブルに夕食を並べる。気がつくと鼻腔に濃厚で良い香りが届く。いつの間に作ったのか分からない本格的なビーフシチュー、焼き立てのバゲット、赤と緑が綺麗に映えるサラダ、いつものコーヒー。匠の前に並べられた料理は、どれも温かい。
「っ……」
匠は椅子に座ると、一瞬手を止める。胃の奥に沈む空腹と、何処か残った罪悪感。
(……そういえば朝から何も食ってなかったな……でも、呑気にメシ食ってる場合か……?)
そんな思いが過ぎるも食欲には勝てず、匂いに誘われるように、そっとスプーンを手に取った。
「……いただきます」
弱々しい声でそう呟くと、まずはバゲットに手を伸ばす。カリッとした外側、ふわっとした中身に、思わず目を丸くする。
「……うめぇ」
最初の一口で全身一気に血が巡るような感覚。手が止まらず、次々にシチュー、サラダを口に運ぶ。シチューは熱かった為、慎重に口へと入れた。
(クソ美味い……)
夢中で食べ進める匠。気がつけば、皿の上はどんどん空になっていく。遙は、その様子を静かに見つめていた。頬杖をつき、僅かに目を細めながら。
「……そんなに美味しそうに食べてくれると、作り甲斐があるな」
低く、しかし安堵に染まった声。
「う、うるせぇな……見てねぇでお前も食えよ」
匠は赤くなりながらも、更に口を動かす。喉を通る温かさが、冷え切った心の奥まで広がっていく。
(……やっぱ……生きるって、食う事なんだな……)
ぼんやりとそんな事を思いながら、匠は最後の一口までしっかりと平らげた。
「ごちそうさま……」
食べ終えた匠の頬には、少し血色が戻っていた。スプーンを置き、ふと顔を上げるとテーブルの向こうにいる遙に目が留まる。くたくたの白いワイシャツ姿。時計にちらりと視線を落としていた。
(仕事、わざわざ休んだのかな……もしかしなくても、俺のせいだよな……)
匠は一瞬、躊躇うように唇を噛む。それでも、意を決し控えめに声を掛ける。
「……遙」
「……何だ」
ゆっくりと顔を上げ、匠を青灰の瞳で真っ直ぐに見つめる。
「今日は……仕事、どうしたの?……休んだ?」
その言葉には、少しだけ気遣いと遠慮が混じっていた。遙は無言のまま依然として匠を見つめる。そして、僅かに口元を緩めた。
「……有給が沢山残っているんでな」
低音だが優しく響く声。
「だから、そんなつまらない心配をするな」
「そ、そっか……」
匠の表情が一気に安心に染まり、椅子の背に思い切りもたれ掛かった。遙は小さく笑い、立ち上がると空いた食器を片付け始める。
「……とは言っても、やる事はある。お前は好きにのんびりしていろ」
「いや、いいよ。皿洗いくらい俺がやる。お前は仕事しろ!」
「……そうか。なら頼む」
ゆっくりと頭に手を置き、軽く茶髪を撫でる。その一瞬の動作に、匠は顔を赤くした。
「……有難う」
その一言を残し、遙はソファに座るとノートパソコンを広げた。
「っ……やっぱり、好きだ……」
匠は真っ赤な顔を隠すように俯きながら小さく、誰にも聞こえないほどの声で、そっと呟いた。
家事を済ませ、入浴を終えた匠は薄手の部屋着に着替え、ソファに寝転がっていた。片手には白いアイスキャンディー。
「ん……うまいなこれ……」
唇にペタッと当てながら、子供みたいに無防備に笑う。一方、テーブルの向こうでは遙がPCに向かって作業していた。画面を見る眼差しは鋭いが、そこには奇妙な落ち着きと静かな熱がある。
「はぁ……」
匠は溜め息をつき、アイスを一口齧り、そのままじっと遙を見つめる。
(コイツ……何しても様になるっていうか、何と言うか……本当、ずりぃよなぁ……)
凛とした顔。ゆったりと指を滑らせるタイピングの音。集中している時の、あの真剣な表情。
(昼間、あんなに俺をめちゃくちゃにした奴と同一人物とは思えねぇ……)
アイスを咥えたまま、ほんのり頬を赤らめた。
(でも……それでもやっぱ……好きなんだよな……)
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。嬉しいような、切ないような、だけど確かな気持ち。画面から視線を外した遙が此方を一瞬だけ見た。
「……どうした?」
低声が静かに響く。
「な、何でもねぇよ……!」
慌ててアイスを食べる匠。その頬の赤さはどうにも隠せなかったようで、遙は短く笑うと再びPCに視線を戻した。
「……バーカ」
アイスを齧りながら呟く。その声は、誰にも聞こえないほど小さくて、温かかった。
遙はPCの画面を見つめながら静かに指を走らせる。しかし、どうにも進まない。視界の端でソファに寝転がり、アイスを美味しそうに食べる匠の姿。時折小さく眉を寄せる可愛らしい仕草。唇に触れる白いアイスが溶けて、小さな雫が口角を濡らす。
(……可愛い)
平静を装いながらも、遙の脳裏には目の前の恋人の姿が鮮明に、しかし何故か邪なイメージへと変換されて焼き付いていく。
(今すぐ抱き締めたい……)
キーボードを打つ手が止まってしまった。
(その氷菓の味を共有したい……)
欲望が熱を帯び、暴走しそうになる。
(首筋を吸って、大量の痕を刻みたい。声を殺させて、震える身体を何度も堪能したい……)
自分の中にある狂気と独占欲が、静かに点火した。
(だが今は……)
無理やり思考を作業へ戻そうとするも、匠がアイスを食べるたびに喉を小さく鳴らす音、赤く染まった頬、無防備に緩く開いた脚、それら全部が自分の欲を焚き付けてくる。
(……可愛過ぎるな。やはりお前は俺だけが一生独占したい……)
淡い微笑みが、一瞬だけ口元に浮かぶ。指先がまた止まる。振り切るように、無理やりタイピングを再開した。
(……作業が終わったら、だ)
そう決めると視線は画面へ。その瞳にはギラリと光る理性と、底知れない欲望が激しく燃え上がっていた。
匠は、画面を見つめる真剣な表情の遙をチラチラと見ていた。細かい指先の動きにすら何処か色気を感じてしまう。
(何でコイツみたいなクソイケメンが、俺なんかを……)
ぼんやりと考え込みながらアイスを無意識に口に突っ込んだ、その時。
「うわっ!」
溶けたアイスが落ち、気づいたら白い液体が口元から首にかけて垂れていた。
「わ、わわっ……!」
慌てて着ている部屋着でゴシゴシと拭く。顔や服に甘い匂いが立ち込める。落ちてしまったアイスは仕方なくゴミ箱に捨てた。
「うえぇ……最悪……」
その声に反応したテーブルの向こうの遙。動きを止め、青灰色の瞳を細めて、匠を凝視。
「あっ、ごめん……うるさかったよな……」
言い訳を口にするより早く、遙の身体が静かに立ち上がった。
「……匠」
喉の奥で唸るような低い声。
「な、何……?」
ゆっくりと歩み寄る遙と、縮こまる匠。
「……お前は本当に可愛いな。しかし、いちいち可愛過ぎるのも困りものだな……」
「なっ……!」
「……無意識なのか何なのか知らないが……何故そんなに俺を煽るんだ。俺は今日中に仕事を終わらせたいんだが?」
遙の指が匠の唇をなぞり、アイスの跡を舌先で舐め取った。
「そんな風に誘うという事は……やはり、足りなかったか」
「ち、ちがっ……!」
「違わない……」
遙の中で、理性の枷が音を立てて外れる。
「とりあえず、今汚れた箇所は全部、舐め取ってやろう……」
そう囁くや否や、匠の顔や首に唇を押し当てた。
「や……あっ……」
甘い声が室内に細く響き、溶けていく。
「……っ、や……っ」
小さく震える匠の上に重なり、頬に残ったアイスの跡に、ゆっくりと舌を這わせる。
「ひぅっ……!」
甘く香る肌に熱い舌が絡む。そのねっとりとした感触に、匠の身体はビクンと大きく波打った。
「ふふ……甘くて美味いな」
囁き混じりに、更に舌を押し当てる。もうアイスなど口実で、匠そのものを味わっている。
「んあ……や……やめっ……」
耳朶に舌先が滑ると、匠の脚が力無く開きそうになる。この流れに飲まれる前に急いで逃げようとするも、遙の大きな手が既に腰を掴んでいて、もう自由に身動きが取れなくなってしまった。
「……逃がさん。綺麗にするまでは、絶対に」
今度は顎下から喉元へ。冷たい跡を丹念に舐め上げる。
「んんっ……!」
痺れるほどの刺激に、匠の呼吸がどんどん浅くなっていく。熱い舌が肌をなぞるたび、思わず声が漏れる。
「……どうした。ただ綺麗にしているだけなのに、何故感じているんだ」
「嘘つけよ……何が綺麗にしてる、だ……っ!」
「何を言っている、嘘吐きはお前だろう……」
遙の指が顎を持ち上げ、更に舌が這う。もう何処にも甘い液体は残っていないのに、それでも執拗に舐め続ける。
「っ、ん……やぁっ……」
舌が滑るたびに匠の背中は反り、脚はガクガクと揺れる。
「可愛いくて、良い声だ……」
低い囁きと共に、またひと舐め。匠は抵抗する気が無くなり、ただ震える身体を何とか必死に支えていた。
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余談
「あのさ、何で幼なじみが男って分かったんだ?」
「……?いや、知らないが」
「……は?」
「どうせ男だろうな、と思っただけだ」
「……あのさぁ。じゃあ何?俺、お前の思い込みでキレられたワケ?」
「……女なのか?」
「……いや、男だけど……」
「なら……何も問題無いな」
「ちょっと待てよ!そもそも何で男で怒るんだよ!同性だし、幼なじみだぜ!?意味が分かんねぇ!!」
「性別など記号でしかない。男だろうが女だろうが、お前に関わる人間そのものが気に入らない」
「もういいや。お前とは話にならねぇ事だけは分かった」
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