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情欲(じょうよく)
「……っ、あぅ……」
匠はソファにもたれ掛かり荒い呼吸を繰り返す。琥珀の目は涙で濡れ、頬は赤く火照り、指先まで震わせていた。
(クソ、あんだけしてまだ足りねぇのかよコイツは。どんだけ性欲モンスターなんだ?)
小さな溜め息を吐きつつ、胸の奥で少しだけ期待を覚える。
「く、来るなら来いよ……」
強い言葉だが、弱々しい声。脚に力が入らず、そのまま崩れ落ちた。そんな匠を見下ろす青灰の瞳は酷く穏やかで、優しい手つきで匠の頬に触れる。
「随分と安っぽい挑発だな。そんな顔をして言われてもな……」
低く甘い声。匠は諦めと覚悟と期待が混ざった気持ちを胸に、目を固く瞑った。
「……仕事が片付いたら、可愛がってやる」
「……っ、え……?」
顔を上げ、何とも間抜けな声が出た。遙は額にキスをし、柔らかい茶色の髪を梳くと再び作業に戻る。
「良い子にしていろ……」
此方をチラリと見やり、小さく笑って一言。
「っ……!」
恥ずかしくなり唇を噛む匠。頬が更に赤くなるのと同時に俯いた。
(……な、何だよバカ……!)
胸の中で脈打つ期待が、どんどんと大きくなっていく。何とも言えない複雑な感情を振り払うように、匠は乱れた部屋着を整える。室内には心地よい打鍵音と、匠の微かな呼吸音だけ。
静かにタイピングを続ける遙。しかし、なかなか収まらない欲が作業の邪魔をしてくる。
(本来ならこんな作業、直ぐ終わる筈だった……)
画面に表示される資料。冷静に捌く指の動きに段々と力が入る。
(……匠のせいだ)
ソファの上では、いつの間に持ってきたのか前に水族館に行った時に買った鮫のぬいぐるみを抱き締めた匠が縮こまっている。顔はまだ赤く、時折視線が此方を追っては慌てて逸らす。
(可愛い顔で誘惑し、可愛い声で煽る。全く、昼間それなりの回数をしたというのに、それでも俺が我慢出来ないのも、毎日セックスしたくなるのも、全部……お前が可愛過ぎるせいだ)
遙は息を小さく吐くと、強くキーを叩く。脳裏に蘇る、涙目で震える昼間の匠の姿。声、表情、感触。指先を止め、ふっと目を細める。
(ふふ……俺が、これ程までに人を愛する日が来るとはな。人生何があるか分からないな……)
誰にも届かない心の声で呟いた。自然と笑みが浮かぶ。その笑顔には狂おしいほどの執着と欲望が滲み出ていた。匠が小さく身じろぎすると、その動きに遙が素早く反応し、同時に呼吸が僅かに乱れる。
「……本当に可愛いな」
無意識に零れた言葉。それは熱を帯び、艶が含まれた低音だった。
ソファの上。匠は依然としてサメのぬいぐるみを抱えて丸くなっていた。心臓の鼓動も速いまま、胸の奥はずっと熱い。
(やっと終わったと思ったのに……。なのに、またヤるのか……?)
目を伏せ、唇を噛んだ。
(まだ全身バキバキだし、俺のケツは限界だよ……)
サメをギュッと抱き締める。視線を上げると無言でキーボードを叩く遙が映る。鋭い眼光と真面目な空気。
(……くそ。やっぱ、かっけぇな……)
頬が赤くなる。そして、その奥にふっと湧き上がる感情。
(顔はイケメンなのに、コイツは中身がアホみたいな執着モンスターのバケモンなんだよなぁ。それでも、俺……)
自分でも気づかないうちに、目の前の男に心底惚れていたんだと実感した。特に抱かれている時に感じる、どうしようもなく溺れるような甘さと、全てを奪われるあの支配される快感。
(はぁ……。作業が終わったら、また……)
思わず身震いする。でも、何処かで待っている自分が居る。
「……バカ……」
顔をぬいぐるみに埋めて小声で呟いた。
(また、抱かれたい……なんて。もう、本当にどうしようもねぇな……)
ざらついた熱は冷めない。テーブルの向こうで穏やかに微笑む遙。再度訪れる情事の気配に、匠の胸は期待で膨らむばかり。
しばらく続いていたタイピング音が、ふっと止んだ。その瞬間、ソファで縮こまっていた匠の肩がピクリと動き、目が大きく見開かれ息を呑む。さっき受けた激しい舌の愛撫を思い出し脚に力が入らない。ゆっくりと遙が立ち上がり、匠の方へと歩を進める。一歩、また一歩。その静かな足音が無言の圧を放つ。
「……そんなに怯えるな」
低い声と同時に、匠の頬に長い指が触れた。冷たいはずのその指先は、妙に熱く感じる。
「……っ、あ……」
声にならない声。匠の肩が更に震える。その様子をじっと見つめると口角を上げ、優しく微笑む。
「……今日は、辛いなら止めておくか」
「……えっ……」
琥珀の目が遙を見上げる。その目に浮かぶのは困惑。
(……な、何で……?)
身体の奥で未だ残る熱。昼間と、先程の刺激が消えず下腹部が脈打つように疼く。
「ふふ……」
喉奥で笑い、青灰の瞳が細められる。
「身体、辛いだろう。仕置きとは言え、俺もお前に好き勝手やり過ぎてしまったと思ってな……」
「……や、えっと……」
「だが……」
遙の顔が近づく。鼻先が触れる距離で、欲に染まった瞳が匠を射抜く。
「お前がどうしても、と言うなら話は別だ」
「っ……!」
視線を逸らす匠。頬は赤く染まりきり呼吸は浅い。遙が顎を掴み、強制的に視線を戻させると更に追い打ちの如く囁きかける。
「……正直に言え」
低声が耳奥にじわりと溶ける。
「っ……」
匠は唇を震わせ視線を彷徨わせた。しかし逸らそうとすればするほど、遙の指が更に強く顎を押さえる。
「……答えろ」
「あっ……」
掠れた声が小さく漏れる。
「……お、俺……」
それは、とても曖昧な音。その奥には欲と恐怖が混ざり合った歪な本音が潜む。遙は瞳を細め匠の表情をじっと見つめる。
「言えないか……」
静かに落ちる低声。
「……なら、やはり今日は止めておこう」
「……っ……や……」
「無理をさせてはいけないからな……」
そう呟いた後、指が顎から頬をなぞり首筋を這う。爪先で柔らかく触れられるたび、匠の身体はピクリと跳ねる。
「……っ、あっ……」
その瞬間、遙の強い腕が匠を軽々と持ち上げ、寝室へと連行。
「わっ……な、何だよ……やめろっ……!」
ベッドに組み敷き、匠の耳元に唇を滑り込ませる。
「……ひぁ……っ!」
「今日は贖罪の意味も兼ねて、寝かせてやろう……」
低く甘い囁き。
「……お休み」
「……っ、あ、おやすみ……んっ……」
匠の細い声はキスでかき消された。遙の眼差しは甘さと優しさが滲み、慈しむように更に深く舌を絡ませる。支配も恐怖も無い、穏やかな空気が流れた。
朝日がカーテンの隙間から射し、静かに部屋を照らす。
「……ん……」
匠は重たい瞼をゆっくりと開ける。頭の中に残る、ここ最近の出来事。身体中に走る鈍い痛みと熱が、すぐにそれを思い出させた。
(何か……疲れちまった……。てか、直斗……どうしたかな……謝らねぇと……)
髪が寝汗で張り付き、僅かに軋む身体。ふと視線を下に向けると胸元には赤い痕がたくさん刻まれており、至る所に情事の痕跡。毎回付けられてはいるが、改めて見ると今回はかなり数が多い。
「はぁ……」
静かに呼吸を整える。胸の奥はまだ熱いまま、微かに脈を打つ。
(……ったく……)
腕を持ち上げようとするが全身がずっしりと重い。いつもの事だが、昨日は特に何度も貫かれ、何度も泣かされ、気づけば意識を手放していたほどの激しい行為だった。小さく吐息を漏らすと隣にはまだ寝息を立てる遙の姿。無防備に寝ているようで、決して油断の無いその顔。けれど、その横顔を見た瞬間、心にふわっとした温かさが広がった。
(こんなに毎回めちゃくちゃにされて……それでも、俺は……)
伸ばした指先が遙の銀の前髪にそっと触れる。指先が僅かに震えるが、そこには自分でも抗えない想いが膨らむ。
(何でコイツの事……好き、なんだろ……)
「……バーカ」
小さく呟いて、そっと手を引っ込めた。下腹部にはまだ熱が残り微かに疼く。
(これ……絶対、昨日のお預けのせいだな……)
昨夜の就寝前の事を思い出しながら、頬に朱を差す。シーツをギュッと握って、浅い呼吸を繰り返す匠の胸の奥には痛みと快楽が溶け合った、複雑でどうしようもなく甘い余韻が漂う。
不意に、遙の睫毛が微かに震えた。
「っ……!!」
(やべっ……起こしちまった……!?)
心臓が大きく高鳴る。そろりと様子を覗くと、ゆっくりと呼吸を続けていて一安心した。視線を逸らし、静かに背を向け布団を掛ける。しかし……。
「……馬鹿、って言ったか?」
「ひぇっ……!」
遙の低い声が、すぐ耳元で落ちた。
「……っ、な、何の事か分かんねぇな……」
驚いて布団に潜ろうとする匠を、遙の腕が強く引き寄せる。
「実は起きていた……」
「い、いつから?」
「最初から。……で、どうした。朝からそんなに赤くなって。……可愛いな……」
「……うるせぇ……!」
強く抱き締められ、全身の甘い疼きが増す。思わず声を詰まらせる匠の首筋に、遙の唇がそっと触れた。
「……昨日は、本当に良く頑張ったな」
「な、何が……?」
「何だ、忘れてしまったのか。……なら、思い出させてやろうか……」
「……や、っ……やだ!」
「ふふ……」
囁く声は低く、優しさに溢れている。
「……昨日あれだけされて、忘れるワケねぇだろ……」
震える声で必死に反論する匠。けれど、その目は涙と熱で潤んでいる。遙は小さく笑うと、匠の首元を強く吸い上げた。
「元はと言えば全部、お前が悪い。自業自得だろう」
「……そうだけど……っ」
声は弱く、再び浮上する罪悪感。
「でも……それにしたってやり過ぎだろ。俺、殺されるかと思ったぜマジで……」
その言葉に、青灰の瞳が微かに細められ、静かに笑みが深まる。
「……だから大人しく寝かせてやったんだ。感謝しろ……」
穏やかな朝の光に包まれた二人。互いの体温を共有しながら、静かに呼吸を重ねていた。
「はぁ……」
講義室の一番後ろの席で、匠はノートにペンを走らせていた。しかしページには落書きのような意味の無い線が幾つも重なっている。
(くそっ!全然集中出来ねぇ!!)
頭をブンブン振っても、すぐに昨日の激しい情事の映像が自動再生される。低い声、熱い視線、深く抉るような動き。そして自分の喉から漏れた、あの声。
(バカ……思い出すなよ……)
頬が赤みを帯びる。袖でそっと顔を覆うも熱は一向に収まらない。
(……何で……こんなっ……)
下腹部が、昨日の夜からずっと疼いている。椅子に座っているだけでも落ち着かず、微かに腰をずらしては息を詰める。
「……藤宮くん?」
突然、前方から教授の声。
「っ……あ、はいっ……!」
慌てて顔を上げると、周囲の視線が一斉に此方へ集まる。
(……や、やっべぇ……)
「ここ、答えてくれる?」
黒板の文字は、もはや霞んでよく見えない。匠は何も言えず俯く。教授は小さく溜め息をつき、匠の様子を気にする事無く講義を再開させた。
(さ、最悪だ……)
小さく項垂れ、心の中で遙に悪態をつく。
(アイツのせいだ……あのドS変態鬼畜絶倫モンスター!!)
プルプルと拳を握るが視界の端に心配そうな表情を浮かべた友人の姿が映り、何とか怒りを抑えた。
(今日は帰ったら流石にヤるよな……)
そこで思考が止まる。胸の中で潰れるような期待と恐怖が同時に蠢く。
(……バカ……もう、本当にバカ……)
机に顔を伏せ唇を噛む。周囲は誰も知らない。匠だけが抱える甘く狂おしい感情に、深く身体を蝕まれている事に。
遂に限界が来た。教授に断りを入れ、講義室を抜け出した匠は重い足を引き摺って廊下を歩く。
(……もう、無理。集中出来るワケねぇじゃん……)
ペンを握る手は震え文字が上手く書けず、椅子に座っているだけで奥が甘く疼いてしょうがない。脳裏に浮かぶのは銀髪ロングで切れ長の青灰色の瞳の男、ただ一人。
(あーもう、思い出すなってば!!)
込み上げる熱を必死に抑えながら、医務室の前になんとか辿り着いた。ノックをし、中に人が居るのを確認してから扉を開ける。
「失礼します……」
引き戸をそっと開けると、常駐している美人の保健師が驚いたように顔を上げた。
「……あら?えっと……貴方は?」
「あ、藤宮です。ちょっと……頭痛が痛くて……」
咄嗟に出たヘンテコな言い訳。学生証を見せると保健師は柔らかく笑って小さく頷き、ベッドを指差す。
「じゃあ、良くなるまで休んで?」
「ありがとうございます……」
匠は言われた通り差された方へ向かい、カーテンを閉めベッドに横になると長い息を吐いた。目を閉じるも、浮かぶのは何故か遙の端正な顔。
(もうやだ……)
背筋に走る冷たい感覚。布団をギュッと握り締める指先。
(……でも、どうしても好きなんだよな……)
どれだけ怖くても、どんなに泣いても、結局自分は遙から逃れられず、最近はあの支配さえ何処か心地良さを感じている。
(バカ……遙はバカだけど、俺はもっとバカ……)
視界が少し滲み、喉がキュッと締まる。胸の奥では恋慕の火が灯り続けている。
(……ちょっとだけ、寝よ……)
ゆっくり瞼を閉じると、じわりと身体の力が抜けていく。仄かな薬品の香りと静かな医務室の空気に包まれながら、匠は眠りへと落ちていった。
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