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決起(けっき)

朝、スーツの袖口を整えながら姿見の前に立つ遙。完璧にまとめられた銀髪、きりりと結ばれた低めのポニーテール。一見すると非の打ち所の無い社会人の風貌。しかし、頭の中では昨日の匠の姿が何度も何度もリピートされていた。 (……昨夜も最高だったな……) そして、唐突に開かれた脳内会議。妄想会議室内の机に肘をつく自分、正面の会議用ホワイトボードには大きく「匠」と書かれた文字。司会進行は勿論自分自身。 (……あの自慰行為の映像は永久保存。思い出すだけで興奮する。いや、何ならもう今直ぐ抱きたい) 鏡の前、慣れた手つきでネクタイのピンを付ける。 (昨日の『もう大丈夫』発言、あれは完全にセックスの誘いだったな) 脳内のホワイトボードには「もう大丈夫 → 追加で性行為OKサイン」と赤字でメモ。 (無理はさせたくないが、甘やかし過ぎるのも良くない。何より、匠は欲求不満のようだしな……) 現実世界では自他共に認める、整った自分の顔を見つめる。 (今日帰ったら、念の為コンディションチェックが必要だな……) 妄想ホワイトボードには「本日の任務 → 匠の体調チェック → セックス(最優先事項)」と大きく書き足された。 (それにしても、昨夜は何回した? 五回目辺りから記憶が無い。……いかんな、このままでは外に出られなくなってしまう) 下半身に血液が漲っていくのを感じる。鏡越しに口元が歪み、自然と危うい笑みが浮かんだ。 「……早く抱きたい……」 ボソッと呟いた後、脳内会議室に居る複数の自分達が一斉に頷く。 (だが、仕事は完璧にこなさなければ。今夜の為にも……) 「……良し」 胸ポケットにスマートフォンをしまい、深呼吸。 (……しかし、何故あいつは俺がつけた痕を隠すんだ? それでは意味が無いだろう……全く) 妄想は止まらない。匠の赤く染まった肌、乱れた茶色の髪、潤んだ琥珀色の目、自分が残したキスマーク、その一つ一つが遙の思考を浸食していく。 (……今夜は、どう可愛がってやろうか……) 表面ではクールなエリートとして振る舞いながら、内側では狂気混じりの甘い匠会議が延々と繰り広げられていた。 「……あ、おはよ……」 「おはよ! 何か今日も眠そうだな!」 何とか大学に着いた匠は肩を竦めるようにして友達二人の輪に入る。昨日の追い打ちの行為と、その余韻が身体に重く残っていて、脚に力が入らず立っているだけでも辛い。 「そういえば昨日はどうしたんだよ。途中で講義抜けて、そのまま帰っちまったじゃん」 「……あっ、えーと、ちょっと頭が痛かったんだよ……」 二人は一斉に「大丈夫か?」と心配そうに顔を覗き込んでくる。 「マジで無理すんなよー、最近ずーっと顔色悪いし。あ、そういやさ……」 その内の一人が、イタズラっぽく笑って言葉を続ける。 「医務室の前を通った奴から聞いたんだけど……」 「っ……!」 「何か声、聞こえたらしいんだよ……」 「えっ? 声? 何の?」 「うっ……!!」 匠の肩がビクッと震える。 「それが、すんげー色っぽい声だったらしくてさぁ……匠ぃ、お前まさか彼女でも連れ込んでた?」 「っ……!!」 匠の顔は一瞬で耳まで真っ赤に染まる。 「ち、ちがっ……違うっ……! そ、そんなんじゃ……っ!!」 「え~? でも、めっちゃえっちな声だったらしいぞ。誰も居ない医務室で……いやー、男だなぁ!」 「何だよ、サボってセックスしてたのかよ!」 「や、やめろ……やめろぉ……っ」 か細い声で遮ろうとするが、友達は面白がって笑いながら尚もからかい続ける。 「聞いた奴が恥ずかしがってたわ~! わざと? それとも、『彼女は俺のものだ!』とか? どっちにしてもスケベだなお前!」 「や、やめろって言ってんだろっ……!!」 俯き、手で口を覆う匠。呼吸は荒く、汗が額を伝う。 (死ぬ……ってか死んだ……もう大学辞めてぇ……) 脳裏には、あの医務室での出来事がフラッシュバックする。遙の低い声、冷たい指、止められなかった自分の喘ぎ……。 (……くそっ……またアイツのせいだ……!) 心臓が壊れそうなほど早鐘を打ち、全身が小刻みに震える。 (……も、もう……最悪だ……) そんな匠の様子を見て、友達はようやく笑いを引っ込めた。 「え、ちょ……ご、ごめんって! 半分冗談だって!」 しかし、既に匠の頭の中では羞恥と恐怖が爆発していて、もう声を返す余裕すらなかった。 「うぅっ……」 俯きながら何とか呼吸を整えようとしていると、もう一人の友達が、ふと思い出したように呟く。 「……あ、でもさ」 「えっ……今度は何だよ……」 匠の肩がピクリと動き、掠れた声を漏らす。 「俺、同じゼミの子から聞いたんだけど……医務室に入ってったのは女じゃなくて、スーツ姿のイケメンの男だったらしい……」 「っ……!!!!」 頭の中で何かがパーンと弾ける音がした。 「いや、その子が言うには、何かモデルみたいに背が高くて、スタイル良くて、銀髪で……あれ?」 「~~~~っ!!!!」 匠は勢いよく立ち上がると机にガンッと膝をぶつけ、そのまま身体をよろめかせた。 「い、いってぇ……!!」 「お、おい! 大丈夫か!?」 「だ、だいじょうぶ、じゃねぇ……っ!」 声が裏返り更に真っ赤に染まる匠。汗がこめかみを流れ落ち、呼吸が浅くなる。 (……やっ、ヤバい……!! 完全にバレたっ……!!) 友達二人は困惑しつつも必死に言葉を繋ぐ。 「え、えっと……整理すると、もしかしてその人が匠の例の彼女……? じゃなくて、彼氏か?」 「~~~~~っ!!!!!!!」 匠は何も言わず勢いよくリュックを掴むと、そのまま弾かれたように走り出した。 「お、おい、匠!? ちょ、待てよ!」 呼び止める声が後ろで響くが、もう聞こえない。いや、聞く余裕なんて一切無かった。 (……終わった……平穏な大学生活は、もう無理……俺は社会的に死んだ……!!) 講義室から飛び出し、階段を駆け下りる。頭を真っ白に支配する羞恥と絶望で胸の奥がギュッと痛む。 (絶対に遙のせいだ……帰ったら……文句言うだけじゃ済まさねぇ!!) しかし、その怒りすら、遙の前では無力だと分かっている自分が居て、もっと苦しくなった。 「……はぁ……」 重い脚を引き摺りながら廊下を気怠げに歩く匠。気がつくと、何やら周囲の視線が自分に集中している。 (……え、何……?) 「……あれが……」「マジで?」「嘘だろ……」 ザワザワと広がる囁き声。誰かが後ろ指を差し、また別の人は遠巻きに眺め、面白がって集まる学生達。 (……な、何だよ……) 嫌な予感が匠の心を侵食していく。慌ててその場から逃げようとするが、さっきまで話していた友人とは別の人物が駆け寄って来て、いきなり腕を掴まれた。 「た、匠……っ! お前、昨日医務室でヤったってマジなのか!? 喘ぎ声が聞こえたとか……それと……」 「……っ、だ、だから違っ……!」 「彼女連れ込んでヤってたって噂になってるけど……俺、見たぞ。スーツ着た男が入ってくとこ……」 「っ……!!」 思わず言葉を失う匠。その顔は再び一気に紅潮し、耳の先まで熱が上がる。 「あの人、誰なんだ? 彼氏……なのか?」 「……っ……ち、ちが……っ、あ、いや……」 何と言えばいいのか自分でも分からない。ごちゃごちゃと頭の中で言葉が混ざり合い、声にならない。 (……っ、マジで最悪だ……!!) 周囲の視線は好奇心と半信半疑、そして微妙な興奮に満ちていた。息が詰まりそうな空気。 「……っ、もう、ほっとけよ……っ!」 耐えきれず、匠は腕を振り払って走り出す。廊下を突き抜け、階段を駆け上がる。とにかく何処かに逃げなければ……と必死だった。 (くそっ……何でこんな事に……っ!!) 胸の奥で破裂しそうな羞恥と後悔を抱え、匠の足は止まらなかった。 「……っ、はぁ……はぁ……っ……」 荒い呼吸を繰り返しながら、屋上の扉を勢いよく開けた。乾いた冬の風が、一気に汗ばんだ頬を冷たく撫でる。 (……っ、くそ……っ……) 視線を落としたまま屋上の隅にしゃがみ込み、膝を抱える。 「何で……何で、こうなるんだよ……」 小さく震える声が、誰も居ない屋上に消えていく。 (恥ずかしい……。みんなにバレて、一部の人に声、聞かれて……っ) 唇を噛み締め、肩を小さく上下させる。昨日までの甘く支配される夜と、今ここで抱える孤独と羞恥が頭の中で交錯する。微かに滲む涙を、腕でぐいっと拭う。 (……遙……っ……俺、どうしたらいい……?) 全ての元凶であるはずの遙の低声、青灰の瞳、体温を無意識に思い出す。全部が悔しいほどに愛しくて、心臓を鷲掴みされるような感覚。 「……本当に……バカだ、俺……っ」 何度も涙を拭うも、すぐにまた次の涙が零れ落ちる。 (全部アイツのせいなのに……それでも俺、アイツがいないと……もう、どうしようもないんだよ……) 小さな嗚咽が混ざる呼吸。風の音だけが優しくも残酷に耳に届く。匠は項垂れたまま膝を抱えてうずくまり、誰にも見せられない自分の弱さと向き合っていた。 その時。 ポケットの中で震えるスマホ。不意の通知を知らせる振動に、匠はビクリと身体を揺らす。 (……誰だよ。今は、それどころじゃ……) 震える手でスマホを取り出すと、そこには見覚えのある、送信者不明のメッセージ。 「っ……!」 一瞬で鼓動が跳ね上がった。 (……また!? 何で……) 数日前の嫌な出来事が蘇る。胸糞悪い、最低最悪の画像が大量に送り付けられた夜。その後は、もっと散々な目にあったが。それでも好奇心には勝てず、恐る恐る画面をタップすると、そこには一つのファイルが添付されていた。震える指で再生ボタンを押す。画面に映し出されたのは笑顔の遙と、柔らかい微笑を浮かべる朔。肩を寄せ合い、指輪を見せ合う。更には夜の、薄暗い部屋の中で遙の首筋に口付ける朔の姿。親密さがひしひしと伝わってくる映像。 「……っ、またかよ……しかも今度は動画とか……」 匠の顔から一気に血の気が引き、震える手からスマホが落ちた。 (嫌だ……やめろ……っ、こんなの……俺は見たくないっ!!) 虚ろな目で拾い上げるも映像は次々と切り替わり、楽しげに笑う遙の表情、熱を孕んだ視線。そして、最後に送られた文字を見て顔が引き攣った。 【ねぇ……今どんな気持ち? 是非教えてよ、遙に相応しくない匠くん】 「……っ、う、うっ……」 膝をつき、スマホを握り締める。全身が震え、呼吸が乱れる。 (遙は……こんな俺でも良いって……でも……でも……!!) 頭の中で、ぐちゃぐちゃに絡まる感情。優しい囁き、強い抱擁、その全部が一瞬で黒く塗り潰され、崩れていく。 「……っ、うぁ……っ……!」 誰も居ない屋上に、押し殺した泣き声が響く。 「……っ、あ、ああ……っ……」 混乱と恐怖、そして胸の奥を抉るような嫉妬と絶望が交錯し、視界がぐにゃりと歪んでいった。 「……匠!!」 「っ……!?」 突然、扉が開いて勢いよく足音が近づいてくる。 「おっす! ……とか言ってる場合じゃねーな。おい、大丈夫かよ……ずっと心配してたんだぜ?」 息を切らせた直斗が、匠のすぐ横にしゃがみ込む。その顔には驚きと不安、そして真剣な心配の色が滲んでいる。 「……っ、う、るせ……ほっとけ……っ」 「ほっとけねーよ。どう見たってお前、今超ヤベー顔してんじゃねーか」 直斗は震える匠の肩をがっちりと抱え込む。逃げる事も出来ず、匠は小さく身を縮めた。 「なぁ……何があったんだよ。匠の大学ってどんなとこ? と思って来てみたら、変な噂で持ち切りだぜ? お前。もしかして、エロい写真ばら撒かれた?」 「……ちっ、ちが……違う……!」 涙混じりに首を振る匠。 「じゃあ何だよ。お前、この間からずっと泣いてばっかじゃねーか。……何があったのか話せよ、なぁ……」 直斗の声は震え、今にも泣き出しそうだ。 「……っ、や、やだ……っ……!」 匠は顔を伏せ、更に強く身体を震わせた。胸の奥から溢れそうな言葉と感情が込み上げる。 「……もう、無理……俺、何も……信じらんねぇ……っ」 「匠……」 直斗は強く匠を抱き寄せ、その背中をゆっくり撫でる。屋上の冷えた風が、二人の間を吹き抜けていく。 「……頼む……頼むから、一人で抱えんなよ……俺達は幼なじみで、友達以上の、家族……だろ……?」 小さく嗚咽を上げる匠の耳に、その優しい声が柔らかく届いた。 「……っ、う、ぁ……」 直斗の腕の中で嗚咽を漏らす匠。乱れた呼吸と涙で顔はぐしゃぐしゃになっている。 「……なぁ、匠。何があったのか、ちゃんと話してくれよ……」 そっと背中を撫でながら、控えめに言葉を続ける。 「……お前、普段から無理してんの、俺が一番良く知ってるし。だからこそ、見て見ぬフリなんて出来ねーんだよ……」 「っ、でも……話しても……どうにも、なんねぇよ……っ」 匠はギュッとスマホを握り締めて俯く。 「どうにもならなくても、話せよ。話すだけでも楽になんだろ……」 「うっ……」 直斗の優しい言葉に、匠の肩が小さく震える。 「……お前が、誰に何言われたって、俺だけはお前の味方だからな……」 「……っ……お、俺……」 掠れた声で、ようやく言葉を絞り出す匠。 「……俺……っ……信じてぇのに……信じらんねぇんだよ……何もかも、全部……っ」 直斗は赤茶色の目を見開いた後、すぐに穏やかな目つきに変え、そっと匠の頬に手を添える。 「……匠」 「でも……離れらんねぇんだよ……もう、どうしようもないくらい……好きなんだ……っ!」 涙がまた一筋、頬を滑る。 「……そっか……」 直斗は小さく頷き、深く息を吸う。 「……だったら……尚更、ちゃんと向き合えよ、そいつと。怖いなら、ちゃんと怖いって言えよ……俺が居るだろ? お前が落ちそうになったら、俺が絶対引っ張り戻してやっからさ」 「っ……」 匠の目が見開き、涙越しに直斗の顔を見つめる。 「信じたいなら……離れたくないなら、とにかく戦え!」 曖昧ながらも強い声。匠は震える唇を噛み締めると、小さく頷いた。 「……っ、ありがと……っ……」 「……泣き顔、似合わねーぞ、バカ」 直斗の笑顔が、ほんの少しだけ匠の心を軽くした。拳をギュッと握り締める。震える指先、ざわつく心臓。それでも、その奥底に確かな闘志が生まれていた。 (……怖い。全部、ぶち壊されるかもしれない。また泣かされるかもしれない……でも……!) 涙が頬を伝う中、ゆっくりと顔を上げる。 (遙が、どんな過去を持ってても、誰と何をしてたとかも、どうでもいい。俺が本当に好きなのは……今の遙だ。変な奴だけど、それでも、傍に居たいんだよ……) 頭の中で、一瞬だけ遙の笑顔が浮かぶ。あの低い声、甘い囁き、強引な手、そして極稀に見せる無防備な弱さ。 (キザヤローが俺を壊すってんなら……俺だって、テメェをぶっ飛ばしてやるよ……) 「……っ、や、やってやるぜ……」 ポツリと漏れた声は弱々しいようでいて、その奥では熱く燃える火が滾っている。 「もう……お前の好きにはさせねぇ……!」 スマホを握り締め、震えながらも立ち上がる。 「匠……?」 「……ありがとな」 振り返った匠の琥珀色の目には、涙に濡れながらも確かな決意を帯びていた。 「……俺、もう逃げねぇ。アイツを信じて、それでダメなら、全部ぶっ壊してやる……!」 直斗は小さく笑い、肩を叩く。 「……よく分かんねーけど、分かった。悪の親玉をぶちのめしに行くんだな?」 匠は頷き、深く息を吸い込むとスマホの画面をじっと睨む。 (……待ってろよ、キザヤロー!) その瞳には「戦う男」の光が宿っていた。

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