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対峙(たいじ)
講義の開始を知らせるチャイムが響く中、匠は迷わず大学を飛び出した。胸の中で未だ脈打つ医務室の羞恥と朔への恐怖。けれどそれ以上に、その二つが混ざりグツグツと煮え立つ怒り。
(もう許さねぇ……絶対に……!!)
駆け込むように近くのカフェに入ると適当な席に身体を沈め、荒い呼吸を整えながらスマホを取り出す。画面には、また大量の通知で溢れていた。
(……クソッ……!!)
震える指でメッセージのアプリを開き、勢いよく文字を打ち込む。
【お前ぜってぇ許さねぇ! 家にカチコミに行ってやるから住所教えろ!】
送信ボタンを押す指は白くなるほど力が入っていた。送った直後、コップを握る手もガタガタと震える。
(……俺、ちゃんと戦えるかな……。いや、でも、もう逃げねぇって決めたんだ……っ!)
喉の奥が焼けるように熱くなる。店内に流れる落ち着いたBGMも、今の匠には遠い雑音にしか聞こえない。画面には既読がつき、すぐにポンッと返信が来た。
【ふふっ。やっと会話してくれる気になったんだ。勿論教えてあげるよ、可愛い匠くんにだけ特別にね】
そこには煽るような文章と住所が添えられていた。
「っ……バカにしやがって……!!」
匠は強く奥歯を噛み、スマホを握り締める。頬にはまだ涙の跡が残るが、その眼差しは確かに「戦う男」のもの。
(よし、行くぞ……。もう後には引けねぇ……!!)
立ち上がると、椅子がガタンと大きな音を立てた。周囲の視線などもう気にしていない。
(……待ってろよ、キザヤロー!!)
強い決意を胸にカフェを飛び出していく匠の後ろ姿は、何処か勇ましく見えた。
朔の住所を頼りに、一直線に走る。胸の奥は燃えるように熱く、全身は痛いほど脈打っている。
「……っ、はぁ、はぁ……っ!」
(絶対許さねぇ……!! 俺が……俺が終わらせてやる……!!)
道路を走り抜け、曲がり角を勢いよく駆け抜けようとした、その瞬間。
「ヤッホー♡」
「うわっ!?」
目の前にフワッと現れる黒いゴスロリドレス。反射的にブレーキをかけ、匠は思いきり足を止めた。
「あ、アリス……っ!?」
アリスは口元を指で押さえ、クスクスと笑う。
「ウフフ♡ そんなに急いで、一体どうしたの?」
「っ……今はお前と遊んでる場合じゃねぇんだよっ!!」
肩で息をする匠に、アリスは首を傾げる。
「ダ〜メ♡ 面白そうなイベントには混ざりたくなっちゃう性分なのよ、アタシ」
ふわりとスカートを揺らし、アリスは匠に近寄る。
「今回は正義の味方ごっこってとこかしら? アンタ一人じゃ多分すぐやられそうね……」
真紅色の瞳が、冷たく鋭い光を帯びる。
「……だから、一緒に行ってあげるわ。何か面白そうだし、あの氷の王子様が溶けるとこも見てみたいし♡」
「はぁ? 何言ってんだお前……」
匠は呆れながらアリスを見つめる。しかし、アリスの背後から漂う異様な気迫に思わず喉が詰まった。
「カチコミに行くんだよ……女が行くとこじゃ……」
「まぁ……ウフフ♡ やっぱり面白そう♡ 心配しないで? アタシ、アンタより百倍は強いから。あと、せっかくの舞台、主役は譲るからしっかり演じなさいよ?」
アリスがニッコリと笑い、背中を軽く押す。
「さ、行きましょ♡」
「何だよそれ……お前もしかして元ヤンか……?」
匠は小さく震える息を吸い込み、ギュッと拳を握る。
「全然違うけど、まぁ今はそういう事にしておくわ♡」
「チッ……元ヤンだからって、俺がビビると思うなよ!!」
再び走り出す匠の隣で、アリスは軽やかにその歩調を合わせる。その二人の背中には確かな決意と、不気味なほど静かな覚悟が滲んでいた。
朔の家の住所をスマホに入力した匠は、地図アプリを開いて必死に画面を睨む。しかし、交差する無数の道、複雑な住宅街、そして微妙にズレる現在地。
「くそ……何処だよここ。……あれ? 右? 左? いや、まっすぐ?」
スマホをクルクル回しながら、必死に首を捻る匠。
「はぁ~……」
横で大袈裟に溜め息をつくアリス。呆れたように細い肩を竦め、スマホを覗き込む。
「……匠、アンタさぁ……何でそんなにナビが下っ手くそなの? ていうか、方向音痴?」
「……う、うるせぇな……これ、ほんっとに分かんねぇんだよ!!」
「ウフフ♡ 仕方ないわねぇ……ちょっと貸しなさい」
アリスは匠のスマホをひょいっと取り上げると、スッスッと迷いなく操作を始める。
「いーい? この通りを真っ直ぐ進んで、次を右に曲がる。その後、小さい公園が見えたら左。……で、大きなマンションが見えるから、そこが氷の王子様のお城♡」
「……あっそ。いや、分かってたし……」
「あら、ホントに? でも……今はそのツンデレの安売りは要らないんだけど?」
「誰がツンデレだよ!!」
息を荒げる匠を見て、アリスはクスクスと笑いながら肩をポンッと叩く。
「まぁ何でも良いわ。とにかく、アンタはただ前だけ見てれば良いの。ナビも、面倒な事も、今日はアタシが全部やってあげるから」
「っ……」
アリスの声は軽やかであったが、何処か心強かった。
「ウフフ♡ さ、決戦の舞台に行きましょう?」
「……おう……っ!!」
匠は大きく息を吸い、アリスの言葉に頷いた。
「俺の漢気を見せてやるよ……!」
「……そうこなくっちゃ♡」
街路樹の葉が落ちた道、太陽の光が背中を照らす中、二人は決戦の地へ向かう為に再び歩を進める。
息を切らしながら、匠はスマホのナビアプリの画面を見つめた。心臓の鼓動が激しく鳴る。
「……ここだな……」
綺麗なエントランス、無駄に高い建物。そこには人の気配が薄く、何処か冷たい視線を感じるような異様な雰囲気が漂っていた。
「ふぅ……やっと着いたわね」
横でアリスがニヤリと笑う。フリルの袖を軽く払ってから、真っ直ぐマンションを見つめる瞳は鋭い。
「アリス、お前……怖くねぇのかよ……」
「怖い? アンタ、何言ってんの? 面白いに決まってるじゃない♡」
「……何が面白ぇんだよ……」
小さく唇を噛む匠。しかし、心の奥底に灯った決意の火は、もう消せない。
「まぁいいや。着いたからには、やるしかねぇんだ……」
拳をギュッと握り締め、エントランスに入るとインターホンを押す。短い電子音が鳴った後、すぐにあの高めの声が聞こえてきた。
『ふふっ……よく来たね、匠くん。どうやら一人じゃないみたいだけど』
「っ……うるせぇっ!!」
『どうぞ、入って。君達の劇場は、もう準備してあるよ……』
電子錠がカチリと外れる音がし、自動ドアがゆっくりと開く。匠はアリスをチラリと見やる。楽しげに笑みを浮かべ、まるで舞台袖に立つ俳優のように優雅に頷く。
「さ、主演男優さん♡ 開演はまだ先よ」
「行くぞ……!」
匠は決意の一歩を踏み出す。背後でアリスのブーツが軽い音を立て、その歩調を合わせる。開かれた先、そこに待つのは因縁の相手。全てを壊すか、全てを取り戻すか。
(俺が……終わらせてやる……!!)
エレベーターで上にあがり、朔の居る階層へ足を踏み入れる。やがて部屋の前に辿り着き、玄関が開かれた。
「ようこそ、僕の城へ」
「っ……」
「お邪魔しまーす♡」
部屋の中は驚くほど整然としていた。艶のある黒い大理石の床、壁には静謐な抽象画が掛けられ、空調は心地よく保たれている。けれど、その無音の空気は何処か冷たく、背筋を撫でるような不快な緊張が走る。
「……この抽象画……」
匠が小さく唸ると、アリスは興味無さそうに壁の絵に視線を滑らせる。
「なぁに? 絵が気になるの? アンタ、意外と余裕あるわね」
朔に誘導されるように進むと広いリビングへと出た。中央には高級そうなローテーブルと黒いソファ。
「……さぁ、楽にして、座って?」
白いワイシャツに紺色のネクタイ、グレーのスラックスに身を包んだ朔が、灰色の瞳を僅かに細めて涼しげな笑みを浮かべている。そして、特に動じることもなくソファに座ると、テーブルの上のティーセットに手を伸ばす。
「まぁ、まずは落ち着こうよ。そんなに興奮してたら冷静に話し合いなんて出来ないよ? それに、せっかくの君の可愛い顔が台無しさ」
「お前、何処までもキザなヤローだな……」
ティーポットから湯気が立ち上る。注がれる音が、静寂の中で異様に響く。
「匠くんにはアッサム、隣の女の子にはダージリン。僕はアールグレイ。好みかどうか分からないけど……まぁ、今日だけは僕のオススメを味わってみてよ」
そう言うと、優雅にティーカップを二つ差し出してきた。
「っ……いらねぇよ!!」
匠は震える声で叫ぶが、朔は一切表情を崩さない。
「そんな怖がらないで。僕は、ただ話がしたいだけなんだから」
その声は甘く柔らかい。しかし、その奥底に潜む狂気と執着が、匠の肌を粟立たせる。
「お前、ふざけんな……全部、お前のせいだ……!!」
「……全部、僕のせい?」
朔は首を傾げ、小さく笑う。
「ふふっ……そうだね。遙を信じられないようにしたのも、君を泣かせたのも、追い込んだのも……全部、僕のせいだね……」
「っ……!!」
匠の拳が震える。背後でアリスが冷たい真紅色の瞳を細め、無言で朔を見つめていた。
「で、どうするつもりなのかな? 確か、殴り込みに来たんだっけ? 痛いのは嫌だなぁ……」
静寂に包まれた部屋に匠の荒い呼吸が響き、朔の微笑が薄暗い空間で妖しく光る。
「ふざけやがって……!」
匠は震える手で差し出されたティーカップを掴んだ。熱い紅茶の良い香りが鼻を掠めるが、楽しくお茶をする余裕は何処にも無いし、するつもりも無い。そのまま鋭い視線を朔に突き刺す。そして……。
ガシャンッ!!
床に向かって勢いよくティーカップを叩きつけた。陶器の割れる音が、静まり返った部屋に鋭く響き渡る。
「わーお♡」
背後でアリスが嬉しそうに小さく拍手を打つ。細い唇の端を楽しげに吊り上げ、その様子を見守る。
「……お茶会しに来たんじゃねぇんだよ!!」
声は震えていたが、そこに込められた怒りは今にも噴き出しそうなほど熱い。
「言ったろ……絶対に許さねぇ……!!」
「あーあ、そのティーカップ、高かったのに……」
視界の端に朔の涼し気な微笑が見え、匠はギリッと歯を食いしばり拳を固める。
「ぶん殴ってやる……!!」
匠の目に猛る獣のような光が宿った瞬間、弾かれたように一直線に朔へと飛び込む。朔は一瞬だけ目を細め、唇にうっすら笑みを浮かべる。
「怖いなぁ……暴力反対だよ……」
「ウフフ♡ いよいよショータイムだわ♡」
アリスが後ろから見守る中、匠の拳が朔の顔面へと突き出され、ついに捉えた。……かと思われたが届く寸前、朔が細い手でぴたりと匠の手首を掴んだ。
「……その前に、少しだけお話しようよ」
「な、何だよ……離せ……っ」
「落ち着いて、匠くん……」
朔は微笑みを絶やさず、ゆっくりと匠の顔を覗き込む。その灰色の瞳には軽蔑の色が混じっていた。
「……ねぇ、知りたくない? 僕と遙が、どんな風に愛し合っていたか」
「っ……!?」
匠の表情が引き攣り、握った拳が震える。
「君が知らない彼の事を話そうか。……遙はね、僕と一緒に居る時、とても甘えんぼさんだったんだよ」
高い声が、ゆっくりと匠の鼓膜に溶けるように届く。
「お互いの薬指に指輪を嵌め合った夜、僕は遙の首筋に口付けた。そのお返しに、遙は僕の唇に何度も何度も深い口付けをしてくれた。……今、君がされているみたいにね」
「……や、やめろ……」
「ベッドの上で、遙は何度も僕の名前を呼んだ。青灰色の瞳が蕩けて、理性も失っていて、何度も僕の身体を求める遙が最高に愛おしいよ……」
「やめろって言ってんだろ……っ!」
「そして朝、僕が紅茶を淹れると遙はまるで犬みたいに擦り寄ってきてね……。君が知らない、優しい声で『お前が欲しい』って言ったんだ……」
匠の琥珀色の目が大きく見開かれ、呼吸が乱れる。
「……そんなの聞きたくねぇっ」
「でも、全部本当の事だよ?」
「っ……!!」
アリスは相変わらず後ろで冷たい視線のまま静観している。だが今、この空間には匠と朔の世界しか存在していないようだった。
「……あの頃の彼は、まるで宝石みたいに美しかった。僕の理想だった。……君は、あの顔を見た事があるのかな?」
「っ……やめろ……やめろぉっ……!!」
「ふふっ……どうしたの? 匠くん。顔が真っ赤だし、目も潤んでる……。大丈夫?」
「うるせぇっ!!!!」
絶叫とともに腕を振り払い、匠の拳が再び朔へと向かう。しかしまたしても、その拳は朔の手のひらの中で、あまりにも呆気なく止められた。
「……ふふっ」
朔は細い指で拳を優しく包み込むように握り、そのままゆっくりと匠の顔に近づく。
「……そんなに震えて、一体どうしちゃったの?」
「っ、く……っ、くそっ!」
匠の全身が小刻みに震え、額からは冷や汗が滲み、今までの怒りと決意が一瞬で溶けて崩れていく。
「君の拳は軽いね。そんな腕じゃ、遙を守る事なんて到底無理な話だよ」
「……っ、黙れ……クソキザヤローっ……!!」
声を振り絞る匠。力は朔の手に完全に封じられ、指先すら動かせない。
「……ねぇ、匠くん」
朔の声が高く、甘く沈む。
「君、喧嘩した事無いでしょ。素人のパンチ過ぎて草も生えないね」
「うっ……!」
「まぁそれは置いといて。やっぱり……本当に遙に相応しいのは君じゃなくて僕なんだよ……」
「っ……!!」
言葉の刃が心の奥に深く突き刺さり、琥珀の目から遂に涙が溢れ落ちる。
「あぁ……その顔……」
朔はゆっくりと匠の拳を放すと、その頬に指を滑らせた。
「最高に情けないね。もはや主人公の器じゃないよ」
「……っ……あ……っ……」
完全に力を失い、よろめく匠。
「あら? これは傑作だわ♡」
後ろでアリスが小さく呟く。その瞳には冷酷な光が走り、僅かに匠を嘲笑するような色も見えた。
静寂と、砕け散った匠の心。その緊張が部屋中に張り詰める。
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