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交渉(こうしょう)
「……ねぇ、匠くん」
崩れ落ちそうな匠を見下ろしながら、朔はゆっくりと身を屈めた。細い指が匠の顎に触れ、無理やり顔を上げさせる。
「君、随分と弱いんだね。殴りに来るって言うから、てっきり凄く強いのかと思って身構えてたけど……全然。どうやら杞憂で終わったね」
「……っ、く……くそっ……!」
琥珀の目には涙が滲み、唇は震えて言葉にならない。
「あ、そうそう……」
朔は指先で匠の濡れた頬を優しくなぞる。
「何か、頑張って色々終わらせるつもりで来たんだよね? だったら……簡単に全てを終わらせる方法があるよ」
「えっ……?」
「ふふっ、単刀直入に言うよ。……遙と、別れてくれる?」
その一言は、匠の鼓膜を鋭く突き刺した。
「……っ、な、何……言って……」
「おや? 別に難しい事じゃないよね?」
朔の声は高く、甘くて耳に溶け込む。
「君が遙と別れてくれれば、僕は君に嫌がらせをする必要はなくなるし、遙にもちょっかいをかける事もなくなる……」
匠の肩が大きく震える。
「……そ、そんなの……」
「考えてごらん、匠くん。君さえ居なくなれば、遙は自由になる。君も、もう泣かなくて済む。怖い思いも、苦しい思いも、もうしなくて良いんだよ?」
「っ……!」
「それに……本当は君も分かってるんでしょ? 何度でも言うね……遙には、僕の方が相応しいって」
「……っ、や、めろ……」
「そうすれば、全部終わる。馬鹿でも出来る、簡単な選択だと思わないかい?」
淡々と優雅に、朔は微笑みを崩さない。匠の喉からは押し殺したような声が漏れる。
「……や、だ……」
「……え?」
「……絶対……嫌だ……っ」
小さく、けれど確かに揺るがない声。
「ふふっ……我儘だね……」
灰色の瞳が細まり、底知れない狂気がキラリと瞬く。
「……なら、まだまだ僕の『劇』は終わらないし、終わらせられないね」
朔はゆっくりと姿勢を戻し、細い指先で無造作に紫色の髪をかき上げる。その仕草は何処までも優雅で美しい。
「そうだ、どうしても別れないって言うなら……」
朔の瞳が再度細くなり、狂気を孕んだ笑みがその口元に浮かぶ。
「もう、遙を殺すしかないかな……」
「……はぁっ……!?」
空気が、まるで氷のように張り詰める。
「それでもいい?」
静かに、しかし確実に匠の心臓を締め上げるような声と言葉。
「うそ……だろ……?」
匠の顔は真っ青になり、膝が震え始める。
「……いや? 僕は本気だよ。遙が居なくなるのは凄く悲しいけど……それ以上に君を絶望の底に落とせるよね……」
「……っ、やだ……っ……やめろっ!」
「だって君は、僕を苦しめてる張本人なんだよ? 君さえ居なければ僕はもう、今頃とっくに遙と幸せになっていたのに……」
「やめろっ……くそ、黙れ……っ!!」
「だから、選んで? 遙と別れるか、遙を殺すか」
朔は更に一歩近づき、匠の茶色の髪をそっと撫でる。
「……頭の悪い君でも分かるよね? 今、二者択一を迫られているって事」
「う、あ……」
匠の目から大粒の涙が零れ落ち、喉の奥からは必死に押し殺した嗚咽が漏れる。
「ふふっ、いい表情だね」
朔の微笑みは、あまりにも残酷で、優雅で、美しかった。
「はぁ~~~〜~……」
突然、部屋の空気を切り裂くようにアリスが大きく溜め息をついた。両サイドに結われた金色の長い髪の毛を指でクルクルしながら、ゆっくりと二人に近づく。
「……ったく、見てらんないし聞いてらんないわね」
朔が僅かに眉を動かし、アリスに視線を向ける。
「おや? ようやく観客が反応したようだね」
「観客? ウフフ♡ 冗談は、その腐った性根だけにしてくれる?」
アリスの声が冷たく透き通り、唇の端には薄い笑みを浮かべている。真紅色の瞳は氷のように鋭く、殺意すら感じる。
「アンタさぁ、一体何なの? いい大人が昔の色恋沙汰持ち出して、うちの可愛いネコちゃん泣かせて追い詰めて……クソつまんない劇の三流役者なの?」
朔の笑みが一瞬だけ消える。
「すっごく滑稽、下らないわね」
アリスは匠の震える肩に手を置く。
「……匠」
「……っ、っ……くそ……」
「良く見なさい。アンタが今戦ってる相手は誰?」
アリスはわざと大袈裟に朔を指差し、そして高らかに笑う。
「コイツがアンタを追い詰める敵よ。別れさせようとしたり、遙を殺すって脅してくる、最低のストーカーね。自分だって弱いくせに、強いフリして人の心を弄ぶ……そんなクズに負けるワケ?」
「……で、でもっ……!!」
「アンタ、遙に何度も抱かれて、何度も泣かされて。それでも離れなかったんでしょ?……今さら何を迷う事があんのよ」
琥珀色の目が小さく揺れ、震える唇が微かに動く。
「アンタが守りたいのは、あの狂ったドS変態鬼畜絶倫モンスターなんでしょ? だったら泣いてないで、さっさと立ちなさい。胸張って、戦いなさいよ!」
「……っ……ちくしょう……っ、根性論かよ……」
「アンタがどうしても無理、怖い、帰りたいって言って尻尾を巻いて逃げるなら、アタシが今ここであのクソをぶっ殺してあげてもいいわよ?♡ ……でも、それじゃつまらないわよね?」
アリスの声は冷たく、それでいて限りなく真剣だった。
「……決めなさい、匠。今、ここで」
アリスの手が肩に置かれたまま全身を震わせる。涙が頬を伝う中、匠の目に一瞬だけ迷いの光が浮かんだ。だが、すぐに静かに灯る決意の炎が戻り始めた。胸の奥で何かが渦巻く。
「……俺……っ……」
拳をギュッと握り締め、震える膝を支え、踏ん張る。息が詰まり、胸が焼けるほど熱い。
(……もう逃げねぇって決めたじゃねぇか……俺は、俺自身で決着をつける!!)
「俺は……遙が好きだ!!」
叫び声が部屋中に響き渡る。
「お前がワケ分かんねぇ事言ってきても、変な写真送ってきても、どんだけキモい脅ししてきても……俺は絶対に、アイツと別れねぇ!!!!」
涙と汗が混じった顔は酷く、グチャグチャ。それでも、その眼差しは真っ直ぐで真剣そのもの。
「殺す? ふざけんなよ……遙は、そんな脅しでビビる男じゃねぇし、その前に俺が守る! 俺は遙と……生きていくんだよ!!」
アリスが、それを聞いて満足げに微笑む。
「……いいじゃない、そうでなくっちゃね♡」
朔の薄い唇が僅かに開き、表情が一瞬だけ歪む。冷たく張り付いていた余裕の仮面に初めてヒビが走った。
「へぇ……やっぱり面白いね、君」
朔の声は先程よりも少し低くなり、微かに震えていた。匠は、もう一度大きく息を吸うと目の前の朔を真っ直ぐに睨み据える。
「お前みてぇな奴に……遙は渡さねぇ、返さねぇ!!」
怒号の後、拳を握る音が静寂の中で鳴った。匠の魂の叫びがまだ空気に残る中、朔は視線を伏せ、静かに溜め息を一つ。
「……交渉、決裂だね」
その声は冷たく、何処か虚ろ。まるで劇の幕引きを告げる役者のよう。
「何か、飽きちゃった」
口角を吊り上げ尚も笑顔を保つ。しかし、その視線は見るものを凍てつかせるほどの冷たさ。
「別れない、守る、生きていく、渡さない、返さない……か。随分と欲張りだね。そんな力無いくせにさ……」
ゆっくりと一歩、後ろへ下がる朔。
「もう……話にならないよ。君は僕の思った以上に愚かで馬鹿な子だった」
「っ……!!」
匠の胸の奥がズキリと痛む。でも、もう下を向かない。朔は一度だけ匠に視線を戻し、その琥珀の目を静かに見つめた。
「僕は、一足先に舞台から降りるよ……」
そう言うと朔はふわりと微笑み、玄関へと向かう。
「……また、会えるといいね」
吐き捨てるように呟き、背を向けた朔。その小さな背中には哀しみとも憎しみともつかない、奇妙な感情が滲んでいた。匠は震える拳を下ろし、まだ高鳴る鼓動を必死に抑える。後ろで見ていたアリスが小さく拍手を打ち、挑発的に笑った。
「……やっと終わったわね、主演男優さん♡」
踵を返した朔が扉の前で、ふと立ち止まる。ゆっくりと振り返り、もう一度だけ匠を見下ろすように視線を落とす。その灰色の瞳には既に温度は無く、底知れない虚無と狂気に塗れていた。
「あ、そうそう」
静かに口を開き、朔はまるで独り言のように呟く。
「最後に一つだけ」
匠の背筋がピクリと揺れる。
「……遙は、僕の手で必ず殺すよ」
「えっ……」
一瞬にして匠の顔色が血の気を失い、目を大きく見開く。
「あぁ……恨まないでね。これは君が選んだ悲劇なんだから」
柔らかい笑みを浮かべるその顔は、あまりにも冷たく、美しく、まさに壊れた人形のようだった。
「じゃあね……匠くん」
手をヒラリと振る仕草は最後まで優雅。朔の姿は音も無く、扉の向こうへと消えていった。
「……はっ……はぁ……っ」
崩れるように、その場に座り込む匠。呼吸が荒く、胸の奥が灼けるような痛みに襲われた。アリスが小さく舌打ちをする。
「最後まで最低最悪ね、あの男」
しかし、今の匠の耳には何も届かない。頭の中ではさっきの朔の言葉が反響するばかり。
(……遙が、殺される……!?)
その言葉だけが何度も何度も響き続けていた。
いつの間にか日は傾き、夕暮れ時の匠のバイト先のカフェ。
「あれ? あの二人、今日シフト入ってたよね?」
バックヤードで萌は腕組みをしながら首を傾げる。レジに戻ろうとするも、カウンターから顔を出して辺りをキョロキョロ。
「おーい、匠くーん? アリスちゃーん? ……居ないじゃーん!!」
パタパタと駆け寄ってきた後輩スタッフに「藤宮さんと有栖川さん、まだですか?」と聞かれ、萌は大きく頬を膨らませた。
「ぷんすか!!」
大袈裟に両腕を振り回して、後輩を驚かせる。
「ねぇ聞いて! 今日、匠くんとアリスちゃん、無断欠勤だよ!? あの二人に限ってそんな事ある? いや、あるかもしれないけど!!」
後輩はオロオロとしながら首を傾げてみせる。
「で・も!! いつもはちゃんと連絡してくれる子たちじゃーん!? 特に匠くん! ああ見えて実は超真面目だからさぁ!!」
「そ、そうですね……?」
「アリスちゃんもさぁ、『面倒ね……』とか言いながらも、ちゃんと連絡はしてくれるのに……!!」
頬を膨らませながら、萌はスマホを引っ掴む。
「これは先輩として見過ごせない!! 尊い推しの平和は、私が守るの!!」
「ちょっと何言ってるのか全然分からない……」
「もうっ! 何で分かんないの!!」
スタスタと行ったり来たりしてはスマホに文字を打ち込み、何度もメッセージを送る。
「匠くん、何処ー!? 無事!? アリスちゃんも既読つけてよー!! もー!! ぷんすか!!」
(……二人とも、次の出勤の時、嫌になるくらい問い詰めるからね……)
「すみませーん」
「はーい!」
客の呼ぶ声に振り返ると、すぐに笑顔を浮かべて「お待たせ致しましたー!」と元気に戻る萌。しかし、その内心はずっと心配と不安でいっぱいだった。
同時刻、街を柔らかいオレンジが包む頃。
「……さて、たまには匠の可愛い仕事姿でも見るか」
遙は時計を確認すると、ゆっくりと歩き始めた。シワ一つ無いスーツ、腰まで届く長い銀の髪が絹のようにサラサラと揺れ、道行く人が思わず目を奪われるほど。しかし同時に、近寄り難い空気を纏う。
(……バイトなどしなくても俺が養うと言ったが、やはりあいつも男だ……プライドがあるんだろう。そこは尊重してやらんとな……)
そんな思考を抱えながら、遙は匠のバイト先前に到着した。
「……?」
ふと店内に目を遣る。
(……居ない)
いつもなら笑顔で働く匠の姿がすぐ目に飛び込むはずだった。だが、ガラス越しに幾ら探しても、あの茶髪の小柄な背中は見当たらない。違和感を覚えながら店内へ入ると、カウンターの奥で頬を膨らませる萌が居た。
「こんにちは」
「……あ、遙さんっ! こんにちは!」
萌はギョッとした表情で振り返り、手に持っていたトレイを落としそうになる。
「……匠は?」
静かに、けれど重みを帯びた低声。
「えっ、えっと、その……」
萌は口篭り、必死に言葉を探す。
「今日、実はまだ来てなくて……それに、連絡も取れなくて……」
「……」
一拍の沈黙。遙の瞳から瞬間的に熱が失われる。そしてすぐに氷のように冷たく、底無しの青灰色に変わる。
「……そうか」
低く呟くと、遙はゆっくりと踵を返した。周囲の空気が一気に張り詰め、萌はその気迫に思わず息を呑む。
「ま、待ってください! 何かあったんですか……!?」
「……心配するな」
遙は振り返り、微かに笑みを浮かべる。しかし、その微笑みは何処か冷たく、恐ろしかった。
「直ぐに連れ帰る」
その言葉を最後に、遙は店を出た。
(匠、一体何処へ行った……。俺を心労で殺す気か……?)
指先が微かに震える。匠が居ない、その事実だけで思考は切り替わった。
(……必ず探し出して、連れ帰る)
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