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決裂(けつれつ)
外に出ると遙は胸ポケットからおもむろにスマートフォンを取り出しGPSアプリを起動する。指先の動きは滑らか。
【位置情報 更新中】
【藤宮 匠 現在地取得】
青白い光が遙の横顔を照らす。僅かに細まった目元がよく見える。
「……匠」
低く落とした声は甘さより重さの方が勝っていた。表示された赤いピンが、市街地から少し外れた住宅地の一点に止まっている。冷たい空気を静かに吸い込み、吐息を零す。笑いとも溜め息ともつかない音。
「……何故お前がそんな所に居る」
淡々とした独り言。怒りなのか呆れなのか自分でも判断がつかない。再び画面を見る、そこは紛れも無く知っている場所。匠の位置は依然止まったまま。遙はスマートフォンをポケットへ戻し、歩き出す。足取りはゆっくり、表情は平然。だが、遙に纏う空気が何処か異質だった。
夜の住宅街へと歩みを進める。
銀の長髪を街灯の下で静かに揺らして。
迷いは一切無く、ただ一点へ向かっている。
待ち構えていたかのように小綺麗なエントランスが視界に入ってきた。上を見上げると、明かりの灯った窓で建物全体が煌びやかに装飾されている。この高層マンションの住人はそれなりに多いようだ。
「……」
エントランス前の自動ドアで立ち尽くす遙。中に入る手段を持ち合わせていない。胸の奥で熱く燃える怒りの感情。
(面倒だ……どうする? 管理会社に連絡か……?)
前髪が風で揺れ、鋭い青灰色の瞳が覗く。
その時。
「ふふっ……やっぱり来たね、遙」
黒い影が現れ、闇に馴染むように立つ男。
「……朔」
遙の声は低く抑えられ、その奥には底無しの怒気が滲んでいた。
「何度目かな……こうして会うのは」
朔が小さく笑い、優雅に歩み寄る。革靴の音が静かな夜道に不気味なリズムを刻む。
「久しぶりに会えて嬉しいよ……」
「……俺は全く嬉しくない。今度は何をした」
「君はいつもそうだね。執着して、縛り付けて、壊れるまで弄ぶ……」
朔の白く細い指が、遙の胸板へと伸びる。しかし遙はそれを即座に払い除けた。
「……気安く触るな」
「ふふっ」
灰色の瞳が細くなり、狂気の光が灯る。
「すっかり嫌われちゃったなぁ……。僕に一方的にフラれて、拗ねちゃった? 昔は、あんなに甘えんぼさんだったのにさ……」
「……お前と過ごした時間など忘れた」
冷たく静かに吐き捨てる。その青灰色の瞳には、これ以上ないほどの冷酷な光が宿っていた。
「……そう? なら、また思い出させてあげようか?」
朔の高い声は甘美な音。しかし言葉の裏には、何とも形容し難い複雑な感情が潜んでいる。遙は一歩、前に出た。
「お前が何を企もうと無駄だ。構って欲しいのか何なのかは知らないが目障りだ、他を当たれ」
「っ……」
朔の微笑が僅かに歪む。二人の間には、言葉では表せない空気が流れる。少しの沈黙の後、遙が大きな溜め息をついた。
「ねぇ、遙」
朔は静かに笑い、ゆっくりと髪をかき上げると、憐れみとも欲望ともつかない眼差しで遙を見つめる。
「僕と交渉しない?」
その声に、遙の目が更に鋭くなった。
「……何だと?」
「君に、選択肢をあげる」
朔は近づき手を添え、耳元で甘く囁いた。
「①、僕と復縁する。昔みたいに、君が僕だけを見て、僕だけに愛を囁いてくれるなら……全て許すよ」
冷ややかに眉を動かす遙を無視して朔は続ける。
「②、一夜限りでいいから僕を抱く。もう一度だけ、あの夜みたいに僕を愛して」
朔の指先が銀髪に触れようとするが、再び遙は振り払う。
「③、どちらも選ばなかった場合、君は死ぬ」
朔の声が一瞬で低く下がった。青灰の瞳が揺れ、空気が鈍く沈む。
「ほう……なら俺は死ぬ事になるのか」
「……君なら理解出来るよね? 僕は本気だって」
遙は静かに目を閉じ、拳をゆっくりと握り締める。
「よく考えてよ。復縁か、一夜限りか、自分の死か。ねぇ、どれがいい?」
朔は楽しそうに、まるで夕飯の献立を聞くように問い掛けてきた。
「さぁ、選んで……遙」
その声は優しいが、奈落の底に引き摺り込むような冷酷さを帯びていた。
「……っ……う……あ……っ」
上層階の角部屋の一室で匠は泣き崩れていた。頬を伝う涙は止まらず、震える指先は何度も床を掴むが身体は硬直し、もう立ち上がる気力も無い。
(……俺のせいで……遙が……っ!!)
胸の奥を抉るような痛みに、呼吸さえ浅くなる。
「……ったく、ホントにもう……」
アリスは溜め息を吐き、金色の髪の毛先を指で巻きながら呟く。
「何してんのよ、アンタ」
匠は顔を上げられず、嗚咽を繰り返すだけ。
「……来たわよ」
「えっ……」
「気配がするわ。あの変態のね」
「っ……!!」
いつもの甘ったるさは無く、鋭くて冷たい声が確実に匠の胸を刺す。
「泣いてる場合? 早く行きなさい。今度はアンタがあのモンスターを守るんじゃなかったの?」
「……でっ……でも……っ……俺……」
「……いい加減にしなさいっ!!」
その一喝に、匠の身体がビクリと跳ねる。
「……遙はアンタに全部を預けてんのよ、多分ね。それなのに当の本人は泣いてるだけ? 指咥えて見てるだけ?」
「っ……」
「ふざけんじゃないわよっ!!」
アリスの声が弾けるように響き、部屋に一瞬静寂が落ちる。細く小さな手は匠の顎を強く掴む。視界は歪んだまま、上を向かされた琥珀の目は、真紅色の瞳を見つめる。
「……立ちなさい。どうしても動かないなら、アタシがアンタを今ここで殺しちゃうわよ……」
「……っ……俺は……女は殴らねぇ……っ!!」
「……そういうの、今は要らないわ。……遙を守りたいんでしょ? なら、行動しなさい」
涙で濡れた頬、震える膝。今の自分がどうしようもなく惨めで情けないと思う匠だったが、それでも、再び闘志に火がついた。震える手を床について身体を支え、大きく息を吸い込む。
(そうだ……守るんだ。俺が、遙を……!)
「……くそ……っ……くそおぉぉぉっ!!」
短い叫びと共に、匠は立ち上がった。それを見たアリスが小さく笑い、ポンッと背中を押す。
「……それでいいわ、それでこそ主演男優よ♡」
朔の狂気を帯びた声が鼓膜にこびり付いている。遙は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。端正な顔に翳りが見える。
「……断る」
腹の底から響く低声。それは空気を震わせるほどの圧を纏っていた。朔の表情が思わず固まる。
「……え?」
「……何が交渉だ。脅迫の間違いだろう」
鋭い青灰色の瞳が朔を真っ直ぐ射抜く。そこには微塵の迷いや恐れなど無い。
「……遙……」
「復縁、一夜限り……冗談でも口にするな、汚らわしい。俺を殺したければ殺せ。尤も……お前にそんな事が出来るとは思えんが」
遙の声が更に低くなり、背後の空気が黒く染まるような気配を放つ。
「俺には匠だけだ。それ以外は不要。お前など……本来なら視界にも入れたくない」
朔の唇が震え、指先を僅かに動かす。
「あぁ……遙……やっぱり君も……」
「選択肢など、最初からあって無かったようなものだ」
遙は再度一歩、強く地面を踏み締める。
「お前が提示してきたもの全て、お前の願望ではないか」
その声は張り詰めた刃のように鋭利で冷たい。
「兎に角、お前が何を言おうと、何をしようと……無駄だ」
朔の瞳が驚愕か恐怖か分からない色に染まり、揺れる。
「……っ……愚かで、馬鹿な男だね……」
か細い声を漏らした朔。その瞬間、エントランスが開き、此方に駆ける足音と、遙にとって聞き慣れた、愛しい恋人の叫び声が聞こえる。
「遙っ……!!」
駆け寄ろうとする匠。しかし、遙がそれを制止した。
「……来るな」
その声はあまりにも低く、思わず匠の足が止まる。心臓が抉られるように痛み、呼吸が詰まった。
「っ……!!」
琥珀の目に溜まっていた涙が頬を伝い、硬直した身体が震えだす。
「ウフフ♡」
アリスはその制止を無視し、細い指で可愛い小さなポーチの中をそっと探りながら、軽い足取りで遙へと近づいた。
「……舞台の幕引きには、是非参加しなくっちゃね♡」
「どうでも良いが、何故お前まで此処に居る」
「えー? ナイショ♡」
「ふっ……あはは……あははははっ」
突然、朔が狂ったように大声で笑い出した。そしてすぐにいつもの穏やかな微笑を浮かべ、全身から冷たい殺意を放つ。
「もういいよ、君達の下らない茶番に付き合うのはもうウンザリだ……」
灰色の瞳が遙だけを捉える。
「遙……僕を選ばなかった事を後悔させてあげる。必ず……必ず僕がこの手で君を殺すからね……」
そう囁くや否や、朔は背を向け闇に消えていった。
「……そうか……」
青灰色の瞳が一瞬、見開かれる。匠は凍えたように震え、アリスが朔の歩いて行った方向へと鋭い視線を走らせる。緊迫した空気の中、路上には遙と匠、そしてアリスだけが残された。何処からか、再び暗くて深い嘲笑の声が響いてきそうな予感。
「うっ、うぅっ……」
匠はその場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと視線を落とす。肩は震え、嗚咽が止まらない。
(……俺……また……守れなかった……何の役にも立たなかった……)
胸の奥がギュッと締め付けられ痛い。足元に落ちた涙の雫が地面を弾く。
「っ……うっ……」
項垂れるその背中はあまりにも小さく、とても弱々しかった。
「……下衆な奴だ」
遙は鬼気迫る表情で吐き捨てた。白い指の関節が浮かび上がるほど、拳を強く握り締める。大きく息を吐き、怒りに肩を震わせる遙の姿は、正に鬼のようだった。
「……さーてと♡」
アリスは静かにブーツの靴底を鳴らし、左右をキョロキョロと見渡す。その表情には一切の油断が無い。
「……あの氷の王子様、もう居ないみたいね。気配を感じないわ」
赤い瞳から鋭さが消え、軽く舌先を出して笑ってみせる。三人を包んでいた重い静寂が、ほんの少し軽くなった。
「……はぁ。つっかれたぁ……」
アリスは小さく息を吐き、視線を胸元のリボンへと巡らせる。
「ねぇ、もう帰らない? アタシお腹ペコペコなの」
普段と変わらない、甘ったるい声に気怠げで挑発的な口調に戻ったアリス。
「っ……」
放心したように項垂れたまま、動けずにいる匠へと静かに歩み寄る遙。
「……匠」
恋人の名を、低く優しく呼ぶ。匠がゆっくりと顔を上げる。
「あっ……」
遙の両腕が、その小さな身体をしっかりと包み込んだ。
「……もう、大丈夫だ」
その声は微かに震えていて、静かで、底無しの愛情に満ちていた。匠の細い肩が揺れ、ずっと張り詰めていた感情が一気に崩れる。
「……っ、う……あ……っ……!!」
遙の広い胸に顔を埋め、またも嗚咽を漏らす匠。後頭部に優しく手を添え、遙は強く抱き締める。
「……お前は、俺が守ると言っただろう。何故一人でこんな所に来た。隠し事をするなと言った筈だ。……全く、帰ったら説教と仕置きだな……」
「ごめ……っ、ごめんなさ……っ……!!」
アリスはそんな二人を見つめ、わざとらしく手を叩きながら小さく笑った。
「ハイハイ、感動の再会劇ね。でも、早く帰りましょう?」
路上に温かい空気と冷たい緊張が同時に流れる。
「……良し、帰るぞ」
遙は匠を抱え、ゆっくりと歩き出す。匠の身体はまだ震えていたが、その腕の中で呼吸が段々と落ち着いていく。
「っ、あ……お、降ろせよ……」
恥じらい、小さく抵抗する声が上がるが遙は一切聞く耳を持たない。
「駄目だ」
その一言は短く、あまりにも揺るぎない。匠は顔を赤らめ、照れ隠しに遙の黒いネクタイをギュッと掴む。
「……ば、バカ……」
アリスはブーツをコツコツと鳴らしながら、後ろで退屈そうに歩いている。
「しっかしクソみたいな温度差ね♡ 前のバカップルがお姫様抱っこでイチャイチャしてて、後ろではまだ警戒を解いてない無敵の女王様が護衛。遙、やっぱりアンタ、なーんかムカつくから、氷の王子様に殺して貰ったらどう?」
遙は一瞬だけ小さく笑い、前を向いたまま呟く。
「……そうだな」
「ウフフ♡」
冷えた夜風が三人の肌を撫でる。それでも匠の頬は熱いままだった。
「……くそ、ハズいっての……」
小さく不満を漏らす匠の耳元に、遙の甘い低音の声が落ちる。
「……無断欠勤する悪い子は、大人しくしていろ」
「うっ……」
思わず黙り込み、俯く。胸の奥がじんわりと熱くなり、呼吸が詰まる。
(遙……)
背後でアリスが軽く伸びをしながら、夜空を見上げる。
「……さ、早く帰るわよ♡ それにしても匠、今夜はちゃんと寝かせて貰えるかしらねぇ?」
「なっ……!!」
「ふふ……」
悪戯に笑うアリスの言葉を、遙の腕の中で聞いていた匠は震えながらも、その温もりに身を預けていた。
「……ただいま」
蚊の鳴くような声で匠が呟き、遙は玄関を閉める。家の中は静かで、まるで嵐の後のように空気が重く感じられた。匠はふらつく足取りでリビングのソファへと向かうと、そのまま膝を抱えギュッと小さく身体を丸めた。
「……っ……」
肩が微かに震えている。熱い呼吸が漏れ、頬にはまだ乾ききらない涙の跡。遙はスーツを脱ぎ、その様子を見つめていた。一歩近づこうとしたが、更に身を縮める匠を見て足を止める。
「……匠」
呼び掛ける声に匠はビクリと反応。しかし顔は上げず、ただ膝に額を押し当てる。
「……俺、もう……やだ。どうしたらいいか、分かんねぇよ……」
掠れた声。リビングの灯りが慰めるように優しく匠の髪を照らすが、その不安は止まらない。
「……怖いんだよ……遙が奪われるのも……居なくなるのも……全部……全部怖い、嫌だ……っ」
弱々しく吐き出す言葉に、遙の心が痛むほど締め付けられる。
(……全部、俺のせいだ……俺が、弱ぇから……っ)
止めた足を動かし一歩、また一歩と近づき、そっと匠の頭に手を置く。
「……お前がどうしたら良いかなんて、分からなくて良い……」
ゆっくりと、優しく撫でる。
「……お前は此処に居ろ。俺の隣に、一生」
「……っ……で、でも……っ」
「もう……全部俺が何とかする。お前は何もするな。……お前は俺の腕の中に居れば、それで良い」
低く柔らかい音。それはいつもの支配者の声ではなく、匠だけが知る深い優しさに満ちた声。匠は小さく嗚咽を漏らし、怯えた小動物のように遙の逞しい胸板に顔を押し当てた。
「っ、う……ひぅ……っ……!」
遙はその背を抱き締め、何度も何度も茶色の髪を撫で続ける。リビングの静けさの中、二人の呼吸だけがゆっくりと重なっていった。
匠の震えが少し収まると遙はそっとその身体を抱き上げ寝室のベッドへと運ぶ。柔らかい寝具に匠を横たえ視線を合わせる。その琥珀色の目は不安げに揺れていた。
「……大丈夫だ、俺は何処へも行かない。安心して寝ろ。何かあったら直ぐに呼べ。……良いな?」
そう囁き、弱々しく頷く匠の髪を撫でてから寝室を後にする。リビングに戻ると遙にとって招かれざる客が居た。
「ハロー♡」
音も無く、まるで影のようにアリスが立っていた。腰に手を当て、可愛らしい笑みを浮かべている。
「……堂々と不法侵入か」
遙の抑揚の無い低声。しかしアリスは特に気にせず、その言葉を聞いて愉快そうに肩を揺らす。
「ウフフ♡ 相変わらず、ベッタベタに甘やかしてるわねぇ♡」
深い溜め息を吐き、鋭い視線をアリスに向ける。
「……今日、何があった」
静かながらも有無を言わせぬ圧。アリスは小さく口角を上げ、首を傾げ、わざとらしく人差し指を唇に当てて考える素振りをする。
「んーと、そうねぇ……。ツンデレ茶トラ猫が氷の王子様にシャーシャーしたけど無視されて、氷の王子様の方はツンデレ茶トラ猫に躾しようとしたけど言う事聞かなくて、お互い拗ねちゃった♡」
「……?」
「でも結局あの子……ちゃんと立ち上がったわ。泣いて、怯えて、でも最後には『クソー』とか騒いで、頑張ってたわよ」
真紅の瞳が細められ、揶揄するように笑う。
「アンタ、本当に幸せ者よねぇ。あんだけ好かれて。普通ならアンタみたいな男、絶対ムリだもの。良いのは顔だけ、中身は気持ち悪いったらないわ。どんなにお金積まれても、絶対に嫌♡」
青灰の瞳が微かに揺れる。
「……何故匠はあんな所に一人で行ったんだ。また何か、おかしな画像か動画を送られて、遂に堪忍袋の緒が切れたか……? いや、だとしても俺に言って欲しかった……。それと、まだ色々と終わっていない」
「そんな事アタシに聞かれても知らないわよ。んー、でも、そうね、まだ終わってない。あの氷の王子様はもう壊れちゃったし? 俗に言う『ヤンデレ』に進化しちゃったわ♡」
アリスは舌先をチラッと覗かせ、軽く肩を竦める。
「……覚悟しておきなさい。あの男、本気でアンタを殺す気よ」
遙はゆっくりと視線を落とし、拳を力強く握る。
「……殺られる前に殺るしかないのか……?」
低く問い掛けるその声は、恐ろしく冷静だった。
「匠を守る為なら……やむを得ない……」
アリスの口元に再び不敵な笑み。
「フーン。……その意気よ、遙♡」
重く張り詰めた空気の中、アリスは遙の前でフワリとスカートを揺らし、妖しく微笑んだ。
「……それにしても♡」
遙の鋭い視線を受けながら、アリスは全く気にする素振りも見せず、わざとらしく溜め息を一つ。
「少しは匠を休ませなさいよ? タダでさえ今日はヘトヘトなんだから。……性欲を持て余してるんでしょうけど……ま、ニャンニャンもホドホドにね♡」
無言のままアリスを睨みつける。しかしその目の前の少女(のような風貌の彼)は怯みもせず軽快に指を鳴らし、またクスッと笑った。
「……ま、アンタはどうせ聞かないでしょうけど♡」
赤い瞳を妖しく光らせ、アリスは闇に溶け入るように窓辺に立ち、そのまま姿を消した。
「……」
自分の中で渦巻く感情が鋭い棘のように無数に突き刺さる。遙は小さく息を吐き、寝室へと視線を向ける。
(……さて、これからどうするか……)
恐怖に濡れた琥珀の目、震える肩。自分の為に必死になって戦ってくれた恋人の存在。
(……もう、出来れば泣かせたくはない。ベッドの上以外では……絶対に)
遙はソファに腰を下ろし額に手を当てる。銀の前髪が流れ、静かな呼吸の中に殺気がじわじわと滲んでいき、細まった青灰色の瞳が冷たい光を湛える。
(……匠をこの手で守り通す。俺のやるべき事は、唯それだけだ)
決意を固めるその横顔は美しくも、凍てつくような冷笑が浮かんでいた。
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