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余燼(よじん)
灰色に霞む空。足元は何処までも沈むような暗闇で身体は思うように動かない。辺りを見渡すと視界の先に遙の背中が見えた。その付近で流れる青い川。
「は……遙っ!!」
駆け寄ろうと足を踏み出すが重く、足首を掴まれ引き摺られるような感覚。前身する事が出来ず、眼前では遙と朔が手を取り合って並んでいる。
「な……何してんだよ……っ!?」
喉が痛くなるくらい叫んでみたが二人の反応は薄い。やがて、遙がゆっくりと此方に顔を向けた。青灰色の瞳が匠を遠慮がちに捉える。
「匠……済まない。俺と朔は、やはり復縁する事にした……」
「えっ……や、やだ……何で……? う……嘘だよな……?」
遙の表情は暗く翳り、対照的に朔の口元は明るく緩む。
「お前とは別れる事になってしまうが……分かってくれ。俺もまだ若い、死にたくは無いんだ……」
「や、やだ……やだよぉ……っ!!」
必死に声を上げる匠の前で、遙が静かに目を伏せる。
「……ごめんね、匠くん」
その隣で、朔が嬉しそうに微笑む。
「結果的にこうはなってしまったけど……僕は匠くんと仲良くしたいな。だから、お友達になろう? そしたらまた、遙とも会えるし……。どう? 名案じゃない?」
「……成程。賢いな、朔」
「えへへ、でしょ? ねぇ、遙……キスして……」
そして唐突に、二人の唇が深く重なった。舌を覗かせ、濃厚な接吻。
「っ……!!!!」
心臓がぐしゃりと音を立てて潰れてしまうような光景。身体は冷たい絶望で凍りつく。
「やだ……やだ……やだ……!! もうやめろ……やめろよぉ……っ!!」
「……っ……はっ!!」
匠は息を荒げて飛び起きた。喉は痛く、胸が張り裂けそう。
「……はっ……はぁ……っ」
琥珀の目には、とめどなく涙が溢れていた。視界が滲み、両手がカタカタと震える。
「っ……うあ……」
布団の中で膝を抱えて涙で濡れた顔を埋め、必死に息を整えようとする。
(……夢……夢だ……でも……怖い……嫌だ……っ)
ベッドの上で一人、壊れたように泣き続ける匠。その心は深淵に取り残されていた。
寝室から漏れる途切れ途切れの嗚咽。その音に、リビングで思考を巡らせていた遙の指がピクリと動く。
「……匠……?」
すぐさま立ち上がり、無言のまま寝室の扉を押し開けると布団の中で丸くなって泣く匠の小さな背中が見え、遙はゆっくりと歩み寄る。そっとベッドに膝をつき、その震える背に優しく手を置いた。
「……どうした」
低い声に、匠の肩がビクリと跳ねる。
「……っ……う……」
匠は顔を上げられず、ただ震え泣き続ける。それを見た遙が静かに肩へと触れる。
「……大丈夫だ」
優しい声。普段の支配的な声色とはまるで違う、深い底から響くような柔らかさ。
「……此処に居る。何処へも行かない」
ふわりと抱き寄せ、茶色の髪の匂いを嗅ぐ。
「や、やだ……っ……俺……夢、夢で……っ……遙が……アイツと……っ……お、俺……捨てられて……っ、一人になったっ……!」
掠れた声で必死に言葉を繋げる匠。その言葉に、遙は一瞬だけ息を止め、匠を此方へ向かせると更に力を込めて抱き締めた。
「……馬鹿だな」
短い一言。
「お前を捨てるなど有り得ない……」
匠の震えが、少しずつ弱まっていく。
「……信じろ。お前は俺だけのものだ」
大きな手のひらが震える背を何度も撫でる。額を重ね、ただひたすらに匠を包む。
「俺が一生お前の傍に居る……」
深く、穏やかで、そして何よりも確かな温もりがそこにあった。広い背中へと、控えめに伸びる手。
「っ……はるかぁ……っ!」
悲痛な声で呼んだその名は、匠にとって誰よりも大切な存在。
「……匠」
額を重ねたまま、低く小さな声で囁く。
「少し、話せるか?」
匠は鼻を啜り、震える手で遙の白いワイシャツを掴みながら小さく頷いた。
「うっ……うん……」
青灰の瞳を細め、乱れた茶髪を指先でそっと梳く。
「改めて聞く。何故……あんな場所に一人で行った」
責める色の無い、ただ静かな問い。
「何故……俺に何も言わなかった」
匠の呼吸が、また浅くなる。
「何故……俺を頼らなかった……」
一つ一つ淡々と、しかし胸の奥に直接届くように問い掛けてくる。匠の唇は震え、喉から詰まった声。
「っ……だって……いっつも俺、遙に頼ってばっかで……」
匠の背を撫でていた手の動きが止まる。
「男のくせに情けねぇと思ってさ……。だから、今回は俺がアイツをぶん殴って、お前の事を守ってやろうと思ったんだよ……っ」
涙が頬を伝う前に、シャツを濡らす。
「……でもダメだった……。俺……クソ弱ぇから、結局遙に助けて貰って……俺って、ほんと、ザコ……」
遙は大きく溜め息を吐き、匠の頬に手を添えた。
「俺なんか……やっぱりアイツの言う通り……遙とは不釣り合いだ……っ」
「……全く、お前という奴は……」
呆れた、といったような表情を浮かべ、優しく額に口付ける。
「……俺が愛しているのは匠、お前だけだ。いい加減理解しろ。……そもそも、何が相応しくて何が相応しくないんだ? どうでも良いだろう、そんな事……」
優しく、何処までも柔らかい低声。
「……これからは何があっても俺だけを頼れ。どんな些細な事だろうと。後は……隠すな、嘘を吐くな。どうせ直ぐに分かる事を、その場しのぎで誤魔化すな」
もう一度、髪を撫でる。
「俺は……お前を守る。何でもしてやる。その為に俺は生きている」
「おっ……大袈裟だろ……」
「大袈裟などでは無い、至って本気だ。……怖いなら、それで良い。迷っても、泣いても、お前の全てを俺が受け止めてやる」
匠の目から、また一筋の涙が零れた。
「……っ……遙……」
「お前は……俺のものだ。俺も、お前のものだ。永遠にな……」
匠の震えがまた、少しずつ収まり、指先が弱く遙のシャツを掴む。
「……何か宗教ってか、普通にクセー台詞だけど……でも、嬉しい……かも……」
掠れた返事が夜の静寂に溶けた。それを聞いた遙が匠の髪を繰り返し梳く。
「……今日は、もう寝るか……」
静かで低い声。何の強要も支配もなく、ただ深い慈愛に満ちた響き。
「えっ……でも……」
不安げに顔を上げる匠に、ふわりと微笑む遙。指先で匠の唇に触れる。
「……もう良い。今日は疲れただろう」
柔らかい微笑が、暗い部屋の中で仄かに浮かぶ。
「俺も、少し疲れた。お前の匂いを嗅いで眠りたい……」
その言葉に、匠の目には恐怖ではなく安堵の光が涙とともに滲む。
「う、うん……」
控えめに頷くと、匠はそっと布団に身を沈め直した。遙も、その隣へ静かに横になる。夜の冷えた空気の中、遙の腕がしっかりと匠の身体を包む。
「……お休み、匠」
「……おやすみ……はるか……」
互いの呼吸がすぐ傍で重なり、微かに聞こえる心音が確かに存在を伝え合う。ゆっくりと匠の瞼が閉じると穏やかな寝息が聞こえてきた。安心したように、遙がそっと額へと口付けを落とす。
そして二人は、ようやく夢の世界へ。
朝。
柔らかな陽射しがカーテンの隙間から部屋を照らす。
「……ん……」
目を開け匠の視界に飛び込んでくるのは、すぐ隣で寝ている遙の寝顔。
「っ……!」
驚きと恥ずかしさで一瞬にして頬が赤く染まる。同時に、遙の穏やかな寝息を聞いていると胸の奥がじわりと温かくなっていく。
(……何か、幸せ……かも?)
昨夜、改めて確かめた温もり。今も、この腕の中にある。
「……おはよ……遙」
小さく呟く。
「……お早う」
突然、低く甘い声が返ってきた。遙は目を閉じたままゆっくりと片腕を匠の腰に回し、引き寄せる。
「うわ! まだ寝てると思ってたぜ……」
顔を赤くしながら不満のような声を漏らす匠。それを聞いた遙は目を薄く開け、青灰の瞳を覗かせた。穏やかな微笑を浮かべ匠を凝視。
「……今日は休日だな」
「そう、だけど……」
匠は小さく身を捩らせてみるが、遙の腕の力は全く緩まなかった。寧ろ更に強くなってしまった。
「……逃がさん」
短くて低い囁きの後、額にそっと口付ける。
「……や、だ……もう……っ」
恥ずかしさに抗う匠の声は、何処か嬉しそうで。小さな笑みが、その唇の端に浮かんでいた。
(まぁ……今日だけは、いっか……)
窓から差し込む朝の光が、二人の柔らかな髪を優しく照らす。
穏やかな休日の朝の始まり。胸の奥に温かい幸福がゆっくりと満ちていく。キッチンからは卵とパンが焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。ダイニングテーブルにサラダとスープ、カットフルーツが綺麗に並べられる。
「……出来たぞ」
遙は部屋着である黒いロングTシャツの袖を少し捲り、コーヒーをカップに注ぎながら匠に声を掛けた。
「あ、うん……」
匠は頷き、席に着くとフォークを持つ。しかし、フォークの先はなかなか皿に届かず、視線は何処か遠くを彷徨っていた。
「……匠」
低い声で呼び掛けられ、匠はビクリと肩を揺らす。
「……な、何……?」
「どうした、食欲が無いのか?」
その問いを否定するよう慌てて口に運ぶも何故か表情は晴れず。口の中で味わうこともなく、ただ咀嚼して飲み込むだけ。遙の視線が鋭く細められる。
「……先程までとは様子が違うな」
「な、何でもねぇよ……」
匠の声は掠れ、フォークを握る手が微かに震え出す。
「嘘を吐くな、と……昨夜確かに言った筈だが……」
遙はコーヒーカップをテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がって手を伸ばし、匠の頬に触れた。
「まさか……もう忘れたのか?」
「っ……」
匠は視線を逸らし、唇を震わせる。
「違う……忘れてない。ただ、思い出しただけ……」
小さく、喉の奥で詰まった声。
「……さく、が……お前を……っ、殺す……って……」
声に出した瞬間、心臓が抉られるように痛んだ。
「……っ……やだ……やだよ……お前が居なくなったら……俺っ……!!」
琥珀の目から、また涙が溢れそうになる。堪える為に必死に唇を噛み締め下を向いた。遙は小さく息を吐き、指先で匠の顎をそっと持ち上げる。
「……俺は死なん」
青灰色の瞳が、真っ直ぐに匠を射抜く。
「お前を守れるのは俺だけだ、死ぬ訳にはいかんだろう……」
「っ……で、でも……!」
「……信じろ」
その声は静かだが力強い。
「要らん心配をするな」
匠の喉が微かに鳴り、堪え切れなかった熱い涙が頬を伝う。
「……っ……遙……」
ゆっくりと匠の涙を長い指で拭い、頭を撫でる。
「……いいから食べろ」
その言葉に、匠は震える指でフォークを握り直した。
(怖い。でも、信じるしかないよな……)
目の前の恋人に、小さな祈りを零す。
朝食を食べ終えた頃。リビングには、何となくで点けた朝のニュースが流れている。しかし遙と匠、どちらもテレビに目を向けてはいなかった。ダイニングテーブルの上に空いた皿が並ぶ。匠は最後に食べようと残していたミニトマトをフォークで転がし、遙は静かにコーヒーを口にする。会話は無いが、その空気は冷たくはない。むしろ、そこには不思議な温もりが満ちていた。匠は、ふと視線を上げる。真正面で遙と目が合い、途端に頬が熱くなる。
「……な、何だよ……」
か細い声で言うと、遙は僅かに口元を緩めた。
「ふふ……何でも。ただ、可愛いな……と思ってな」
低くて穏やかなその声に、思わず胸がキュッと締め付けられる。匠は目を伏せ、小さく息を吐く。
(……くそ……やっぱ俺……本当に、コイツが好きだ……)
恋慕の情を胸に押し込め、気持ちを切り替えるように震える指先でマグカップを握る。遙は、そんな匠の仕草を愛らしいと思いつつ、じっと見つめていた。青灰の瞳に滲むのは独占欲と深い愛情。そして、とめどない執着。
「……匠」
「……今度は何だよ……」
「今日は外出でもするか」
「……え……」
驚き、戸惑いながら顔を上げる匠。遙はカップを置き、静かに言葉を続ける。
「たまには恋人らしく、普通のデート……なんてどうだ?」
琥珀の目が大きく揺れ、言葉を失う。
「……ふ、普通……の……?」
「お前がしたいなら、だが」
低い声で付け加えるその音には柔らかさがあった。匠はしばらく固まり、そして小さく頷いた。
「っ、うん……」
部屋を包むテレビの音は、もう二人の耳には届いていない。確かな温かさだけが、ゆっくりと広がっていった。
「……ふふっ」
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、照明の下で力無く笑う男。喉は酷く詰まっていて息が上手く吸えない。紫色の髪が控えめな電灯を受けて淡く艷めく。壁に映る影は歪み、そしてやけに大きく、まるで別の誰かのようだった。
「……やっぱり、復縁は無理だったなぁ……」
乾いた声が、誰も居ない空間に落ちる。
「でも、匠くんは思ったより弱かったなぁ……。まぁ、可愛かったけど……」
喉が鳴った。その先の言葉が、どうしても続かない。朔はテーブルの上に置かれたナイフを見つめた。何かを終わらせる為の道具。それを手に取り、布で包むと刃を何度も何度も拭く。同じ場所を、意味も無く。しかし指先は震えて上手く滑らない。
「一晩だけで、良かったんだよ……」
ポタリ。
布の上に雫が落ち、染みが出来る。それが涙だと気づくまで少し時間が掛かった。
「本当に、一晩だけ……僕を……」
声が裏返る。喉の奥が痛い。胸が辛く苦しい。
「……抱いてくれたら……それで……っ」
それ以上は、もう言葉にならなかった。視界が滲んでナイフの輪郭がぼやけていく。冷たい刃に指先が当たり、思わず息を詰める。
「……遙……」
愛しい元恋人の名前を呼んだ瞬間、感情が一気に溢れ出す。
「……どうしてっ……」
嗚咽を噛み殺そうとしたが無理だった。肩が震え、呼吸は更に乱れる。
「……僕は、一体何を……」
分からない。自分が分からなくなってしまった。
匠の事も。
遙の事も。
本当は何をしたかったのかも。
ナイフを布で包み直す。手は止まらない。磨いているのか、確かめているのか。それとも、ただ何かに縋りたいだけなのか。壁の時計がコチ、コチ、と音を立てている。その音に合わせるように朔は泣きながら、ただナイフを撫で続けていた。
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