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仮初(かりそめ)
「よし、準備完了っと」
いつものお気に入りのオレンジパーカーと灰色のスウェットパンツに身を包んだ匠は、寝室の扉を控えめに開けた。
「……これで良い?」
特にお洒落に着飾った訳でもないが、目を逸らしながら聞くと遙の瞳が一瞬にして鋭くなる。
「……却下だ」
「っ、え!? な、何でだよ!」
思わず声を上げる。しかし遙は無言のまま、ゆっくりと歩み寄る。
「……そんな薄着では風邪を引く。しっかり防寒しろ」
「は、はぁ!? 中に色々着てんだからいいだろ!」
「駄目だ……」
低く淡々とした声だが、青灰の瞳に温かい慈愛が滲む。
「お前だけの身体ではない。上着と、せめてマフラーを巻け。痕が隠れてしまうのが残念だがな……」
「っ……ば、バカ……」
顔を真っ赤にして膝を抱えるように座りこんでしまう。それを見た遙が小さく笑い、クローゼットからベージュ色のマフラーを取り出す。
「ほら……」
「わ、分かったよ……!」
手渡されたマフラーを受け取り、渋々首に巻く匠の背を見つめ無意識に口元を更に緩めた。
外へ出ると昼の穏やかな日差しが街を照らしていた。休日らしく、カフェや公園には人で溢れている。
「なぁ、どこ行くんだよ」
「行き先は……お前が決めろ」
「……は?」
驚いて思わず振り返るも遙は無表情のまま、そっと匠の手を取る。
「今日は、お前がしたい事をする日だ……」
「……!?」
(何だよ……いつもは全部勝手に決めるくせに。そういうの、反則だろ……っ)
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。唇を噛んで俯くと、耳元に低くて優しい声が落ちる。
「……だが、あまり人の多い場所は駄目だ。お前を視界に入れる人間は少ない方が良い。邪な目で見る奴が居たら殺してしまうからな……」
「お前何言ってんだよ! そんな奴居ねぇよ! つうかやめろよ、バカな事ばっかり言うのっ!」
恥ずかしさで顔を赤くしたまま無理やり手を引く。
「ったく。で、俺の行きたいとこ? じゃあ、美術館行きたい……」
「……良し」
簡潔に答える遙。それだけで、匠の胸はまたギュッと縮まった。
(マジでキモくてヤベェ奴なのに……何で、こんな安心するんだろ……)
通り過ぎる人々の視線など気にせず、男同士堂々と手を繋ぐ。匠の指先は少し汗ばんでいるが、遙は一切離そうとしない。
美術館のエントランスを抜けると、ひんやりとした空気と静かな照明が二人を迎えた。
「わ……やっぱ落ち着く……」
展示室へ足を踏み入れると、自然と顔をほころばせる匠。白い壁に並ぶ油彩画、水彩画、抽象画。様々な作品が穏やかな光に包まれている。遙は、その後ろに静かに立ち、少し距離を取って見守る。
「……これ、すげぇな……」
ふと、匠が大きな風景画の前で足を止めた。荒々しい筆致と淡い色彩の絵。
「ほう……? 何処が凄い」
背後からの低声に、振り向く事なく答える。
「……色だよ。これ、遠くから見たら優しいのに、近くで見ると、ぐちゃぐちゃで……。いや、何か、上手く言えねぇ……」
言い切れない感情を探るように視線を泳がせる匠に近づき、その横顔を見つめる。
「……自分自身を見ているようだな」
「……はぁ?」
横に来た遙をチラリと横目で見る。僅かに口角を上げ、青灰色の瞳で真っ直ぐに自分を見下ろしていた。
「お前は強がってばかりで口も態度も悪いが、本当は誰よりも臆病で……優しく繊細な男だ。……だから俺が一生、お前の傍に居てやらんとな」
「っ、ば、バッカじゃねぇの……」
小さく呟いて、耳まで真っ赤に染まった顔を見られたくないのか、またも俯いてしまった。
一通り展示を見終わると、二人は外へ出た。
「なぁ。俺、もう一個行きてぇとこある」
「……何処だ?」
「バイト先……。昨日、無断欠勤しちまったし……」
「……成程」
頷き、遙がスッとポケットからスマートフォンを取り出す。
「……ならば行くか」
「い、いいよ! 一人で行く!!」
必死に拒む匠を見て怪訝な表情を浮かべるも、すぐに緩めた。何となく理由が分かったから。
「……そうか」
(萌が騒ぐから……だな)
バイト先のカフェの裏口に着くと、息を整えて扉を開けた。
「……あ、匠くん! この不届き者めー!!」
すぐに気づいた萌。カウンターを拭いていたウエスを放り投げ、満面の笑みで駆け寄ってきた。
「……ご、ごめん。いや、昨日色々あってさ……」
「もう! 連絡無しとか心配するじゃん! アリスちゃんも居なかったんだよ~?」
頬を膨らませ怒ったフリをしながら、すぐにいつもの柔らかい笑顔になる。
「……でも、無事で良かった、本当に……」
「……ごめん」
小さく頭を下げる匠。萌は、その茶髪頭をクシャッと撫で回す。
「よーし! 許す! その代わり、今から供給して下さい!」
「供給って何だよ。ま、いいや、分かった……」
恥ずかしそうに視線を逸らす匠を見て、萌は楽しげに笑った。
「で? で? 遙さんとはどうなの?」
バックヤードにて。椅子に座り机に肘を置き、身を乗り出す勢いで早速詰め寄ってきた。
「昨日はどうだったの!? 何があったの!? 供給の為の、えっちシーンの詳細は!?」
「う、うるせぇなぁ……」
赤くなった顔を隠すように、口元を手で覆う。萌はニコニコしながら、その手をツンツンと突く。
「昨日は心配で眠れなかったんだよ!? 私の推しが今頃……お仕置きドスケベ・ザ・エッチセックスしてる!! ……とか色々考えてたら……。アッー!!」
「……っ、それ、本当に心配してんのか?」
「ムホホ♡ んで、昨日は何回? どんな顔して鳴いたの? アヘ顔? トロ顔? メス顔? 言葉責めとかされた??」
「昨日は……そういう事はしてねぇよ!!」
完全に顔を伏せ、耳まで真っ赤になっていると……。
「ウルサイわねぇ全く。それに凄く下品よ? レディの口から出る言葉とは思えないわ♡」
後ろからアリスがぴょこっと現れた。緑色のエプロンを手で軽く叩き、呆れた顔で肩を竦めてみせる。
「萌、アンタ何サボって気持ち悪い尋問してんのよ……」
「え~!? だって気になるじゃん!?」
「……気になる? 毎回パターンは同じなのに? ほら、匠を見なさい。ゲッソリしてるじゃないの。ちょっとくらい休ませなさい」
アリスは匠の肩に手を置くと、小さく微笑んだ。
「……お疲れよね? 匠?♡」
その一言には、昨日の出来事に触れる気配は全く感じられなかった。胸の奥に、ほんの少しだけ温かさが広がる。
「……あ、ありがと……」
その時。
「……終わったか?」
低く静かな声が背後から響く。振り向くと、そこには遙が立っていた。涼しげな表情で、青灰の瞳が真っ直ぐに匠だけを捉える。
「ここ、従業員専用だぞ……っ」
「流石遙さん! 私達に出来ない事を平然とやってのける! そこにシビれる憧れるぅ!!」
萌が両手で頬を覆い、テンションMAXで叫ぶ。
「やはり匠一人では心配でな。迎えに来た」
そう告げて手を差し出す。匠は戸惑いながらも、その手を取った。ギュッと握り返された手の温度に、胸の奥がまた熱くなる。
「……行くぞ」
「……ん」
低音の声に、コクンと頷いた。二人が出ていく背中を萌とアリスは並んで見送る。
「……ぐへへ、尊い……尊いねぇ♡」
「ウフフ♡ TPOを弁えて欲しいわね、あのクソカップル」
グラスを拭きつつ笑うアリスの真紅の瞳には、微かな優しさの色が浮き出ていた。
カフェを出て、まだ夕暮れには少し早い街を二人並んで歩く。
「……はぁ……」
匠は少し気恥ずかしそうに小さく息を吐く。視線はずっと下を向いている。
「萌ちゃんて、本当うるせぇよな。何言ってるか分かんねぇ時あるし。そうそう、この間なんか『匠くんは絶対オメガ! それか、Sub?』とか、マジで日本語喋ってくれってなったぜ……」
ウンザリした表情、しかし何処か楽しそうに話す。遙は微笑を浮かべて相槌を打つ。
「ふふ……それは、お前が可愛いからだろう」
「……っ、ば……バカ……違ぇよ、絶対……!」
匠の顔が、またしても一瞬で赤く染まり、ブンブンと手を振る。
「あとさ、誰が聞いてるか分かんねぇんだぞ。そういうのは……家で言ってくれよな……」
「家でも外でも言う」
即答だった。
「っ……!」
言葉を失う。遙が僅かに口元を緩めると、その小さな背中にそっと手を添えた。
「お前は……もっと俺に甘えろ」
「は、はぁ……? な……何で……」
「周りに、匠は俺のものだと教えてやる為だ」
「ばっ……バカ! そんなん無理!」
更に赤面し、固まる匠を見て、青灰の瞳には柔らかな光が宿る。
(やれやれ、まるで猫だな。手が掛かって仕方がない。だが……それが良い)
大きな手が小さな背を押す。匠は観念したように寄り添い、再び歩を進めた。
自宅に着き玄関を開けた途端、いつもの空気が二人を迎える。
「……あー、やっぱり家は落ち着くぜ……」
小さく呟き、スニーカーを脱ぎながら息をつく。遙はその様子をじっと見つめ、そっと扉を閉めた。
「……何だよ」
「……可愛いな」
「っ……またかよ……」
目を逸らし、わざと大きな足音を立てて廊下を歩く。
「お前は、ずっと俺のものだ……」
「あーもう! ……そうだよ……っ!」
顔を真っ赤にして言い返す声が室内に響く。遙が小さく笑って、その紅潮した頬を指先でそっと撫でた。
「ふふ……何か飲むか?」
「……あ、うん……」
そうして、二人はゆっくりとリビングへ向かう。ソファに並んで座ると、匠はソワソワしつつ呼吸を整える。
(色々あったけど……やっぱり、ここが一番……)
隣にいる男の存在に、今日何度目か分からない、胸の奥がじんわりと熱くなる。遙が用意してくれた温かいお茶を啜りながら、ふと視線を下げた。
(……あ、大学……)
昨日の医務室の噂、友達の言葉、周りの視線。心臓が嫌な音を立て、痛み出した。
「……遙」
ポツリと呼ぶ声に反応するように、遙がカップを置く。
「……どうした」
「……あ、あのさ……」
匠は膝の上で手を握り、視線を彷徨わせる。
「大学で……医務室の事……噂になっちまった……」
掠れた声が静かな部屋に落ちた。微かに眉を寄せるが、その青灰の瞳は一瞬も動揺の色を見せない。
「……どんな噂だ」
「なっ……何か……声、聞いたとか……誰か見てたとか……色々……」
震える声が、途切れがちに続く。
「あの時……俺も、お前も止まんなくて……。でも、大学ではもう……居場所なくなるかも……」
言葉を吐き出すたびに指先が震える。その悲観的な色を滲ませた横顔を見て、遙が静かに溜め息をついた。
「……そうか」
低い声で呟くと、そっと匠の手を取る。
「……怖いか」
「っ……うん……」
一瞬だけ顔を上げ、すぐに目を伏せた。
「……怖い……」
声と一緒に、手まで震わせる匠。その手を、自分の大きな手のひらでゆっくりと包み込む。
「……大丈夫だ」
短く、しかし絶対的な響き。
「もし大学に居場所が無くなっても……お前の居場所は、ここにある」
「っ……」
琥珀の目から熱い涙が零れる。長い指が、その雫を拭い優しく額を合わせた。
「……お前は、俺が守ると言っただろう」
「元はと言えば、お前のせい……っ」
「誰が何を言おうと……お前が俺の傍にさえ居れば、それで良い」
その低い囁きに、不思議と怒りの感情が落ち着いていく。
「っ、そうかよ……っ!」
涙混じりの声で、僅かに微笑んで見せた。
「……泣くな」
「泣かせてんのは、お前だろ……っ」
弱々しく笑う匠の頭を、そっと撫で続ける大きな手。茶色の髪を梳きながら、静かに目を伏せた。
「……匠」
「何……」
涙で濡れた目を上げる匠に、遙の視線が真っ直ぐに注がれる。
「医務室の事だが……」
低く落ち着いた声。いつもは絶対に崩さない冷静な音が、今は微かに揺らいでいるように聞こえた。
「流石に好き勝手やり過ぎてしまったな……」
琥珀色の目が大きく開く。
「……お前を怖がらせて、追い詰めてしまった……」
言葉を選ぶように、慎重に続ける。
「俺は……お前の拒否を聞かず、自分の欲望だけを何度もぶつけてしまった……」
「は、遙……?」
「……済まなかった」
それは、普段の遙には絶対に無い、静かで重たい謝罪。匠の喉がキュッと鳴る。震える唇が言葉を探し、何度も喉仏が動く。
「ば、バカ……」
ようやく弱々しい声を漏らす。
「そんな顔して言うなよ……」
思わず広い胸板に自分の頭を押し付けた。すぐに強い腕が背中を包む。
「怖かったけど……でも俺……お前が好きなんだよ……。どうしようもなく……」
声が震え、また涙が溢れる。遙は小さく息を吐き、髪に口付けを落とす。
「俺も……お前を愛している」
深く、しかし珍しく掠れた低声。
「……俺から離れるな」
「離れねぇよ……」
遙の腕の中で小さく拳を握り息を吐いた。心臓の鼓動が耳に響いてくる。それは怖いほど大きくて、けれど何処までも安心出来る音だった。
夜。寝室のランプが橙色の光をほんのりと放つ。遙はベッドの上で静かに寝息を整えていた。瞳は半ば閉じられ、何処か色気を漂わせている。
「な、なぁ……」
不意に控えめな声。片目だけ薄く開けると、匠が寝間着の端を指でつまみながらモジモジと身体を揺らしていた。
「……何だ」
低く冷静な声に、匠の顔が一気に真っ赤になる。
「……あ、あの、さ……」
言葉を詰まらせ、唇を噛む。
「今日は……もう、寝る……?」
一瞬考え、ゆっくりと目を開く。
「……お前が寝るのなら、俺も寝る……」
「そっ、そうじゃなくて……!」
真っ赤な顔を両手で覆いながら小さな声で続ける。
「その……お前がどうしてもしたいなら……してもいい……ぜ……?」
息を呑むように言葉が途切れ、肩を震わせる。
「……誘っているのか?」
低く、鋭い問い。
「っ……う、うるせぇ! 最近……全然してなかったし……その……」
指を動かし、視線を逸らす。
「……素直に言ってくれんと、分からんな」
ゆっくりと身体を起こし、顔を近づける。
「何を望んでいるのか……きちんと言葉にしろ」
「っ……!」
唇が震え、喉が詰まる。
「……し、したい……。遙と……したい……」
か細い、しかし確かな声。青灰色の瞳に欲望の火が灯る。
「……よく言えたな」
低く甘い声が鼓膜を撫でる。
「……では、遠慮なく……」
言葉を終えると同時に匠の顎を掴み、深く唇を塞いだ。瞬間、匠の身体がビクンッと揺れる。
「……んっ……!」
唾液とともに舌を絡め、溶かすような接吻。シーツの上に押し倒され、大きな手が胸を這う。
「お前が望んだんだ。抱き潰されても、後悔するなよ……」
「ひぁっ……!」
激しく、しかし優しい、二人だけの夜の幕が降りる。
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