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小康(しょうこう)
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、微睡む匠の頬を柔らかく照らす。
「……っ、ん……」
夢現な意識の中で、昨夜の記憶が段々と鮮明に蘇ってくる。
(……あ、あれ? ……俺……)
脚に残る気怠い感覚と全身を覆う熱の余韻。そして自分から抱き着き、絡み、何度も遙を求めた声。
「……っ、は……はっず……っ!」
一気に顔が真っ赤になり、布団を頭まで引っ張って隠れる。
(ばっ、バカじゃねぇのか俺! あ、あんな恥ずかしい事……っ!!)
その時、微かな香りが鼻を掠めた。おずおずと布団から少しだけ顔を出して覗くと、コーヒー片手に寝室へと入ってくる遙が居た。何故か上半身裸で、下はちゃんと黒のスラックスを穿いた姿。いつも通り涼しげで端正な顔。
(コイツ……マジでイケメン過ぎて、ずりぃよなぁ……)
小さく唇を噛んで再び布団に顔を埋めた。そんな匠の様子に気づいたのか、ベッドに近づいてくる。
「……起きているんだろう?」
低く静かな声に思わず肩をビクリと震わせた。
「……っ、ね、寝てる……!」
「……ふふ。そうか……」
優しく笑う低音。ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりとカップを机に置く。
「……昨夜の続きを御所望か?」
「はっ!? 何でそうなんの……全然違ぇし……!」
更に布団の中へと潜り込む。その様子を見て、遙は片手でそっと捲る。
「……ならば顔を見せろ」
「や、やだ!」
「……お前の可愛い顔が見たい」
色気を含んだ声に心臓が勝手に跳ねる。
「……バカ……」
赤くなった頬をチラッと覗かせると、遙は満足そうに口角を上げた。
「よく眠れたか?」
「超ぐっすり寝た……」
「それは良かった……」
穏やかな低声で囁く。
「しかし……昨夜も最高だった。お前があれ程までに求めてくれるとは思わなかった……」
「うっ、うるせぇっ……! 言うな……っ!」
再び顔を隠そうとする匠に、遙はそっと額に口付けを落とす。
「また、俺を求めろ。何度でも応える……」
「っ……気が向いたらな……!」
上ずった声を上げ、布団に深く潜り込むと全身を小さく丸めてしまった。そっとコーヒーを口にし、静かに微笑む遙。二人を包む朝の光は何処までも優しく、そして甘く染まっている。
リビングへ戻り、ダイニングチェアに腰掛けた遙はコーヒーを一口、静かに口に含む。その青灰色の瞳は、何処か遠くを見つめているようで。しかし脳内では昨夜の乱れた匠の姿が何度も何度も再生されていた。
(……可愛い顔……甘い嬌声……程良く弾力のある脚……。あの脚が、俺の腰に絡み付いてきて離さなかったな……)
汗と涙で濡れた茶色の髪。熱で溶け、潤んだ琥珀色の目。必死に縋り付いてきた、細い腕。
(……あいつの全て、存在そのものが可愛い。可愛過ぎる。反則だろう……)
心の奥底が熱い衝動でひりつく。理性など、疾うの昔に消失してしまった。
(……匠が、あんなにも積極的に俺を求めた。こんな事は初めてだ……。もう今すぐにでも、また……抱き潰してしまいたい……)
コーヒーの苦みが、甘い後味に思えるほどの興奮。無意識にカップの取っ手を強く掴んでいた為、指の関節が白くなっていた。
(……もっとだ。もっと鳴かせたい。もう二度と、俺以外の事など考える暇も与えないくらい……)
「ふふ……」
低く小さな笑いが喉奥で漏れる。
(いっその事、快楽漬けにしてしまおうか……)
不健全な妄想に耽っていると寝室の方から小さな物音が聞こえた。ふっと視線を向け、自然と笑みが零れる。
(……可愛い奴め。お前の全部は、俺だけが独占出来る。お前も、もう俺無しでは生きられない……そうだろう? 匠……)
再び口に運ぶコーヒー。熱い液体が喉を滑ると、胸の奥の熱は益々強くなる。
(……あぁ、待っていろ。今夜も、また沢山可愛がってやる……)
遙の脳内会議は、愛と独占欲と執着が混ざった渦の中で静かに続く。
洗面所で身なりを整え、着替えも済ませた匠は深く息を吐きながらリビングに向かう。スーツを綺麗に着こなし、美しい姿勢で椅子に座った遙が時計を確認していた。
(やば……。相変わらず似合ってんな……)
心の奥でそう思いながらも、不意に表情に陰が差す。
「……会社、行くのかよ」
ポツリと漏れた声は思った以上に小さくて弱かった。すぐに顔を上げ匠を見つめる青灰の瞳が、一瞬でその翳りを察知する。
「……あぁ」
低くて短い返事。普段通りの音なのに、何故かそれが匠の胸に重く伸し掛った。
(……さくの言ってた事……忘れたのか……?)
思い出すたび、喉の奥がキュッと締め付けられる。涙を堪え、ぐっと唇を噛み締めて微かに肩を震わす。
「……匠」
低い声に、ハッと顔を上げる。スーツの袖口を直しながら、遙が静かに近づいてきた。
「……何を考えている」
「っ、な、何も……」
「嘘を吐くな……」
その言葉と同時に遙の冷たい指が、赤く染まって熱くなった匠の頬を冷ますようになぞる。
「……言っただろう。要らん心配はするな」
「で、でも……」
声が震え、慌てて視線を逸らす。遙が顔を近づけ、額をそっと重ねた。
「……必ず帰ってくる」
「っ……」
「何があってもな。俺は約束を守る。お前の事なら、尚更だ」
真っ直ぐに降り注ぐ言葉には嘘も濁りも無い、ただひたすらに重い台詞。匠の喉が詰まり、震える息を漏らす。
「……っ、ば……ばか……」
細く弱い声が吐き出される。遙は小さく笑った後、柔らかい茶髪を優しく梳いた。
「大人しく、良い子で待っていろ……」
「……う、うん……」
「帰ったら……また抱いてやる」
「っ……!」
安堵と羞恥が混ざり、ギュッと拳を握り締め、顔は更に赤くなる。そっと頬に口付けを落とし、玄関へ向かう遙。その背を見送る匠の胸の奥には、温かい何かが広がっていった。
遙を見送った後の玄関で大きく息を吐いた匠はガチガチに緊張しながら拳を握り、扉を開けた。好奇の目、嘲笑を思い出し心臓が嫌な音を立てる。それでも震える脚を無理やり動かし前進。
(……クソ……マジで行きたくねぇ。でも、ここで逃げたら負けだ……!)
やっとの思いで大学に着き、講義室の扉を開けた瞬間。
「おっ、匠ー! おっはよー!」
「よ! 今日はちゃんと遅刻しなかったんだな!」
「……っ、え……?」
思わず固まる。
(……あ、あれ……?)
「そうそう、聞いたか? あの医務室の美人のお姉さんさ、めちゃくちゃヤバい人だったらしいぜ!」
「……え、何それ」
「マジだって! 最近知り合った、めちゃくちゃピアスだらけの陽キャが言ってたんだよ! 医務室でAV鑑賞してたんだって!!」
「マジ!? ガチでヤベェな! てか、クソエロいわ!!」
「なるほどなー! あの喘ぎ声はAVの音声だったのか! ……でもさ、普通はイヤホンなり何なりするよな?」
「それな! 常識的に考えて、エチケットみてーなもんだよなぁ?」
「それでオナニーとかしてたんかな? エッロ!!」
「今度覗きに行こうぜ! ギャハハ!!」
下品な話題で盛り上がる友人。視線が匠に向くが、そこにあるのは冷たい好奇心ではない。
(……な、何で? 何が……どうなってんだ……?)
未だ固まり続けている匠に、友達の一人が肩をポンッと叩く。
「お前も大変だったな! あの保健師さんのせいで変な噂になっちまってよー!」
「え? あ、うん……」
反射的に曖昧な返事をする。しかし脳内はクエスチョンマークでいっぱいだった。
(……? 噂が……変わってる……)
放心したまま席に着くと、友達がペットボトルコーラを差し出してきた。
「まぁ飲めよ。飲んで忘れろ! 今日はもう、全部忘れて騒ごうぜ!」
「あ……あぁ……そうだな!」
(っ……! も、もしかして……)
微かに浮かぶ、眩しい笑顔。何故か直斗の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。無意識に唇を噛む。胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
「……まさか、な……」
誰にも聞こえないように呟くと視線を上げ、渡された常温のコーラを受け取り、周りの笑顔を見渡した。
(でも……何でかな。直斗なら、そういう事しそう……って思っちまうな……)
医務室の保健師に罪悪感を抱えつつ、心に安心の火が小さく灯る。
同時刻、大学の敷地内。人通りの少ない渡り廊下の影に、ひっそりと佇む金髪ショートヘアの青年の姿があった。青いフルジップパーカーと、黒のスキニーを穿いた男。パーカーの紐をクルクルと指先に巻き付け、赤茶色の目が穏やかに遠くを見つめる。
(さてと、そろそろ帰んねーとヤベーなぁ。課題もエグいくらい溜まってるだろうし……)
窓の開いた講義室から漏れる楽しそうな会話を、離れた場所から何となく拾う。
「しっかしあのお姉さん、マジでヤベェなー! そんなに寂しいなら俺が相手すんのにさー!」
「一発ヤらしてくんねぇかなー!!」
「土下座して頼んでみる!?」
「……キモ」
その明るい笑い声の中に匠の呆れたような安堵の音が混ざっていた。それを聞いて、唇が弧を描く。
「……またな、匠……」
控えめに小さく笑うと伸びをして、踵を返し歩き出す。
(やっぱ……あん時無理やりにでも匠とヤっとけば良かったかなー? もったいねー事したかなー? あーダメだ、まーたチンコイライラしてきた……)
遠ざかる後ろ姿に、太陽が白く反射する。
「はぁー、やっと昼だ。腹減った……」
冬の日差しを浴びながら、学食の席にドカッと腰を下ろす匠。目の前のトレーには山盛りの唐揚げ、大盛りの白米、わかめと豆腐の味噌汁、ミニトマトが乗ったサラダ、そして追加で注文したポテトとデザートのプリン。
「お前また凄ぇ量だな!」
「食えるのかよそれ!」
「そんなほっそい身体の何処に入んの!?」
友人達のツッコミが飛ぶが、匠は箸を構えたままニヤリと笑う。
「ナメんなよ。俺は、やる時はやる男なんだぜ。最近ちょっと色々あったし、今日は……とことん食う!」
「……色々って?」
「いやいや、深く聞かない方がいんじゃね? どうせ聞いたって教えてくんねーだろ」
「そ、それもそうか……!」
周りの声など気にせず箸を一気に突き立て、目の前の唐揚げ定食を豪快に食べ始めた。
「いただきます。っ……うめぇ……!!」
口いっぱいに頬張りながら、幸せそうに目を細める。
(食ってる間だけは何も考えずに済むな……)
朔を思い出しそうになったが、今はとにかく食事に集中する事にした。
「あれ? お前、体調悪かったんじゃ……」
「ま、よく食べる子は育つって言うしな……?」
友達が苦笑交じりに見守る中、匠は全ての皿をあっという間に綺麗に平らげた。
「……ごちそうさまでした」
箸を置き、満足げに深呼吸。
(これで、午後も頑張れる……)
口元を手で拭いながら小さく笑う匠の姿は、何処か吹っ切れたように見えた。
午後の講義が始まる少し前。廊下を歩く匠は少し背伸びをしながら深呼吸を繰り返していた。強い陽射しを思い切り浴びて、目を輝かせる。いつもなら講義開始時間ギリギリに入る匠だが、今日は違う。扉を開け、既に友人達の居る付近の席に着く。
「匠のくせに、珍しく早いじゃん!」
「やっぱ腹に入れると違うなぁ!」
「何か今日はやたら気合い入ってんな……どうした?」
複数の友達が冷やかしながらも、笑顔で迎える。
「……うるせぇ。今日の俺は一味違うんだよ」
小さく笑い返す匠。その表情には、ほんの僅かだが自信が戻っていた。
(遙の事が心配だけど……気にしてもしょうがねぇ。今は、俺のやるべき事をするだけだ……っ)
教授が入ってきて講義が始まると真剣な顔に切り替え、ノートを開きペンを走らせる。友達が思わず横目で見て「匠、お前マジでどうした……?」と小声で漏らすほど。筆記音と教授の声が響く午後の講義室。ノートの端に、ちょっとした可愛い猫のイラストを描く余裕もあった。
大学の全講義を終え、深く息を吸い込む。
(……よし、次はバイトだ!)
ここ数日、身も心もボロボロだった自分を思い返す。しかし、それを振り払うようにスマホで時間を確認した後、全力で走り出した。バイト先に着くと緑色のエプロンを身に着けるなり、キビキビと動く。
「いらっしゃいませー!」
「ありがとうございます!」
背筋はピンと伸び、声にも張りがある。
「ふおぉ!? 匠くん、何か今日キラキラしてるねぇ!!」
萌がトレイを持ったまま目を丸くする。
「いや、ていうか、いつもより一段と可愛いんですけど!? 何で!? 遙さんパワー? ……はっ! 遙さんの精力で、元気100倍なのかな!? おほぉぉぉぉぉ!!!!」
萌はテンションMAXで訳の分からない雄叫びを上げ、びっくりした匠はドリンクを盛大に溢しそうになった。
「萌ちゃん、落ち着けよ……」
「尊いが過ぎて昇天しかけた、ごめーん!」
匠が呆れた顔を浮かべ、トレイを持ち直す。
「はぁ……。本当、何言ってるか分かんねぇな……」
一方、カウンターの奥ではアリスがコーヒーマシンを操作しながらクスクスと笑う。
「ウフフ♡ 今日はやる気満々みたいね♡」
「……ま、まぁな……」
「でも、あんまり調子こいてたら……まーた朔たんがアンタを虐めに来るんじゃない?」
「う、うるせぇっ! 今はアイツの話すんなっ!」
怒って噛み付く匠に、アリスは楽しげに微笑む。
「……大丈夫よ。もし来ても、アンタには最低最悪のボディガードが居るじゃない♡」
客からも「今日は元気だね!」「頑張ってるね!」と声を掛けられ、匠は恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに笑う。
(遙……俺、頑張る。だから……お前も無事に帰ってこいよな……!!)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。厨房の奥では萌がコッソリと匠のキラキラモードをスケッチしており、アリスはその様子を「やれやれ♡」と見守っていた。
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