28 / 28
哀願(あいがん)
煌めくガラスに塗れた夜のビル街。街灯の光が、遙のシルエットを細長く伸ばす。
「……ふぅ」
仕事を終え、革靴の音を響かせて歩く。長い指でネクタイを少し緩めて溜め息を一つ。
(匠、今日はどんな顔で迎えてくれるんだ……?)
青灰色の瞳が僅かに細まり、無意識に口角が上がる。自宅マンションへと到着し、そのままゆったりとした足取りでエントランスへ。指先には既に鍵が握られ、エレベーターを待つ間も視線は一点を見つめたまま。扉が開くと同時に乗り込む。
(たかが数秒……されど数秒。永遠と思えるほど長く感じるな……煩わしい……)
すぐに辿り着いた、自室があるフロア。早足で通路を歩き、玄関の鍵穴に鍵を入れようとした……その瞬間。背後から底冷えするような気配。
「……こんばんは、遙」
その声は夜の空気よりも冷たく、鼓膜を刺す。
「また会いに来たよ……」
振り向くと、そこには紫色の長い前髪を揺らす朔が立っていた。鞘に収まったダガーナイフを手に、淡い微笑みを浮かべている。白く細い指先で髪を払う仕草が、相変わらず気取った優雅さを纏う。
「……またお前か」
凶器を一瞥しても、遙の声は酷く冷静。
「まさか……こんな時間に、こんな場所で呼び止められるとは思ってもみなかった?」
朔の唇が僅かに吊り上がる。その表情には深い執着と歪んだ愛情が滲んでいた。
「……何の用だ」
低音の短い問い。
「ふふっ。何の用とは、とんだご挨拶だね。分かってるくせに……」
ナイフを鞘から出し入れしながら嘲笑する朔を見た青灰の瞳からは、鋭い眼光が放たれる。
「ねぇ、遙……?」
朔は一歩、近づく。仄かに柔軟剤の匂いが遙の鼻を掠めた。その香りは甘く何処か懐かしくて。過去の記憶が脳裏を一瞬だけよぎらせる。
「君は、本当に僕と復縁するつもりは無い?」
「……」
「どうせ匠くんは、僕みたいに君を理解する事は出来ないよ? あの子は弱い。ただ震えて、泣いて、媚びる事しか出来ない軟弱者さ。でも……僕は違う。僕は強い。そして……僕だけが、君の理想になれる」
遙の瞳が微かに揺れた。だが、すぐに氷のような冷たさと鋭さを取り戻す。
「……二度と、そんな下らない妄想を口にするな」
低く、地の底から響くような声。朔の唇の端が、ほんの少し下がる。
「……妄想? 違うよ遙。これは妄想じゃなくて、未来の話だよ」
スッと指を伸ばし、頬に触れてこようとする。遙の大きな手が、朔の細い手首を強く掴んだ。
「……触るな。俺に触れて良いのは匠だけだ」
「君は今、僕に触れているけど、それは良いの?」
遙の声は静かだったが、そこには確かな怒りと狂おしいほどの匠への独占欲が溢れていた。
「……あぁ、いいね……その目。変わってない……。昔から大好きだったよ……」
不敵な笑みを浮かべる朔。しかし、紫の前髪の隙間から覗く灰色の瞳には温度が無い。
「……失せろ」
低く短い一言。しばし沈黙が流れ、朔は細い肩を震わせながら笑った。
「……嫌だと言ったら?」
朔は掴まれた腕を振り払い、スーツのシワを伸ばすようにパタパタと叩いてみせる。
「遙……」
「……諄いな」
聞く者の心を凍てつかせるような、冷た過ぎる声を出し、心底辟易しながら朔を一瞥。だが、先程とは打って変わった表情を浮かべている朔に、遙は驚愕した。白く儚く、まるでひび割れたガラスのように脆く揺れている。
「これで最後にするから……聞いて?」
ダガーナイフをポケットにしまうと声を震わせ、喉の奥が詰まったような様子で苦しそうに話す。
「……僕を……抱いて……」
白い指先が遠慮がちに、再度遙に伸びる。
「お願いだよ……最後に、もう一度だけ……」
また一歩近づく朔。美しい微笑が、とうとう崩れた。
「……僕を、愛して……」
大粒の涙が頬を伝い落ちる。その灰色の瞳には全てを諦めたような虚無と、今も燃える未練が混ざっていた。遙は、ただ無言で立ち尽くす。鍵を持つ手が僅かに震え、胸の奥で何かが軋む音がする。
「……はるかぁ……っ」
縋る声が、夜の闇へと溶けていく。
「僕には……君しか居ないんだ……」
か細い声で囁く朔が、今にも壊れてしまいそうなガラス細工のように見える。
「……お願いだよ……はるか……」
朔の白い手が、遙の胸板にそっと触れた。
その頃。匠はリビングでテレビをつけっぱなしにしながらソファに寝転がり、ぼんやりと考え事をしていた。
(遙……遅ぇな。何か、嫌な予感がするぜ……)
心の中で呟き、猫の絵が描かれたマグカップを握り締める。
「……ん?」
その時、玄関の方から咽び泣くような声が微かに聞こえた。
「っ……遙?」
急いで立ち上がり、廊下を小走りに玄関へと向かう。
(……何だよ、今の声……!)
玄関を開け放たれた光景。そこには、深い困惑に染まった顔をした遙と、泣き顔で必死に縋る朔の姿。匠は思わず面食らってしまった。何が起きているのか理解出来ない。しかし、この二人の間に流れる張り詰めた空気に胸が一気に重くなる。
(……コイツが……あの、さく……?)
チラリと見やり、その雰囲気の中で漂う朔の、遙への病的な執着心が見えた気がした。
「ぁ……っ……!」
震えた声を漏らし、バツが悪そうにする朔を見た後、匠はゆっくりと睫毛を伏せて溜め息を吐いた。
「……ここ、名義人は俺じゃねぇけど……」
静かに、呆れたように言う。
「とにかく入れよ。近所迷惑だろ……」
背筋は伸び、琥珀の目にはしっかりとした意志が宿っていた。朔の涙と、遙の重苦しい沈黙。匠は肩を竦め、廊下の奥へ向かおうと、ゆっくりと歩を進めた。
「……入んねぇの? ずっとここで泣いてんのか? それとも……とっとと消えるか?」
言葉そのものは強いが優しさ、というより同情のようなものが混じる。匠の一言に、朔はしばらく呆然としていた。ポロポロと流れる涙の奥で、大きく揺らぐ灰の瞳。
「お……お邪魔します……」
薄く微笑む朔。その笑みは歪で、何処か儚げだった。
匠は二人を部屋の中に促す。廊下からリビングに移動すると空気がより一層重くなる。ソファの前で立ち尽くす三人。誰も言葉を発さない。つけっぱなしのテレビを消すと、余計に静寂に包まれる部屋。
(……何だよ、この空気。テレビ消さなきゃ良かったぜ……)
匠は心臓を押さえるように息を吸い込む。朔は立ったまま、濡れた睫毛を伏せると小さく震えた声で「ありがとう」と呟いた。遙は無言のまま、拳を握り微動だにしない。
(おい、遙……何て顔してんだよ……)
匠は横目で遙の表情を盗み見る。そこには、普段の余裕と冷徹さが無い。
(くそ……何なんだよコイツ……)
匠の胸の奥がチクリと痛む。一方で、朔は小さく揺れる肩を両手で押さえ込んでいた。
「でも……どうして。……僕、ここに居て良いの……?」
ポツリと零れた朔の声。誰に向けた言葉か分からない、弱々しい問い掛け。沈黙が、更に重たく深くなっていく。
(あーもう。マジで、めんどくせぇ……)
匠の喉奥では熱と冷たさがせめぎ合う。言いたい事は山ほどある。けれど、この異様な空気では何も言えない。誰も声を出さない重い沈黙の中、匠が流れを変えるように大きく息を吐いた。
「はぁ……」
立ち尽くす二人をゆっくりと交互に見つめる。未だ困惑の色を滲ませる遙と、弱々しい朔の姿。匠は小さくフッと笑う。
「ったく……お前ら大人同士だろ?」
その声はいつもより低く、けれど妙に落ち着いていて。
「……積もる話も、色々あんだろ……」
ポンッ、と軽く遙の広い背を叩くと、匠は玄関の方へと向かい歩き出した。
「……待て、何処へ行く」
すぐに遙が動き、後ろから匠の腕を掴む。その手は力強い。
「ちょっと、その辺、散歩してくる」
ゆっくり振り返り、腕を掴む遙を見つめる。
「俺が居たらお前も、さくも、話し辛ぇかな……と思ってよ。だから空気読んでやってんだ。分かったか、このバカ! あと……お前の事……信じてるから」
一瞬、青灰色の瞳が大きく見開かれる。それを見た匠は小さく唇を噛み、無理にでも笑みを作った。
「……いい加減、決着つけろよ」
琥珀の目を伏せ、深呼吸。
「男なら、戦え! んで、勝って一緒に笑おうぜ……」
そう言うと腕を振りほどき、再び歩き出す。
「もう、疑わねぇ。お前の事、信じるって決めたから……」
背を向けたままの、その声は震えていたが、それでも力強く室内に響いた。
「……っ、匠……」
遙は再度手を伸ばすも掴むことは出来ず、ただその小さな背を見送るしかなかった。そのやり取りを見ていた朔は微かに口元を震わせ、寂しげに俯く。
匠の背中が扉の向こうに消えた瞬間、再び訪れる重い沈黙。時計の針の音が、この沈黙を強調するかのようにやたらと耳に残る。リビングの中央で立ち尽くす遙と、その前で少しだけ距離を取って立つ朔。震える指先を胸元で絡め、握り締めている。
「……ずっと、ずっと考えてたんだ……」
掠れる声で、やっと朔が口を開いた。
「君と一緒に過ごした時間……。あれは、僕にとって唯一無二の……救いだった……」
涙が、白い頬を伝う。
「でも、僕は……本当の君を拒絶してしまった。あの時の僕は……どうかしてた。君を愛せる自信が無いと……そう思ったんだ……」
視線を上げると、そこには一切表情が変わっていない遙が視界に入った。
「……でもね……」
そんな彼に怯む事なく近寄る朔。
「……今は違う。本当に、あの頃の僕は間違ってた。君を理解出来るのは、僕しかいないって……今なら本気で、そう思えるんだ……」
細く掠れた声。それでも途切れる事なく言葉は続く。
「……君が匠くんと歩いているところを見た時から、何度も何度も思った。どうして君の隣に居るのは僕じゃないのか。どうして僕は君に別れを告げてしまったのか……って」
細い肩が小刻みに揺れる。
「……僕は……やっぱり、君を愛してる……」
手が、そっと頬に伸ばされる。
「……今でも、ずっと……ずっと、後悔してるんだよ……遙……」
その指先が、肌に触れた。だが遙は動かない。青灰の瞳には何の揺らぎも映らない。灰色の瞳に、更に大きな涙が溢れていく。
「……ねぇ、遙? 僕は、ずっと君を愛してる。今でも……誰よりも……っ」
その告白を受け止めているのかいないのか、無言を貫き立ち尽くしている。
「……僕、は……」
朔の声が途切れがちになった。
「何なら、二番目でも……いいんだ……」
嗚咽が混ざった吐息とともに溢れ出る言葉。
「……あの子の次で……いいから……っ」
絶え間なく零れ落ちていく涙。白く細い指が遙の頬に優しく沈む。
「……二番目でいい……僕を……」
喉が詰まり、奥で震える。
「……僕を、傍に置いてよ……」
声は更に割れ、壊れそうな音に変わった。しかし遙は依然、ただ黙って朔を見つめ続けていた。その眼差しは怒りでも悲しみでもない、冷たい湖面のようで。手が届くほど近くにいるはずなのに、限りなく遠く感じる。
「……はるか……っ」
声が消え入りそうに小さくなった。
「……お願いだよ……っ」
頬を濡らす涙を拭うこともせず、細い身体を震わせ懇願する朔を見ても、眉一つ動かさない。沈黙が言葉よりも残酷に響き、胸を抉る。そして、ようやく遙が重い口を開いた。
「……もう……既に終わった筈だ……」
静かで低く、穏やかな声色。
「俺は……匠しか要らん。匠しか、欲しいとは思わん。匠以外……」
その瞬間だった。
「はるかっ……!」
朔が更にもう一歩踏み出し、両手で遙の頬を優しく包む。涙に濡れた瞳を閉じると同時に、重なる唇。
「っ……!?」
青灰の瞳が大きく見開かれる。
「ご……ごめん……。ごめんなさい……っ」
小さく震え、何度も謝罪の言葉を繰り返しながら必死に遙の唇を塞ぐ。身体は細く、壊れそうなくらい脆く儚いのに、今だけは何故か不思議な力が宿っているようだ。
「……遙……っ……!」
涙が遙の頬を濡らし、震える指が長い銀髪に絡む。抵抗せず、その身を動かさなかった遙。虚無感漂う視線で目の前の朔を見据え続ける。その温度は、朔の必死な熱とは対照的に、あまりにも冷たかった。
(……あの日に終わったんだ。全て、何もかも……)
青灰の瞳が、そう語っていた。朔は震える身体を支えきれず、その場に崩れ落ちる。
「……分かってたよ……」
涙で濡れた頬をひくつかせ、掠れた声で言葉を吐き出す。
「……分かってた。遙は、もう僕を……見ていないって……」
白い指が、紺色のネクタイをギュッと掴む。
「でも……でも……っ」
喉から、切り裂くような音が零れる。
「今日だけでいい……今夜だけでいいから……!」
朔の声が、夜の静寂に鋭く刺さる。
「お願いだよ遙! 僕を……愛して……っ……!」
泣き喚きながら絞り出した懇願の声。涙は止まらず、肩は小さく痙攣している。悲痛な泣き声が部屋に響き渡る中、遙はソファの背にゆっくりと腰を沈め、長い脚を組んだ。声は一言も発さずに朔を凝視する。まるで、目の前の獲物を品定めするかのように。
「お……お願い……僕は……ずっと……ずっと、君を……!」
嗚咽とともに言葉が崩れ落ち、声にならない声に変わっていく。啜り泣く音を遮断するかのように、遙が低く、静かに口を開いた。
「……ならば」
泣き崩れていた朔が、パッと顔を上げる。涙で潤んだ灰の瞳が、徐々に見開かれていく。
「……っ……遙……?」
目の前の男はゆっくりと顎に手を当て、その青灰色の瞳で真っ直ぐに朔を射抜く。
「お前は……俺を満足させられるのか?」
深く、鋭く突き刺す低声。情など一切含まれていない、冷たい刃のよう。朔の身体は一瞬強張るも、唇を薄く開けて答える。
「……勿論……」
声量は控えめでも、その中に宿っているのは狂おしいほどの大きな執着と決意。ゆっくりとスーツを脱ぎ、ネクタイを解き、ワイシャツのボタンに細い指を掛けた。
「僕は……君の理想になれる。僕だけが、君を満たす事が出来るんだ……」
念じるように呟きながら、震える指でボタンを一つずつ外していく。肩から滑り落ちる布。朔の白い肌が夜の冷たい部屋の中で無防備に晒される。最後のボタンを外し終えると朔は赤くなった顔を隠すかのように、僅かに俯く。しかし、髪の間から覗く灰色の瞳が期待の色に染まっていた。
「……僕を……使って……?」
小さく甘えた声で誘惑してくる朔を、尚も冷たい瞳で見つめ続ける。その視線は情け容赦なく、ただ虚ろな目で深淵を覗くよう。
「……朔」
色気のある低声が鼓膜に届くと小さな肩を震わせ、細い喉が音を立てて唾を飲み込む。
「遙……」
一糸纏わぬ朔の声は、酷く官能的だ。
ともだちにシェアしよう!

